天下算用 ~彦坂元正、地を喰らう~

秋澄しえる

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第五章

第五章 岡津の土、風の声

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 岡津の陣屋の粗末な一室。灯明の心細い炎が壁に映る男たちの影を長く揺らし、暗く不吉な気配を漂わせていたが、彦坂元正の雄叫びが鬨の声のごとく闇夜を震わせた。

「彦坂流大検地だわい!」

 その余韻が、冷え切った部屋の隅々にまで染み渡る。藤七をはじめとする数名の腹心たちは、驚きと戸惑いを顔に浮かべていた。彦坂が何か途方もなく胸のすくような大法螺を吹いた時のいつもの表情であった。

「彦坂様、その『彦坂流大検地』とやら一体どのようなものにござりますか」

 藤七がおそるおそる口を開いた。

「三河での検地とは異なるものなのでございましょうか。あの折も我らは骨身を惜しまず働きましたが」

 他の者たちも固唾を飲んで元正の言葉を待った。この彦坂元正という男は、時として常人の理解を超えることを言い出したあげく本当に成し遂げてしまう、そんな得体の知れない力を持っている。

 元正は腕を組み、揺れる灯明の炎をじっと見つめていた。やがて、ゆっくりと顔を上げる。その瞳には不敵な光と凄まじい熱気が宿っていた。

「おうよ、違うともよ。三河でのやり方は、いわば手習いのようなもんであったわ」

 元正は両手を大きく広げて言葉を続けた。

「あの時はまだ、勝手知ったる故郷の土じゃった。じゃが、この関東の、それも北条が百年という長きにわたり根を張り巡らせたこの相模の地で、同じ手が通用すると思うかや。我らがこれからやるのは、ただ田畑の広さを測り石高を改めるだけの生ぬるい検地ではないわい」

 元正は立ち上がり、部屋の中を、落ち着かぬ獣のように行ったり来たりし始めた。

「この土地の土の匂い、水の味、風の声、そして何よりも、そこに生きる百姓一人ひとりの息遣い、その腹の底にある喜びも悲しみも怒りも諦めも全部全て残らず写し取る!そんな前代未聞の大検地じゃ!」

 元正の声は大きくはなかった。しかし、言葉の一つ一つには聞く者の魂を鷲掴みにするような不思議な力が込められていた。

 配下たちは息を呑んだ。それはあまりにも壮大で、困難極まる、途方もない構想であった。そんなことが人の力で本当に可能なのか。だが彼らは同時に、この常軌を逸した夢を熱く語る主君の瞳に抗いがたい魅力を感じずにはいられなかった。この男ならば、本当にこの不可能事を成し遂げるやもしれぬ。そんな信仰に近いような期待が胸の奥底から湧き上がってくるのを感じていた。

「途方もない…いや、恐ろしいとさえ思えるお考えにございますな」

 藤七が感嘆の息を漏らした。

「じゃが、彦坂様のおっしゃることが成れば、この荒れ果てた相模の地も人が笑って暮らせる土地になりましょうぞ」

「うむ。道は、千里の先じゃがな」

 元正は横目で藤七を見遣り、不敵な笑みを浮かべた。

「覚悟はええかや、者ども」



 夜が明け、岡津の陣屋に冷たい秋の朝陽が差し込み始めた。元正は早速、その途方もない計画の第一歩を踏み出した。

「さて、まずはこの岡津の土からだわい。百姓たちの声を聞き、彼らの暮らしぶりを、この目で、この肌で、しっかりと感じ取らねば、何も始まらんよ」

 元正は馬に飛び乗り、藤七らわずかな供だけを連れて、陣屋の粗末な門を勢いよく駆け出していった。その背中は力強く、どこか楽しげでもあった。

 だが、元正の燃えるような意気込みとは裏腹に、岡津での「彦坂流大検地」の船出はいきなり激しい逆風に見舞われることとなった。

 旧北条家の家臣や、この地に古くから勢力を張る土豪たちの抵抗は、元正の予想を遥かに超えて執拗かつ巧妙であった。彼らは、表向きは徳川の新支配に恭順の意を示し、元正の配下の役人たちにも愛想よく応対しながら、裏では検地役人に偽りの村絵図を提出したり、百姓たちを脅して本当の収穫量を言わぬよう口を封じたり、検地帳面を破損させたり、測量に使う竿や縄に細工をしたりといった陰湿な妨害を繰り返した。

 三村という村での検地の最中、年配の村民が家の前で腕を組み、苦虫を噛み潰したような険しい表情で立ちはだかっていた。元正が村絵図を広げ、測量のための縄を手に近寄ると、男は地面に唾を吐きかけるように荒々しく言った。

「三河の田舎侍ごときに、我ら関東武士が代々命を懸けて守ってきたこの土地の深さが分かってたまるか。せいぜい空回りして、江戸の殿様に泣きつくのが関の山よ」

 このような、あからさまな嘲笑と侮蔑の声が、風に乗って元正の耳に届くことも一度や二度ではなかった。

 言葉の壁もまた、依然として大きな障害であった。元正や藤七たちが話す、泥臭くも温かみのある三河の言葉は関東の者たちには聞き取りにくく、しばしば誤解や意図せぬ反感を生んだ。逆に、関東の者たちの早口で喧嘩を売っているように聞こえる、荒っぽい言葉遣いは元正たち三河者には威圧的に感じられ腹を割っての真の意思疎通を妨げる一因となっていた。

「あの村の名主、何やら顔を真っ赤にして、唾を飛ばしながらやいのやいのとまくし立てておりやしたが、結局何を言いたいのか半分も分かりませなんだ」

 検地から戻った若い配下が首を傾げ、心底途方に暮れたという顔で報告した。

「ただ、何度も何度も『でえこん、でえこん』と申しておりました故、あれは、我らに大根でも寄越せと申しておったのでございましょうか」

 元正は、顎の無精髭を撫でながら、苦笑いを浮かべた。

「『でえこん』とは、おそらく代官のことだろうよ。あれは、わしらのことをさんざん悪し様に罵っておったのじゃろうな」

 そんな八方塞がりの状況が続く中、旧北条家臣の原彦右衛門が岡津の陣屋を訪れた。彼は北条時代に高座郡の代官を務めていた男で、元正が岡津に着任した当初、道で出会った人物であった。

「お呼びとあらばと、罷り越しました」

 原は、元正に対し硬い表情で会釈した。その顔には、警戒心と、元正という男への尽きぬ好奇心が複雑に混じり合っていた。

「頼みたいことがあるんじゃ、原殿」

 元正は、いつもの不敵な笑みを浮かべて、そう切り出した。

「そなたは、北条の時代から相模の地を知り尽くしておる。百姓たちの言葉も、土地の風習も、隅々まで熟知しておろう。わしに、ちいとばかし、その力を貸してはくれんかや」

「わたくしに、力を、と仰せられますか」

 原は、驚いたように眉を上げた。

「北条の旧臣であったこのわしに頼み事をなさるとは。彦坂殿は噂に違わぬ、大胆で常識外れのお方のようでござるな。日頃より、その型破りな検地のやり様は聞き及んでおりましたが」

 元正は、あっけらかんと笑って答えた。

「わしは別に、徳川の旗印を関東の隅々まで立てるためだけに来たわけではないわい。この荒れ果てた相模の地を再び、人が安心して暮らせる豊かな土地に戻したい。ただ、それだけのこと。北条様が治めようが、徳川様が治めようが、民が飢え苦しむ世なれば悪政というもの。そなたも、本当は同じ考えであろうが」

「…なぜ、それがしが、そのような考えを持つと、お分かりかな」

「あんたの目じゃよ」

 元正は、原の目を射るように真っ直ぐに見据えた。

「そなたの目は、まこと民を思う者の目じゃ。じゃからこそ、北条家が滅びてなお、この相模の地に残り苦しむ民を見捨てずにおる。そうではないかや」

 魂の奥底まで見透かすような元正の言葉に、原はしばし黙り込んだ後、ふっと小さく、しかしどこか吹っ切れたような笑みを浮かべた。

「…見抜かれたようでござるな。いかにも。それがしは民のために、この地に残った。彦坂殿、あなたの検地は、他の徳川の代官たちのそれとは、やり方が違うと聞く。土地をただ召し上げるためではなく、真に民の声を聞き、彼らの暮らしを良くするための検地である、と」

「その通りだわい。わしの算用は民あってこそのものじゃでな」

「ならば、もはや見て見ぬふりはできませぬな。その『彦坂流大検地』とやらに、微力ながらこの身お貸しいたそう」

 そして、原は付け加えるように言った。

「ですが、それがし一人では、お力になれることも限られておりまする。岡津には島田と申す下役人がおるはず。彼奴も、北条時代からの古参で、この辺りの村々の内情には誰よりも通じております。あの者を加えれば、必ずや彦坂殿のお役に立てましょうぞ」

 こうして、元正の検地の組に、原彦右衛門と島田という、二人の頼もしい地元の協力者が加わることとなった。

 彼らの持つ豊富な知識と、地元での確かな信頼は、徐々にではあるが、頑なだった村人たちの心を解きほぐし始めた。

 村の名主たちは、最初こそ、強い警戒心を見せていたものの、元正の誠実な態度と、旧知の仲である原たちの保証があるからこそ、少しずつ本音を語り始めるようになっていったのである。

「おい、藤七」

 ある日のこと、元正と藤七が、検地を終えて陣屋へ戻る道すがら、元正は、不意に藤七に問いかけた。

「風魔という者たちのこと、その後なにか聞こえてきたかや」

 藤七は、その名を聞いた途端、びくりと身を硬くした。

「い、いえ」

「あやつらは、どうやら今も相模の山深くに潜んでおるらしいわ。先程、原殿がそう申しておった」

「まさか…我らの検地の邪魔をしておるという、あの良からぬ輩も、もしや…」

 元正は、静かに首を横に振った。

「いや、まだ分からん。じゃが、何かがおかしいのは確かじゃ。村人たちは皆、風魔の名が出ると途端に口が重くなる。あれは、ただ恐れておるだけなのか、それとも何か別のよほど深い理由でもあるのか…」

 藤七は、周囲に人がいないことを確かめるように見回し、声を潜めて言った。

「北条が滅びた今、彼らは一体、何を考えておるのやら…」

「それを探り出すのも『彦坂流大検地』の大事な目的の一つじゃわい」

 元正は、茜色に染まり始めた西の空を見上げ、そう呟いた。

「この相模の地に隠された闇を、一つ残らず白日の下に晒さねばならんのじゃ」



 八方塞がりの状況であった元正の岡津での仕事であったが、原と島田の協力を得て、ようやく光明が見え始めた矢先のこと。江戸から、一人の若武者が、数人の供回りのみを連れ長旅の埃にまみれた姿で岡津の陣屋を訪れた。

「義兄上、お久しゅうございます。澤邊宗三直久、ただいま馳せ参じました」

 陣屋の門前に、見事な葦毛の馬を静かに乗り付け、その背筋を真っ直ぐに伸ばし、涼やかな芯の通った声で名乗ったのは、元正の妹の夫、すなわち元正にとっては義理の弟にあたる澤邊宗三直久であった。

 年は三十歳。細面で、涼やかな切れ長の目元には、純粋な光と共に物事の本質を鋭く見抜こうとする深い知性が宿っていた。元正の豪放な性格とは対照的に、物静かで思慮深く、常に冷静沈着な男であった。だが、その物静かな胸の奥には、一度引き受けたことはいかなる困難が待ち受けていようとも最後まで必ずやり遂げるという、鋼のような強い意志を秘めていた。

 三河時代には、元正の下でいくつかの堰の普請や城下の区画整理といった仕事を手伝い、その卓越した実務能力と清廉にして実直な人柄を、元正は誰よりも高く評価していた。

「おお、宗三か!よう来てくれたわい!」

 元正は、陣屋中に響き渡るような大声で宗三の名を呼ぶと、幼子のように喜びを隠しきれない様子で駆け寄り、その肩を力強く何度も叩いた。

「まさに、旱天の慈雨!地獄に仏とはこのことじゃわい!首を麒麟のように長くして、おみゃあの来るのを今か今かと待ちわびておったぞ!」

 この荒涼とした関東の、まるで四面楚歌とも言うべき困難な状況の中で、気心の知れた有能な身内に出会えた喜びは、元正にとって何物にも代えがたい乾いた喉を潤す甘露のようであった。

 澤邊宗三直久は、徳川家康の特別な計らいにより、彦坂元正の補佐役として岡津の地へ派遣されてきたのであった。彼は、元正の、時には言葉足らずな指示の奥にある真意を的確に理解し、持ち前の高い実務能力と関東の言葉や風習に対する柔軟な適応力で、たちまちのうちに混沌としていた岡津の陣屋に新しい風と確かな秩序をもたらした。

「義兄上、この岡津の陣屋、一通り拝見いたしましたが、あまりにも手狭にして、防備もまた、無きに等しゅうございますな」

 宗三は、岡津に到着するなり、早速、実務家らしい鋭い切り口で話し始めた。

「これでは、日々の政務を滞りなく執り行うにも、また万が一、不逞の輩が襲来した際に備えるにも心許ないことございませぬ。まずは、この陣屋を拡張し、その周囲に最低限の堀と土塁を巡らせ、政務を執るための庁舎と我らが寝起きするための長屋を早急に建設する必要がございましょう」

 彼は、懐から何枚かの巻き物を取り出し元正の前に広げて見せた。

「某に、その差配の一切をお申し付けくだされ。江戸を発つ前に、義兄上のお考えを推し量りいくつかの図面は既に粗方引いてまいりました故」

 元正は、満足そうに頷き、思わず手を叩いた。

「さすがは宗三じゃ。いつも、わしの考えの先を読んでおるわい。して、民の暮らしのことはどうじゃった」

「それにつきましても、道すがら、いくつか視察してまいりました」

 宗三は、よどみなく言葉を続けた。

「この岡津近隣の村々をいくつか見てまいりましたが、先の小田原での戦乱と、その後の放置により、用水路の多くが土砂で埋もれ、あるいは堤が崩れ落ち多くの田畑が慢性的な水不足に喘いでおりました」

 彼は、すっと人差し指を立て、静かに、しかし力強く強調した。

「これでは、いくら検地を行って石高を改めようとも、実りある年貢は望むべくもございませぬ。小規模ながらも早急に用水路の浚渫と改修、そして、いくつかの村には新たな溜め池の普請を行うべきかと愚考いたします」

宗三は、元正の目を真っ直ぐに見据えて言った。

「民の信頼を得るためには、まず、彼らの日々の暮らしを、目に見える形で楽にすることから始めねば、検地への協力も、そして徳川様への真の帰順も全ては絵に描いた餅となりましょうぞ」

 澤邊宗三直久は、岡津に着任するなり、わずか数日の間に、元正が抱える無数の問題点を一つ一つ正確に指摘し、それに対する具体的な解決策を理路整然と提案したのであった。その冷静な分析力と常に現実を見据えた実行力は、理想や感情にやや走りすぎるきらいのある元正にとって何よりも頼もしい、そして耳の痛い諫言役となった。

 元正は、二つ返事で陣屋の整備と岡津周辺の村々の生活基盤の整備の一切を宗三に一任した。そして、いよいよ「彦坂流大検地」の具体的な準備に全精力を注ぎ込むことになったのである。

「ええか、宗三」

 元正は、夜ごと灯明の揺れる薄暗い陣屋の一室で、宗三に対し熱く繰り返し語った。

「わしらが、これからやろうとしとることは、ただの検地ではないのだ。この関東の荒れ果てた大地に、新しい世の『算用』という名の大きな種を蒔き、百年先、いや二百年先までもどっしりと根を張る大樹に育てる、そういう仕事なんじゃわい。そのためにはな、この土地に生きる一人ひとりの百姓の顔が見えるような、彼らの喜びも悲しみも共に分かち合えるような、そんな、血の通った検地をせねば何も始まらんのじゃよ」

 元正の瞳は、まるで無垢な子供のような、純粋な輝きを放っていた。

 元正が江戸へ出府し、家康への定期的な状況報告や、他の代官頭たちとの関東経営に関する評定に出席したり、あるいは板倉勝重と共に江戸の町割りの相談を受けたりする際には、宗三が岡津の留守居役として、陣屋の差配の一切や近隣の村々との折衝、そして「彦坂流大検地」のための基礎調査の指揮を一手に引き受けた。

 彼の冷静沈着な態度と理路整然とした話しぶり、そして何よりも実直にして清廉な人柄は、元正とはまた異なる種類の威厳をもって地元の有力者たちからも一定の敬意を払わせるに十分であった。藤七もまた、この頼もしい義弟の登場を心から喜び、彼を兄のように慕い、その手足となって岡津の陣屋を懸命に切り盛りした。

 宗三の岡津への到来、そして原と島田という地元協力者の出現によって、元正の「彦坂流大検地」はようやく確かな進展を見せ始めたのであった。

 だが、元正たちの前途に横たわる闇は決して浅くはなく、その広がりは彼らの想像を遥かに超えるほどに大きなものであった。

 相模国内には、なおも徳川の支配を快く思わぬ旧北条の残党や、この混乱に乗じて私腹を肥やそうと企む悪辣な土豪たちが数多く息を潜めていた。そして彼らの背後には、しばしば「風魔」と名乗る、その実態すら定かではない謎の集団の影がちらついていたのである。

 元正の検地の動きが本格化し、そして宗三による陣屋の普請や用水路の改修が目に見える形で進み始めると、岡津の陣屋周辺では不可解にして悪質な妨害工作が頻発するようになった。

 夜陰に紛れて、検地帳面が、何者かによって鋭い刃物で切り裂かれ、あるいは水桶に投げ込まれて破損させられる。検地に使われる測量竿や縄が、巧妙に狂わされる。検地役人の間に互いの不信感を煽るような、根も葉もない偽の情報が流される。検地に協力的であった村の名主の家の納屋に火が放たれた。陣屋普請のために集められた、大量の木材や漆喰といった資材が一夜にして忽然と姿を消した。さらには、元正の配下たちが村々を見分して回る山道に、巧妙に隠された落とし穴が掘られ、検地役人の寝所に毒を持つ百足が放たれるといった陰湿極まりない事件も起こった。

 これらの妨害工作は、いずれも犯人の特定が極めて難しく、その手口は素人のそれではなく、高度な隠行の術や破壊工作の訓練を受け、この土地の地理や人の動きを熟知した専門の集団によるものであることは明らかであった。

「風魔…」

 元正は、薄暗い部屋の中で、一人、そう呟いた。

「小田原で藤七が遭遇したという、あの影の者どもか。奴らは一体何を狙っておるのじゃ!我らを相模の地から追い出すことか。それとも、もっと大きな、何か得体の知れぬ目的でもあるのか。あるいは誰ぞに操られて狼藉を働いておるのか。このままでは検地どころか我らの命さえも危ういことになるやもしれんぞ…」



 原彦右衛門が、ある夜、密かに陣屋を訪れた際、元正は意を決して風魔の話を持ち出した。

「原殿、『風魔』について、何か知っておることがあれば教えてはくれまいか」

 原の表情が、わずかに強張った。

「…困りましたな、彦坂殿。その名を、うかつに口にするだけで災いを招くと、この辺りでは古くから言い伝えられておりまする故」

「ほう、なるほど。それほどまでに恐れられておるというわけか」

「恐れられていると申しますより、むしろ、畏敬の念を持たれていると申すべきやもしれませぬ。彼らは、山の民、影の衆。北条家が関東に盤踞した百年の間、その影にあって北条を支え、歴史の裏舞台から天下の動きさえも操っていたとも、そう噂されておりまする」

「まことか、それは」

 原は静かに首を横に振った。

「いずれも噂や伝聞ばかりにございます。彼らは人知れぬ深山に潜み、決してその姿を表の世界に晒すことはございませぬ。もし、その姿を見たという者がおったとしても、その者はほとんどの場合生きて里へ帰ることは叶わぬと…」

「それほどの者たちが、なぜ今、我らの検地を執拗に妨害するのじゃ」

「それが、それがしにもとんと見当がつきませぬ」

 原は、声を一段と潜めて言った。

「ただ、一つだけ確かなことがございまするとすれば、風魔は決して一枚岩ではないということ。いくつかの派閥があり、時には互いに激しく争うこともあると聞き及びます。それぞれに名のついた隠れ里が、この箱根や丹沢の山中に複数存在するという噂も古くからございます。そして、それらの里同士の関係もまた極めて複雑怪奇であるとか」

「山の民の内輪揉めというわけかや」

 元正は、眉を寄せた。

「じゃが、それが、なぜ、我らの検地と関わるというのじゃ。奴らが、何かよほど、我らに知られたくないものでも、この相模の地に隠し持っておるというのか…」

 元正の心に言いようのない不気味な影が差し始めていた。それは、戦場で槍を交え太刀を振るって敵と正々堂々対峙するのとは全く質の異なる、得体の知れない敵への原始的な恐怖であったのかもしれない。



 その頃、相模の国、箱根山系の奥深く。人を寄せ付けぬ険しい山々に囲まれ、一年を通して常に深い霧に覆われた谷間に「不知火(しらぬい)の沢」と呼ばれる風魔の隠れ里があった。

 そこは、風魔一党にいくつか存在すると言われる拠点の中でも、特に秘匿性の高い場所の一つであり、外界とは完全に隔絶された深い静寂と、どこか物悲しい美しさを湛えた場所であった。

 鬱蒼とした常緑樹に四方を固く閉ざされ、陽光さえもほんのわずかしか差し込まぬ薄暗い沢筋に、風雪に耐え抜いた堅固な茅葺きの家々がひっそりと点在していた。

 この里は、風魔の中でも比較的穏健な考えを持つ者たち、あるいは、古い時代の掟を頑なに重んじる者たちが肩を寄せ合うようにして集まる場所であった。その長老格である玄斎という名の老人が、時には厳しく、しかし常に慈愛に満ちた統率力で、この小さいが結束の固い共同体を治めていた。

 沙耶は、小田原城での母・桔梗の非業な死と、そして風魔の者たちによる九死に一生を得る形での救出から既に数ヶ月の時を、この「不知火の沢」、すなわち母の生まれ故郷である隠れ里で過ごしていた。彼女は、風魔の者たちに、ある意味では囚われるように、しかし同時に、まるで壊れやすい秘宝であるかのように、この上なく手厚く匿われるようにして静かに暮らしていた。

 沙耶は、この異様な、しかしどこか懐かしいような生活に、少しずつではあるが順応し始めていた。沢の男も女も、そしてまだ幼い子供たちまでもが山鳩色か濃藍の地味で粗末な着物を身にまとい、厳しい掟と言葉にされぬ重い緊張感の中で、息を殺すかのようにひっそりと暮らしていた。彼らは夜明けと共に起き出し、武術や隠行術、薬草の調合、鳥獣を捕らえるための罠の掛け方といった、この厳しい自然の中で生き残り、そして風魔としての使命を果たすため必要な技術の修練に日々明け暮れていた。

 その顔には、喜怒哀楽といった人間らしい感情はほとんど見られず石仏のように無表情であった。だが、沙耶に対してだけは特別な、畏敬と憐憫の情が複雑に入り混じったような不思議な眼差しを向けるのであった。

 沙耶は、沢の者たちから、いつしか「姫様」と呼ばれるようになり、谷間の一番奥まった、清らかな沢の流れを見下ろす、守りが最も堅固な一軒の家に大切に住まわされていた。その家は小さいながらも清潔に保たれ、彼女の身の回りの世話は、母・桔梗と同年代と思われる卯女という名の口数はの少ないが常に温かい眼差しを持つ女と、数人の若い女たちがまるで影のように付き従い甲斐甲斐しく行っていた。

 食事もまた、山で採れた獣の肉や清流で獲れた川魚、木の実や山菜といった素朴なものばかりであったが、常に沙耶の分だけは、特別に吟味され丁寧に調理されているのが常であった。

 しかし、どれほど手厚く遇されていようとも、沙耶の心から小田原城での悪夢のような記憶が消え去ることは決してなかった。夜ごと、母がおびただしい血にまみれて倒れ、自分に「生きよ」と、か細く囁いた、あの最後の光景が鮮明な悪夢となって彼女を襲い、悲鳴を上げて飛び起きることも度々であった。そのたびに、枕元に控えていた卯女が何も言わずに沙耶の震える背中を優しくさすり、子守唄のような古い旋律の歌を低い声で口ずさんでくれるのであった。

「母様…なぜ、あのような酷い目に遭わねばならなかったのですか…」

 沙耶は誰に言うともなく独り言を呟いた。

「あの憎い督姫。そして、父上と、わたくしたち北条の全てを滅ぼした、あの豊臣めも。その手先となって我らを苦しめた徳川のものどもも。みんな許さない。いつか必ずこの手で…!」

 沙耶のまだ幼い心の中では、激しい憎悪の炎が消えることのない野火のように赤々と燃え盛っていた。同時に、自分を死の淵から救い出し今もこうして匿ってくれている風魔の者たちに対しては、感謝の念とどこか拭いきれぬ不信感と、そして彼らの目的への尽きせぬ疑念とが複雑に入り混じった割り切れぬ想いを抱いていた。彼らは、一体なぜ自分をこれほどまでに大切に扱うのであろうか。自分に一体何をさせようとしているのであろうか。

 そんな沙耶の心の鬱屈をわずかながらも晴らしてくれるのは、不知火の沢の厳しくも美しい自然と、彼女の内に秘められた抑えがたい天真爛漫な明るさだけであった。

 彼女は、世話役である女たちの心配そうな目を盗んでは、沢の周りの深い森の中を野兎のように自由に駆け回り、木々の間を軽やかに飛び交う小鳥と歌を競ったり、冷たい清流で素早く泳ぎ回る魚を手掴みにしようとしてずぶ濡れになったり、さらには断崖の上にひっそりと咲く見たこともない美しい花を摘もうとして足を滑らせて滑り落ちそうになったりした。

 時には、武術の厳しい訓練に励む若い風魔たちに後ろから音もなく忍び寄り「わっ!」と大声で脅かしてみたり、彼らの真剣な顔つきを真似て見せてはからかったりして、沢の長老格である厳格な玄斎にこっぴどく叱りつけられることもあった。

「姫様!」

 玄斎は雷鳴のような腹の底から響く声で言った。

「我ら風魔の者は、いついかなる時、命懸けの務めに赴くやも知れぬ常に死と隣り合わせの身にござりまする。そのような、あまりにも軽々しいお戯れはお慎みくだされ。この不知火の沢の掟を乱すことは、たとえ姫様とて決して許されることではござりませぬぞ!」

 だが、沙耶は、そんな雷のような叱責にも臆することなく可愛らしくぺろりと舌を出して応じた。

「だって、玄斎様のお顔、いつも石地蔵さんみたいにかちこちに固まっているんですもの。たまには、にっこり笑わないと、お顔の皮が本当に石になっちゃいますよ」

 彼女は、ふふん、と少し大人びた口調を装って続けた。

「それにわたくしは、まだほんの子供なんですもの。思いっきり遊ぶのが子供のお仕事ではございませんか?」

 そんな、子供らしい理屈と、大人顔負けの人を食ったような軽口に、さすがの玄斎も絶句し周囲にいた他の風魔たちを呆れさせ、しかし同時に、その場にいた全ての者の顔に微かな笑みを浮かばせたのであった。

 どんな逆境にあっても決して失われることのない、底抜けの明るさと、時折見せる大人びた聡明さは、どこか陰鬱で閉鎖的な風魔の隠れ里に爽やかさと生きる喜びをもたらしていた。

 そんな沙耶の耳にも、最近、沢の者たちが緊張した面持ちでひそひそと囁き合う、一人の徳川の侍の名が頻繁に届くようになっていた。

「彦坂元正」

 岡津という場所に新しく陣屋を構えた徳川の代官だという。その男は、居丈高で民を見下すような徳川の侍たちとは毛色が違い、型破りな、時には無謀とさえ思えるようなやり方で、荒れ果てた相模の地を治めようとしているらしい。ある時は、飢えに苦しむ百姓たちの声に真摯に耳を傾け年貢を大幅に軽くしたり、またある時は長年私腹を肥やし民を苦しめてきた悪辣な土豪に対しては容赦ない鉄槌を下したりするという。

「…彦坂元正…」

 沙耶は、心の中で、そう毒づいた。

「所詮は徳川の犬じゃないの。一体何をたくらんでいるのかしら。どうせ最初は甘い言葉で村の人たちを騙して、後で骨の髄までしゃぶり尽くすつもりなんでしょう。母様の仇、父上の仇…!」

 沙耶は、その名を聞くたびに小さな拳を強く握りしめた。だが、同時に、その「彦坂元正」という男が、一体どんな顔をしどんな声で話し何をしようとしているのか、言いようのない強い興味と、ほんのわずかな奇妙な期待のようなものが、彼女の心の奥底に芽生え始めているのを、沙耶自身はまだはっきりと自覚してはいなかった。



 広い箱根の、また別な山中。昼なお暗い、鬱蒼とした原生林のさらに奥深く、人の気配などまるでない場所に、風魔の、もう一つの拠点があった。

 「蛇崩の岩屋」と呼ばれるその場所は「不知火の沢」の厳粛な静謐さとは全く対照的に、荒々しく退廃的で不吉な空気が漂っていた。

 巨大な岩が、まるで天変地異でもあったかのように崩れ落ち重なり合った険しい地形。その岩の裂け目に獣の巣穴のように暗い岩屋が口を開けていた。そこをねぐらとする風魔たちは、玄斎の治める「不知火の沢」の者たちとは気風も信じる道も大きく異にしていた。

 彼らは、北条家が滅亡した後も、その再興を夢見て、過激な破壊活動や、徳川への抵抗を続けることを望み、新しい支配者の下で逼塞と息を潜めて生きることを良しとしない強硬派であった。

 その頭を務めるのは名を赤星という、年の頃は四十がらみの顔に大きな刀傷のある精悍な顔立ちだが、残忍な光をその瞳に宿した男であった。

 その赤星が、旧北条家の譜代家臣を名乗る浪人風体の男と岩屋の最も奥まった薄暗い一室で密やかに酒を酌み交わしていた。浪人風体の男は名を黒沼主膳といい、その落ち窪んだ目には、焦げ付くような野心と満たされぬ渇望にも似た焦燥の色が濃く浮かんでいた。

「赤星殿、例の『姫』の件、まことに相違ございませぬな」

 黒沼主膳が、ねっとりとした声で念を押した。

「あの玄斎の爺が隠し持っておるという『不知火の沢』とか申したか、そこに北条氏直殿の御落胤が密かに匿われておると、そう聞きましたが」

「ふん、相違あるものか」

 赤星は、薄ら寒い笑いを、その傷のある口元に浮かべて答えた。

「我が『蛇崩の岩屋』の者が、この目で、しかと確かめてきたわ。年は、十か、あるいは十一。母は玄斎の娘、桔梗とかいう、なかなかの器量良しの女だ。氏直殿がお手つきになられたらしいわい」

 その言葉には、同じ風魔の一党でありながら、玄斎たち「不知火の沢」の者たちに対する隠しようもない侮蔑の色がありありと滲んでいた。

「して、その姫を担ぎ上げ、我ら旧北条の遺臣たちが一斉に蜂起すれば、相模の民も必ずや我らに呼応するはず。徳川の支配などまだ始まったばかり。その根は浅く、そして脆い。今こそ絶好の好機!この機を逃してはなりませぬぞ!」

 黒沼主膳の落ち窪んだ目が、ぎらりと獣のように光った。

「じゃが、あの玄斎の古狸めが、そう易々と姫を我らに引き渡すとは思えぬがのう」

 彼は疑わしげに、いやらしげに首を傾げた。

「奴は新しい支配者である徳川に、こっそりと尻尾を振ることを考え始めておるようだ。あの老いぼれ、昔から、そういう抜け目のない男じゃったわい」

「案ずるな、黒沼殿」

 赤星は自信ありげに答えた。

「そこは、この赤星に万事お任せあれ。玄斎の『不知火の沢』なぞ、我が『蛇崩の岩屋』の精鋭と黒沼殿の手勢を合わせれば赤子の手をひねるよりも容易いこと。それに沢の内部にも既に我らに通じる者が幾人も仕込んであります故な」

 赤星は、懐からずしりと重い一握りの金子を取り出し、黒沼主膳の前に置いた。

「これは、ほんの手付け金じゃ。姫を手に入れ、旗揚げの暁にはさらにお礼をさせていただこう。その代わり、黒沼殿には我ら風魔が関東の地で再び日の目を見るための手助けを願いたい。北条様の世が戻れば、我らもまた、かつての栄華を取り戻せるというものよ」

 赤星の言葉は、表向きは北条家再興という、もっともらしい大義を掲げながら、その実、姫を利用して風魔の中での主導権を握り、この混乱に乗じて私腹を肥やし実利を得ようという、黒く卑しい野心に満ち溢れていた。

 黒沼主膳は、その金子を素早く懐にしまうと、満足そうに下卑た笑みを浮かべて頷いた。

「ようござる、赤星殿。話はまとまった。姫は必ずや我らの手に。そして、北条家再興の暁には、赤星殿にも相応の、いや、それ以上のお見返りを固くお約束いたそうぞ」

 二人の男の邪悪で血生臭い欲望に満ちた笑いが、薄暗い岩屋の中に不気味に響き渡った。こうして沙耶姫の過酷な天命を弄ぶ、忌まわしい陰謀が人知れず練り上げられていったのであった。



 そして、その日はあまりにも突然に、あまりにも残酷な形でやって来た。

 突如として「不知火の沢」は、血と炎と絶望の悲鳴が渦巻く凄惨な修羅場と化した。夜明け前、まだ深い闇と立ち込める朝霧に包まれた沢を、赤星率いる「蛇崩の岩屋」の風魔たちと、黒沼主膳の手勢である浪人たちが音もなく襲撃したのだ。

 沢の入り口や、周囲の尾根筋で見張りをしていた「不知火の沢」の風魔たちは、「蛇崩の岩屋」の内通者の手引きによって防御の薄い場所を巧みに突かれ、あるいは予期せぬ方向からの不意打ちを受け、声も立てられず抵抗する間もなく次々と無残な死体となっていった。その手口は、同じ風魔の技を知り尽くした者によるものであり、極めて残忍かつ周到なものであった。

「敵襲じゃ!『蛇崩』の赤星めが裏切りおったわ!皆、武器を取れ!姫様を、姫様を何としてもお守り申し上げるのじゃ!」

 玄斎の怒りに震えながらも悲痛な叫びが、夜明け前の静寂を破り沢中に響き渡った。瞬く間に「不知火の沢」の風魔たちは、女子供をそれぞれの家の固く守られた奥へと隠し武器を手に取り、地の利を最大限に生かした巧妙な罠や日頃鍛え上げた風魔ならではの戦術を駆使して侵入者たちと壮絶で絶望的な防衛戦を繰り広げた。

 剣戟の鋭い音、男たちの怒号、女子供の悲鳴、そしておびただしい血飛沫が乱れ飛んだ。

 だが、敵は「不知火の沢」の内部構造や防御の弱点を、内通者によって隅々まで熟知しており、数においても明らかに勝っていた。さらに「蛇崩の岩屋」の者たちは、同じ風魔の一族でありながら、一切の情け容赦なく同胞に刃を向け、その戦いぶりは人のそれではなく獣のようであった。

 沙耶は、卯女をはじめとする世話役の女たちに促され、住まわされていた家の一角に巧妙に設けられた隠し部屋へと避難させられた。

 暗く、湿っぽく、そしてカビ臭い土の匂いが充満する、その息苦しい空間で、沙耶は止まらぬ全身の震えを必死に抑えようとしていた。

「…また…また、あの小田原の恐ろしい夜のように…。誰かが私を殺しに来たの…?…今度こそ、本当に…本当に殺されてしまうの…?」

 母を、目の前で無残に失った時の血と絶望の記憶が、あまりにも鮮明に彼女の脳裏に蘇ってきた。

 その時、隠し部屋の巧妙に偽装された小さな戸が、音もなくそっと開けられ、一人の若い風魔が息を切らしながら転がり込むようにして滑り込んできた。

 それは沙耶が、時折、森の中で言葉を交わし、一緒に木の実を拾ったりしたことのある弥助という名のしっかりとした目つきの少年であった。その顔は煤と乾いた血で汚れ、身にまとった粗末な着物はあちこちが鋭い刃物で引き裂かれていた。

「姫様!ご無事で、ご無事でございましたか!」

 弥助は、肩で大きく息をしながら、途切れ途切れの言葉を紡いだ。

「今、里の外れでは、激しい戦いが…。玄斎様たちが、命を懸けて防いでおられますが、敵の数が、あまりにも、あまりにも多すぎまする。それに、奴ら、どうやら、我らの手の内を知り尽くしているようで…」

 弥助の声は、抑えきれぬ恐怖と焦りで情けなく上ずっていた。

「敵は、『蛇崩の岩屋』の赤星一味と、旧北条の残党を名乗る、ならず者の一団にございます。奴らは姫様を、その…担ぎ上げ、この相模の地で再び北条再興の旗揚げを企んでおるらしく…。そのためには、我ら『不知火の沢』の者を根絶やしにし、姫様を力ずくで奪い去るつもりなのでございます」

「北条の残党…?わたくしを旗頭に…?そして同じ風魔がなぜこのような…」

 沙耶は、弥助のその信じられない言葉に、一瞬頭の中が真っ白になった。自分は北条の姫として正式には誰からも認められていたわけではない。それなのに、なぜ今更。それに母を殺したのは、殺させたのは他ならぬ北条家中の者ではなかったのか。

「姫様、もはや、この隠れ里も決して安全ではありませぬ」

 弥助は、切迫した絞り出すような声で言った。

「このままでは姫様は奴らの卑劣な手に落ち、その道具として利用されてしまいまする。どうか某とご一緒にここからお逃げくだされ。玄斎様から万が一の時は姫様を必ずや安全な場所へお連れするよう、命懸けの厳命をお預かりしておりまする故」

 弥助は、沙耶の震える細い手を、泥と汗にまみれた力強い手で固く、固く掴んだ。その手はどこか幼さを残しながらも、姫を守り抜くという風魔の者としての揺るぎない決意に満ち溢れていた。

「安全な場所とは…いったい、どこへと申すのですか…」

 沙耶は、絶望的な、か細い声で問い返した。

「この深い山の中に、もうわたくしたちの逃げ場など…どこにもないではございませんか…」

「それは…」

 弥助は、一瞬戸惑うように言葉を詰まらせた後、意を決したかのようにはっきりと言った。

「岡津の彦坂元正殿の陣屋にございまする。道すがら玄斎様の御子息、玄丞様の組と落ち合う手筈にもなっておりまする」

「彦坂元正…!あの徳川の犬の元へ、と…!なぜ…!玄斎様は、叔父上は何を考えておられるのですか…?」

 弥助の口から出た、あまりにも意外な名前に、沙耶は、思わず息を呑み、我が耳を疑った。叔父である玄丞の名が出たことで、ほんのわずかな安堵と、しかしそれ以上に、大きな、そして理解しがたい戸惑いが、彼女の心を激しく襲った。

弥助は沙耶の戸惑いを痛いほど察したかのように、さらに言葉を続けた。

「玄斎様は、こう仰せられました。『彦坂という男、我らにとりては長年の仇敵である徳川の手先。じゃが岡津での、あの男のこれまでのやり様を伝え聞く限り、少なくとも姫君を無下に扱い、政争の具として弄ぶようなような狭量にして卑劣な男では決してあるまい。むしろ、あの男であれば姫様の身の安全を真に考え、そして風魔の力を、また別の形で新しい世のために生かす道を見出してくれるやもしれぬ。もはや我ら風魔が山奥で息を潜め、古き時代の古き掟に縛られて生きられる時代は終わったのかもしれん。生き延びるためには変わらねばならぬ。そのための苦渋の、最後の賭けなのじゃ』と。…姫様、どうか某を、玄斎様のお言葉と玄丞様のお力を信じてくだされませ」

 弥助の必死な言葉に、沙耶の心は激しく揺れた。徳川の侍を頼るなど、考えも及ばぬことであった。だが、玄斎が、あの厳格な祖父が、そこまで言うからには何かよほど深い考えがあるのかもしれない。そして、、叔父である玄丞の名が出たことが、彼女の心に一筋の確かな光を灯した。

 その時、隠し部屋の入り口に、卯女と、双子の姉妹である鋭と凛が、ぜいぜいと息を切らしながら姿を現した。彼女たちの顔もまた、煤で汚れ、身にまとった着物には生々しい血が付着していた。

「姫様!ご無事で…!」

 卯女は、沙耶の姿を見るなり安堵の声を漏らした。

「弥助、よくぞ姫様のもとへ。…玄斎様は、我らに姫様を、この命に代えてもお守りし、必ずや、玄丞様の元へお届けするよう、最後の、最後の厳命を下されました…」

 鋭と凛もまた、力強く頷いた。その瞳には、深い悲しみと、抑えきれぬ怒りの色と共に、姫を守り抜くという鋼のような決意が宿っていた。

「姫様、我ら三人も弥助と共にお供つかまつります。たとえ、この身が、この場で朽ち果てようとも、必ずや姫様を安全な場所へ、玄丞様の元へとお連れいたしまする」

 卯女の言葉は、ところどころ震えてはいたが、そこには揺るぎない忠誠心が込められていた。

 信頼する卯女、そして姉のように慕う鋭と凛も一緒だと知り、沙耶の心にようやく確かな安堵感がじんわりと広がってきた。

(叔父上が、卯女たちがいてくれる。わたくしは一人ではない)

 外からは、剣戟の鋭い音と男たちの怒号、そして「不知火の沢」の風魔たちの断末魔の悲鳴が間近に迫ってきていた。沢の、あの清らかで厳粛な静寂は完全に破られ血と炎と、そしておぞましい死臭の漂う地獄絵図へと刻一刻と変貌しつつあった。

 沙耶は、母の優しかった顔を思い浮かべた。「生きよ」という、母の最後の言葉を。そして目の前の、自分とさして年の変わらぬ、この健気な少年と、命を賭して自分を守ろうとしてくれる三人の強く優しい女たちの姿を見た。その瞬間、彼女の心の中で何かが音を立てて吹っ切れた。

「…わかりました。弥助、卯女、鋭、凛。あなたたちを信じます。そして玄斎様の、おじい様のお言葉も」

 沙耶は、決意を込めて、そう言った。

「行きましょう。弥助、わたくしを叔父上の元まで必ず連れて行ってください。でもね、わたくしは、もう二度と誰かの言いなりになって、ただ殺されるのを黙って待つだけの籠の鳥にはなりませんから。それに死ぬつもりも毛頭ございません。みんな、わたくしを必ず守ってちょうだいね」

 その言葉には、十一歳の少女とは思えぬほどの大人びた、凄絶なまでの強い意志が込められていた。弥助、卯女、鋭、凛は、姫のあまりにも力強い瞳の光に息を呑んだが、すぐに力強く、深く頷いた。

「この命に代えましても!」

 弥助は、沙耶の手を改めて固く握り締めると、隠し部屋の奥にある、大人一人がようやく身を屈めて通れるほどの狭い抜け穴へと彼女を導いた。その先は沢の喧騒からは完全に隔絶された、暗く湿っぽい岩の裂け目へと続いていた。

「姫様、これより先は獣道にも劣る険しい道程にございます。ですが、この道を行けば玄丞様の組と落ち合える場所に…」

 弥助の言葉を遮るかのように、背後で大きな地響きと、何かが轟音と共に崩れ落ちる音が響いた。おそらくは玄斎たちが、最後の絶望的な抵抗を試みているのであろう。沙耶は唇を強く噛み締め、溢れそうになる涙を必死にこらえた。

「叔父上…玄丞叔父上…」

 沙耶の脳裏に、幼い頃、母の桔梗が懐かしそうに、誇らしげに語っていた風魔の若き勇者の姿がぼんやりと浮かんだ。玄丞は、風魔の中でも特に武勇に優れ、表の世界の事情にも通じ、「玄之介」という、もう一つの名を使い旅芸人一座の座長として諸国を巡り様々な情報を集めていると、そう聞かされていた。その一座は、徳川家康が駿府にいた頃、その御前で見事な芸を披露したこともあり、家康自身も芸達者ぶりと、若き座長の底知れぬ器量に大いに感心したという。そして、その玄丞こそが、あの小田原城の悪夢の中から自分を救い出してくれた命の恩人でもあったのだ。

(叔父上が来てくださる。でも、その先に待っているという、岡津の彦坂とかいう侍は…)

 尽きることのない不安と、ほんのわずかな期待と、未だ消えることのない憎しみが沙耶の小さな心の中で激しく渦巻いていた。だが、今は、弥助と、卯女、鋭、凛という三人の強く優しい女たちの手を信じて、ただひたすらに前に進むしかなかった。

 五人は、険しい山道を追われる獣のように、ひたすら岡津の方角を目指して駆け抜けていった。背後からは、遠ざかっていく「不知火の沢」の断末魔の喧騒と、もう二度と会うことのないであろう、多くの名も知らぬ風魔たちの悲痛な叫びが風に乗って微かに聞こえてくるような気がした。

(第五章 了)
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