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第2話‐1 日々の生活に鍋師がいるということ

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 自称・鍋師との生活が始まって二日目。
 私はきっちりと用意された朝食を食べた。今朝の食事も特に特別だという事もなく、白米と味噌汁と蒸し野菜だった。味噌など無かったはずだが、と問うと自前の荷物に用意してあったと返ってきた。鍋師とはいったい何なのだろう。ちょっと料理のうまい一般人以外に彼を形容する手段がない。
 悔しいながら、昨日の夜食に引き続き今朝のごはんも美味しかった。なぜかうまい、というのが変に腹が立つ。しかもそれを作っているのが三鍋だ。上乗せ三倍で腹が立つ。

 しかし私とて立派な大人だ。おいしい食事に対してちゃんとごちそうさまと言えるだけの器の広さは持っている。
 だが、弁当にと包んでくれた握り飯は断固拒否した。弁当箱がない事に対しての責任の一端は私にもあるかも知れないが、この現代社会の中で笹の葉に包まれた武骨な握り飯を持って出社する勇気は無かった。器を用意して欲しい。器を。私の心のように広い器を。



   ○   ○   ○



 会社の男どもは、私を女性として見ていない。
 それが不満だとか言うつもりはまったくないし、私には私の役割というか、仕事をこなすことが最優先なので気にしてもいない。お金をもらうんだから、それが当然のことだと、私は思う。

 もしも私が後ろで束ねただけの髪型をやめて、流行のゆるふわパーマをかけて、首をかしげながら「はい、今日もお疲れ様」などと猫なで声でお茶でも差し出した日にはだな。私を知る社員は恐れおののき、畏怖と戦慄のあまりに長期休暇を申し出るに違いない。

 もしそうなったら、うちの会社は瞬く間に倒産だ。何せ、総従業員きっかり十名、そのすべてが私を知っているのだから。しがない零細企業にとって社員の欠如は深刻な問題だ。

 だから私はこれでいい。みんなの士気を高めるのはこの四月から新採用になった竹内ちゃんに任せておこうと思う。新人、真面目、可愛い。これだけ揃えばそりゃあ男性陣のテンションも上がるだろう。しかもそれでいて変な虫がつく心配も少ない。なにせ社長の姪っ子だ。社会経験をさせるつもりで連れてきたらしい。

 ちなみにこの竹内ちゃん含め、職場の女性は三人である。まず一人は社長の奥方。次に新採用の竹内ちゃん。そして私。

 お分かりだろうか。
 この春、私の会社は大きく構造改革を果たし、男性陣の活気がみるみる膨れ上がったのだ。繰り返し述べておくけれど、私は竹内ちゃんに対してなんの恨みつらみもなければ、僻みもない。会社にとってめでたい事であるし、なんならむしろ竹内ちゃんを愛でたい。会社にとってプラスならば、万々歳だ。
 頭部輝く社長の、その姪っ子とは思えぬかわゆさである。ううむ、かわゆい。私と違って実にかわゆい。

 なに、しばらくすれば会社内でのそれぞれの人物の立ち場なども分かってくるだろう。私が一番最初に彼女に言った「ここの連中は私のことを女性としてみていない」というのも事実だと理解できるはずだ。

 特にうちのような零細広告代理店では、人とのつながりを重要視される分、私にはできないことをやってのける彼女のような存在は純粋にありがたい。
 役割分担、役割分担。

 さて、その竹内ちゃんが何やら困っているようだ。聞いてみると、資料室から資料を取ってきてほしいと頼まれはしたものの、資料室の場所が分からないと言うのだ。

「メモ、取った?」

 私は、できるだけ穏やかなトーンで話すように心がけた。決して詰問しているような感じを出して彼女を怖がらせてはいけない。

「あ、その、いいえ……口頭で聞いて、すぐに見つかると思ったので……。すみません、お手を煩わせてしまって」

 そう言ってしゅんとする竹内ちゃんは実にかわいい。誰だ。曖昧に場所を教えたヤツは。竹内ちゃんを困らせるヤツはただではおかんぞ。
 資料室とはいっても、狭い部屋に本棚が並んでいるだけの部屋だ。普段、仕事に必要な書物、参考として保管してある雑誌類はその場所にまとめられている。
 確かに見つけにくいことは否めない。階段の下にある腰くらいの高さしかない小さな扉が入り口だとは思うまい。資料室とは名ばかりで、ただの物置だからな。

 私は竹内ちゃんに誰から頼まれたのか聞いてみた。彼女は不思議そうに「大和田さんです」と言った。よし、大和田くん、減点1。

「資料室は、ここよ」

 案内すると竹内ちゃんの目が丸くなった。そうだろう、そうだろうとも。

「大和田くんに頼まれたんなら……ちょっと待っててね」

 こんな狭くて埃っぽいところにかわゆい後輩ちゃんを入れられるか。ええと、大和田君がこの時期に頼むってことは、だ。
 彼が今抱えている仕事を思い出す。ある取引先の夏の商戦にむけてのコピー作りを請けていたはずだ。大和田くんはデータを信頼する男なので、過去の売れ筋をまとめ、話題になったもののキャッチコピーを紐解きながらそこに自分の色を加えていく。
 そして彼が自分の作品を作る前には、決まってとある先人のインタビューを読むのだ。同年代で有名なライターだと言っていたから、ライバル視しているのかもしれない。

「大和田くんなりの仕事術らしくて。表紙で覚えておくといいわね。ほら、このページだけ随分読み込んであるでしょう?」
「ほんとですねえ。これを読めば、アイデアが出てくるんですか?」
「うーん、どうでしょうね。ただ、コピーの仮決めの前にはいつも読んでるわ」

 いつだったか、「僕、コイツの考え方嫌いなんですよ。これを読むたびに、ごみ箱に投げ捨てたくなる。こいつはいつか凹ませてやらにゃあ」と言っていたあたり、気を奮い立たせる材料のような気もするが、それが彼なりの奮起の仕方なのだろう。

「香奈子センパイ、ありがとうございますっ!」

 私はかわいくお辞儀をして立ち去ろうとする竹内ちゃんを呼び止める。

「はいっ、なんでしょう」

 ぴょこんとこちらを振り返る彼女は実に男性受けするだろう。それを私にもしてみせるという事は、自然とその仕草が出るのか、はたまた私も男性として見られているのか。後者じゃないといいな。
 私は自分のメモを一枚とりだし、さっとメッセージを書いて雑誌のよれたページに挟んだ。竹内ちゃんが目を丸くする。

「メモの内容は見ちゃダメよ」
「え、センパイと大和田さんってそんな関係なんですかっ?」

 確かにドラマなどでよくあるような社内恋愛に見えなくもない。

「お、そういうのが気になるお年頃? そんなんじゃないわよ。言ったでしょ。ここの男どもは、私の事を女性として見ていないんだから」
「そんなこと……。センパイ、素敵なのに」

 おお、嬉しいことを言ってくれる。ちょっと口をとがらせていて、それがまたかわゆい。うん、私が男性ならつい飲みにでも誘う所だ。
 竹内ちゃんの肩にぽん、と手を置いて私は「ありがとう」と言った。セクハラだなんだとうるさい昨今、男性社員ではこうはいくまい。ライトなボディタッチは私だけの特権だ。羨ましかろう、男性諸君。

「大和田くんがこれを読む所、こっそり見てみるといいわ。すごく面白いから」

 そう言って、私は竹内ちゃんを送り出した。あまり長居させるものでもない。もういちど、ぺこりとお辞儀をして竹内ちゃんは小走りに去っていった。
 ううむ、繰り返すが、私とは育ちが違う。ナチュラルにかわゆい。



   ○   ○   ○



 時刻は夕刻六時。残業組を残して、私は退社準備を始めた。竹内ちゃんは社長が自宅まで送っていくとのことだ。帰り際に私のデスクの前を通った時に、小声で「センパイ、大和田さん、ころころ表情が変わって、確かに面白かったですっ」と小悪魔的な笑みを浮かべて竹内ちゃんが囁いたのを聞いて、私は不覚にもときめいてしまいそうになった。

「みなさまっ、お先に失礼いたしますッ」

 彼女が礼をしながら社長とともにオフィスを去った。
 それと同時に少しだけ、オフィス内に間延びした空気が漂う。

「いやぁ、やっぱいい子だなぁ、あの子」

 後藤さんが伸びをしながら呟く。恰幅のいいその体で後ろに傾くと、いつか椅子が壊れるのではないかと心配だ。ほら、今も軋んでいる。呟きに答えるように後ろの席の大和田くんが振り向いた。

「それ、いつも言いますね、後藤さん」
「事実だろう。それにだなぁ。お前もわざわざ彼女に雑用頼んでただろうがよぉ、大和田ぁ」

 社長も竹内ちゃんもいなくなったと見て、伸びをしながら雑談をしている。後藤さんと大和田くんのコンビはよく行動を共にしているコンビだ。雑談が禁止されている訳でもないのだが、この所は妙に静かだと思っていた。どうやら、真面目に仕事していると見せておきたい見栄のようなものがあるらしい。
 さすが男性社員の考えることは私には理解が追い付かない。いや、そんなものだと知ってはいるのだが、それを口に出さないだけの慈悲の器が私にはある。

「今日の残業組はあなたたちだけ?」

 残っている後藤さんと大和田くんに声をかける。

「筒井は直帰するからそうかな? あ、いや、琴科ことしなさんが戻ってくるっつってたぞ」
「あ、白井さん。さっきはどうも」

 そう言って、大和田くんが私に向かってぺこりと頭を下げる。

「なんだお前、白井様になんかしたのか?」
「違います。後藤さんと違って、俺は真面目なんすから」

 私が大和田くんに渡したメモには『竹内ちゃんは新人。いつもより詳細に。』と書いておいた。何せ、新人が来るなど久しくなかったことだ。つい、新人への対応というものを忘れてしまうのも仕方のないことだと私は思う。

「お節介だけれどごめんね。ちゃんと竹内ちゃんにも謝っておいた?」
「それはもう。いやー、資料室ったって、ただの物置っすからね。ちょっと油断してました。以後気を付けます」
「分かればよろしい」
「おいおい大和田ぁ。変なことして白井様の機嫌を損ねるんじゃないよ? うちの職場が回らんようになっちゃうでしょうが」

 そういって後藤くんは椅子の背もたれ部分に思い切り体を預ける。あ、軋んでる軋んでる。

「あら、お世辞でも嬉しい。お礼に後藤さんにはもうちょっと仕事回しましょうか? いつもより仕事のペースが速いみたいだからもうすぐ手隙でしょう」
「お見通しかよ。すんません、勘弁してくださいませ」

 いつものように軽口を言い合いながら、私は「じゃあ、また明日」と言ってその場を去る。確かに職場の男性陣は私を女性として見てはいないが、だからと言って険悪な雰囲気であるとか、そういうものではないのだ。
 なんと言えばいいだろうか。戦友、といったような表現が一番ぴったり当てはまるかも知れない。

 会社を出て、不意に思い出した。
 仕事はこんなに順調なのに、家に帰れば三鍋がいるのだな、と。

 いやでも、まったく現実感がない。もしかしたら昨日の出来事はただの夢で、家には誰もいないかも知れない。
 そう思って帰宅してみれば、夕食のなんともいい匂いが私を包んだ。ああ。どうやら夢ではなかったらしい。そして夕食はしっかりと美味しかった。

 私は、持ち前の器量を最大限に発揮して、美味しい食事に対してごちそうさまと言った。
 鍋師の実力を見たか、と三鍋が言ったが、そもそも鍋師とやらの定義を私は知らない。どうみても一汁三菜のバランスのとれた食卓だ。鍋の影も形も見えない。

 まあ、美味しい食事があることは事実で、事実は認めるべきなのだ。
 私の信念に従って、おかわりを要求しておいた。
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