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第3話-1 追憶の夢を見た日のこと

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 今朝はクロワッサンとカフェオレだった。
 てっきり和食ばかりが並ぶものだと思っていたけれど、和洋に限らず現在、我が家の食卓には様々な食材が並ぶ。
 どこで食材を調達してくるのか、私が三鍋に了承を得て作った金銭出納帳には大きな支出は記されていない。標準的な食費の範囲で収まっていると思う。なんなら、私が一人暮らしをしていた時に比べれば、一人当たりにかかる費用は減っているのではないだろうか。いやまあ、一人分の食事だと自炊よりも惣菜なんかを買って帰るほうが安かったりするし、うん。決して私の自炊スキルが未熟だとかではないはずだ。別に料理が苦手という訳ではないのだから。
 しかし、三鍋を見ていると少し自信がなくなるのもまた事実だ。ここは一つ、三鍋は鍋師だからという理由で無理やり納得するしかあるまい。そうしておこう。



   ○   ○   ○



 世間では間もなくゴールデンウィークである。レジャーや行楽の予定など皆目ないが、どこにも出掛けず私の休日の全てを三鍋に費やすというのもどこか気まずい。というか仕事しかしていない寂しい女と思われるかもしれないのが嫌だ。
 彼はちょっと前に携帯電話を新しく契約してきた。土産にと買ってきてくれた水羊羹は美味しいと話題の和菓子屋のものだったが、鍋師の嗅覚とやらで探し当てたのだろうか。半月余りを彼と共に過ごすうち、何か不可解なことがあると「まあ、鍋師だからな」で済ませるようになっていた事もあり、私はそれをさほど不自然なこととも思わなかった。

 羊羹いえば先日、職場の河内さんが羊羹好きなのだと、偶然知った。琴科さんと話しているのを聞いただけだが、個人の趣味や嗜好を把握しておくことは案外大切なことなのだ。

 会社に着くと、その河内さんが私に話しかけてきた。これは珍しいことである。私にとって、河内さんは社内でも一、二を争うほど不思議な人だ。
 何が不思議なのかといえば、これといって突出した得意分野があるわけでもなく、業務成績もいたって普通なのだが、社長と琴科さんからは絶大な信頼を得ているのだ。あの二人にしか分からない何かがあるのだろうか。

「白井さん、おはよう。少し、頼みたいんだ」

 いたって平坦なトーンでかけられた声に、無理難題という訳ではなさそうだと判断を下した。

「なんでしょう。私にできることでしたら」
「明日の営業先のことなんだけどね」
「ウェルネスリビングですね。十五時でしたか」
「そうそう。テレアポした時の日報あるかな。もう一度見直しておきたくて」
「すぐに用意しますね。確か新規でしたよね」

 私はパソコンを起動させ、日付、報告者別にまとめられたファイルの中から目当てのものを探し、河内さんの端末へと転送した。

「ありがとう。面白そうな会社なんだよ。社名からして生活関係、健康関係の会社だと思うだろ? これがね、ゲーム開発会社なんだ」

 河内さんは鼻の頭を人差し指で軽くこすった。何かしら考え事をしているようだ。

「会社のホームページ見たりしてさ。あれこれ調べてみたけど、小規模なデベロッパということしか分からない。でも、広告を出したい訳でもないようで、要領を得なくてね」
「では、筒井さんと一緒に行かれてはどうでしょう」
「へえ。大和田君ではなく? 大和田君は確かゲームが好きだったから、何か話のネタになるかと思ったんだが」
「相手の出方が分かりませんので。空気を読まないことに関しては、筒井さんは天才的です」

 向こうの思惑が分からない時は、あえて相手に合わせようとしないことも大切だ。自信を持って、うちのやる仕事はこうだと言い切ってみるといい。それが相手の会社に必要なことかどうかの判断はうちがするべきではない。納得の上に信頼は乗るものだ。

「君、筒井君を恨んでたりするの?」

 笑いながら河内さんが言った。

「もちろん。かつて、鉄女と言われたことは決して忘れません」
「彼も反省していると思うよ。そういえば、もうすぐ竹内さんの歓迎会だね」
「筒井さんに、同じ過ちを繰り返さぬようにお伝え下さい」
「分かった、伝えておく」

 河内さんはにこやかに去っていった。

 そうか。竹内ちゃんの歓迎会が週末にあるんだった。全員の都合をつけるのに手間がかかって、結局もうすぐ四月も終わろうかというこのような時期になってしまったけれど。
 ちなみに、私が筒井さんに『リアクションの少ない鉄女』と言われたのも、かつての私の歓迎会でのことである。筒井さんは面白いくらいに空気を読まない人だ。読めないのか読まないのか。それは判別しかねる。私に向かって放たれた鉄女のくだりも悪意のある言葉ではないことは分かっている上に、本人からも後日かなり申し訳なさそうに謝罪があった。
 私は「気にしていませんよ。鉄女ですから」と皮肉たっぷりに返しておいたが、その時の筒井さんの泣きそうな顔を見てさすがに悪いことをしたかと反省したものだ。よくよく考えてみれば暴言を吐かれたのは私なのになぜ私が反省しなければいけなかったのだろうか。どうにも理不尽である。

 しばらくすると竹内ちゃんをはじめ、ぽつぽつと社員達が集まり始めたので、私はいつものように竹内ちゃんと一緒にそれぞれへの業務申し送りを行った。

 筒井さんは河内さんから話を聞いていたらしく、口を真一文字に結び、余計なことは言わないとばかりにジェスチャーで口にチャックをしていた。そうそう、歓迎会でもその調子でお願いしますね。
 竹内ちゃんをいじめたらただではおきませんよ。そう目で語った私に、筒井さんはOKサインを送って見せた。

 ちなみに、社員の中で私より後輩にあたるのは大和田君と、今期注目の大型新人、竹内ちゃんだ。どちらかといえば私は下っ端にあたるのだけれど、大和田君に関しては私が事務職を引き受けているような環境のせいかあまり後輩だということを意識していない。
 むしろ竹内ちゃんこそが真の後輩と言えるだろう。社会経験を積ませるために連れてきたと社長が言っていたのでいつか別の道に進むのだろうか。ううむ、できればこのまま私のかわゆい後輩でいて欲しいものだ。実務経験がないことなど大したことではない。仕事など覚えていけばいいのだ。失敗をしても、次がある。竹内ちゃんのミスならば、私は喜んでフォローに回ろう。

 竹内ちゃんのことを想うあまり、私はどうやら竹内ちゃんを凝視していたらしい。不思議そうな目をして彼女が小首を傾げて私に問いかけた。

「香奈子センパイ、どうかしましたか?」
「あ、ううん、なんでもないの。そういえば竹内ちゃん、食べられないものとかあるのかしら」

 歓迎会に先駆けて、私は竹内ちゃんの好みを把握しておこうかと企んだ。気が利く先輩でいたいからね。うん。当然のことだ。

「いえ、好き嫌いは特に……あ、でも」

 すこしだけ考えるようにしてから、苦い顔をして彼女は言った。

「昔、伯父が買ってきてくれた乾燥トカゲは……」
「え、社長が?」
「はい、伯父は美味しそうに食べてたんですけどね」

 あはは、と苦笑いをする竹内ちゃんもかわゆい。しかしうちの社長はなんだってまた乾燥トカゲなんぞ……。あれか? 頭部の育毛戦線を維持する効果でもあるのかしら?

「大丈夫よ。人生でもう食べる機会はないでしょうから」
「だといいんですけどね」

 歓迎会をやるお店に伝えるという名目でアレルギーの有無なども聞いておいた。そして新しく得た情報として、紅茶よりも日本茶派らしい。コーヒーと比べないあたりが面白い。日本茶になら、前に食べた水羊羹が合うだろうとお店の名前を教えてあげるととても喜んでいた。今度買ってこようかと言うと、一緒に行きましょうと言ってくれた。なんだ、この天使のような生き物は。

 ランチの時に相談しようと指切りして、私は仕事に戻った。
 午前中の私の仕事がとてもスムーズに進んだのは言うまでも無い。



   ○   ○   ○



 昼食は事務所の片隅の会議机で食べる事にした。私、竹内ちゃん、そして社長の奥方である。社内の全女性社員集まってのランチ会である。

「今日もセンパイのお弁当、美味しそうですねえ」
「本当ね。前までは適当に買ってきていたのに」

 昼食を三人で食べることがこの頃は多くなってきた。竹内ちゃんが褒めてくれるのはとても嬉しいが、社長の奥方の言葉に対して、私は返答に詰まってしまう。
 いやあ、私が作ったものではないので。とは口が裂けても言えない。現在、我が家の食生活を支えている三鍋の存在を話してしまうと、大変面倒なことになってしまう気がするからだ。
 しかし、今まで弁当を作ってきたことなど数えるほどしかなかった事が逆に功を奏している。元々の私の料理スキルを知られていないのだから、奥方や竹内ちゃんにしてみればこれが私の料理スキルということになるのだろう。

「私も先輩になりましたから。竹内ちゃんに良い所を見せたいと思いまして」
「見栄のようなものね」
「その通りです」

 良いところは確かに見せたいけれど、嘘をついているこの状況は少し気が引けるなあ。
 社長の奥方――美和子さんは穏やかな人だ。竹内ちゃんからすれば伯母にあたる。こうして一緒に昼食を食べている時には、竹内ちゃんの昔の話や社長の家での面白エピソードなどを聞かせてくれるから楽しい。

「センパイ、本当に彼氏いないんですか? 私、てっきり彼氏へのお弁当の練習だと思ってました」
「もう、いないってば」

 居候の食事担当はいるけれど、あれは……うん、シェアルームニートだからノーカンで。

「白井さんは仕事一筋だものね」
「社長に毒されてしまいました。社長のせいです。今や仕事無しでは生きられません。竹内ちゃんはこうはならないようにね」

 大げさに首を振って、芝居じみた仕草をしてみせる。美和子さんは相変わらず穏やかに笑っている。

「でもカッコイイですよ。センパイ。みなさん、白井さんに一目置いてますもん」
「それはねえ、とある事件がきっかけなのよ」
「ちょ、美和子さん!」

 待て待て。その話題はダメだ。後輩の前でいい格好をしたいとアピールしているじゃないか。どうして人の恥ずかしい話を蒸し返そうとするのか。あの出来事のことは記憶から消していただきたい。

「あら、いい話なのに。駄目かしら?」
「はいっ。伯母さん、私、聞きたいです!」
「そんなに可愛く手を挙げてもダメ」
「どうしてもですか?」
「上目遣いでもダメ!」

 昼食を食べている間、私はこの話題から話を逸らすためにあれこれ手を尽くした。代わりに差し出された話題の多くは、私が勝手に変人認定している面々の仕事ぶりに関するものだった。

 社内三大奇人である、琴科、河内、茶屋町。この三名に関しては端から見ている分には話題が尽きることは無い。自称・天狗の末裔。掴みどころのない羊羹好き。仁王の如く顔の怖い叩き上げ。これが、私の中でも三人のイメージである。

 しかも面白いことに、まるで三すくみのように琴科さんは「河内くんがいっとう変だ」と言うし、河内さんは「茶屋町先輩には敵いません」と言う。そして茶屋町さんは「琴科以上の変人はいねえな」と言い捨てる。
 僭越ながら私の私見を述べる。あんたらまとめて変だ。

 そんな私の失礼な心の声が届いてしまったのだろう。外に食べに出ていた茶屋町さんが慌てた様子で事務所へと戻ってきた。
 そして戻ってくるなり私に向かって、「白井! 火事だ!」と叫んだ。火事とは請けている案件に何かしら支障がでたことを示す隠語である。誰が言い始めたかは知らないが。

「燃えているのは誰ですか」
「大和田だ。印刷所とのトラブルらしい」
「急いで確認しますね」

 私は勢いよく席から立ち上がる。竹内ちゃんが私と茶屋町さんを見て何のことやら分からないという顔をしているが、火事となれば時間が惜しい。

「美和子さん、すみませんが教えてあげて下さい」

 それだけを言い残して、私は自らのデスクに戻りパソコンを起動させた。
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