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1章

34.世界一皮肉なファーストキス

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 愛斗ははからずも思い出した。
 あの時、理久の部屋で見つけた古い『誘拐事件』について書かれた週刊誌のことを。
 もしや監禁フェチでもあるのだろうか、と違うことは分かっているが、適当に答えを導き出す。

 理久の傷口を刳りたかったのではない……純粋な好奇心だった。
 自分は未だに知る由もない、自分のことを愛してくれた人のことを包み隠さずに知りたい、と。

「違ったらごめん。七瀬って、もしかして過去に何かあったりする?」

 過去に何かあったという言葉は彼が今までしてきた異常な行動について言及したものだ。

 仮に普通の家庭で育てば、心から好きだから誘拐して監禁することにしよう、出来ることなら監禁して自分好みの男に仕上げたい、等と思わないだろう。それを愛斗は彼の昔の家庭環境が複雑で過去に何かあったのではないかと考えた。

「……」

 少し時間が経っても、彼からの返事はない。空気が一瞬にして凍り付いたのを肌で感じた。

 冷たくて、悍ましくて。
 強いて言うならば教室である日突然、結構仲の良かったクラスメイトが亡くなったということを伝えられた時のように。

 それはもう、過去に興味本位に自分を誘拐した経緯を聞いた時と、まるで比にならない。

 "逃げろ"──。
 
 "殺される"──。

 不思議なことに本能がその様なことを言っているのが分かる。愛斗の呼吸は段々と恐怖心に比例して段々と荒くなっていく。
 頭が真っ白になるというのはこういうことなのだろう、と皮肉にも知ることになった。

 対して彼はというと鬼のような形相と共に立ち上がりもせず、ピクリとも動かない。
 まるで、座ったまま亡くなってしまったと言っても皆んなが信じてしまう程に……。
 瞬きすらしないとても不気味な彼を只、愛斗はじっと見つめていた。
 当然、本当は今すぐにでも飛び出して逃げたかった。
 けれども身体が思うように動かなかったのだ。

 彼からきちんとした返事、いや、独り言が返ってきたのは、それから数分程経った後だった。

 愛斗は目に入ったきた"それ"をみて唖然とする。

 何故か、理久が泣いていたのだ……。

 時差はあるにしても、自分の発した言葉が原因で瞳から零れ落ちて行く大量の純粋な雫に、れっきとした人であり、感情がある愛斗は、相手がたとえ自分を誘拐した誘拐犯だとしても、いても立ってもいられなくなる。

 気付けば、もう既にその場から立ち上がっていた。

「……七瀬っ──!」

 声をあげて、彼の身体をそっと抱き締める。
 兎に角宥めてあげなければと必死だったのだ。
 それは、相手が誘拐犯で、ストーカーで、暴力も振るう奴だという事実さえも忘れるくらいに……。

 彼を抱き締めたとき、愛斗は思わず目を見開いて驚いてしまう。
 何故なら、自分にも振動が伝わってくる程、身体が真冬の肌寒い日のように酷く震えていたのだから。

「やだ、行かないで……!! ──っ! ──っ!」

 彼はそう言って聞いたことの無い見知らぬ誰かの名前を必死に呼んでいる。
 このように彼がなってしまった原因である人物だということは、頭をよく働かせなくても理解することができた。

 しかし、彼の声は震えていて肝心な名前を何と言っているかまでは聞き取れない。
 少し付け足せば自身の頭がよく働いて無かったのも理由の一つにあるだろう。
 必死に何かを呼びかけている彼はまるで、まだ幼い小学校低学年くらいの子供のようだった。

「──? ──なの?」

 すると、いきなり彼は愛斗の方をじっと見つめて、誰かも分からない名前を呟く。
 首を傾げる仕草で髪がふわりと揺れている。
 こんな事は今まで一度も無かったのだから、一体、如何対応したらいいのか、社会経験の無い愛斗は分からなかった。

「……」

 はじめさえは無視を貫く事しか出来ない。
 もし間違った対応をしたら、彼と自分が如何なるのか、今までのことから予想は出来ても、知ったものでは無かったから。

 けれども次第に、見惚れてしまう程に美しい顔をした彼が心を揺さぶられる涙目で訴える姿を、簡単に否定することなんてできなくなっていく。

「……そうだよ」

 最終的に同情で肯定の台詞を発した瞬間、彼は自身の身体を強く抱き返してきた。
 愛斗までもが泣き出してしまいそうなくらいに、酷く震えた身体で。

 しかし、何故だろうか。先程までは少しだけ距離があった筈の彼の顔が今はとても近く視える。

 不思議なことに呼吸も上手く出来ない。

 また、彼の美しい瞳に映る平凡な自分の瞳までも鮮明に認識する事ができる。

 起こった事態を全て察するまでに数秒、いや、実際はもっと短かったかもしれない。
 愛斗は理解することとなるのだ。

 自分の唇と理久の唇が重なっている事を……。

 ──温かくて、柔らかい……。

 唇を合わせるだけの挨拶にもなってしまうくらいに軽いキス。
 気付けば彼はゆっくりと不器用に目を閉じていた。長く量の多い睫毛が、微かに震えている。

 その心地良さと温かさから、愛斗は何も考えることができずに、一緒になってそっと瞼を閉じた。

 彼が今想っている相手は自分以外であることは確かで、他は何処の誰かすらも分からない……そんな皮肉なファーストキスを、愛斗は理久に捧げることになってしまった。
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