めぐり、つむぎ

竜田彦十郎

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はじまり

013 風変わりな講師

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「…ふぅ」

 圭は上空を滑るように流れる雲を見上げたまま、何度目かの溜息を吐いた。
 薄い雲はすべてが白く、圭の気持ちなど知った事かとばかりに形を変えては消えてゆく。
 結局、教室へ着替えに戻った後、そのまま逃げ出すように屋上へと来てしまった。

 誰に見咎められる事もなく、既に四時限目は半分以上が消化されている。
 指先で揺らされる缶コーヒーは封も開けられないまますっかり冷めてしまっていたが、そんな事には興味もないのか、圭はほんの一時間前の出来事を振り返っていた。

 爪先が地を離れ滑るように遠ざかる一樹の呻き声が、まだ耳の奥に残っている。
 何度記憶を掘り返しても、圭は指先ひとつ一樹には触れていなかった。
 しかし実際に一樹の身体は吹き飛んだのだ。
 その場にはクラスの男子生徒全員が居合わせていたが、圭以外の者は手を伸ばした程度で触れられるような位置になかった。

 そんな状況である以上、誰の目にも圭に原因があったとしか思えないだろう。
 それは圭本人も同じくするところであり、自身では何をしたつもりがなくとも、それでも自分がやってしまったのだという罪悪感がじわじわと這い上がってくる。
 そしてそれを認めてしまっているからこそ、圭はこうして一人、屋上で座り込むに至っているのだ。

 声にならない溜息を吐き、視界の外から入ってきた雲を見遣る。今日の空は圭の心境などお構いなしにどこまでも青く突き抜けている。
 せめて体調を崩してしまいかねない程の悪天候であれば、自責の念を僅かばかりでも晴らす事も出来たろうに。
 なんとも恨めしいばかりの晴天だ。

 雲の量も少なく、欠片ほどの雲が流れてゆく様は気球か飛行船が遊覧しているようにも見える。それにしても今日は――

「今日は雲の足が早いわね。上空は風が強いのかしら」

 突然投げかけられた女の声に圭は驚いた。
 まさか授業時間の只中で、自分以外の者が屋上に足を運ぶとは思ってもいなかったのだ。
 しっかりとした目的を持つ者ばかりの叉葉山高において、不良と括られるような行為に及ぶ生徒は皆無だと思っていたのだが。
 否、そうではない。何よりも驚いたのは、漠然と巡らせていた思考を言い当てられたからだ。

「いやぁねぇ。そんな奇妙な物を見るような目をしなくてもいいじゃないの。私だって心理学の心得くらいはあるんだから」

 言葉とは裏腹に、にこやかに微笑みながら圭の前にまで進み出た女は腕を組んで得意そうに鼻を鳴らした。
 涼しげに微笑む美貌は校内のどこにいても周囲の注目を集め、濃紺のスーツに身を包んだ姿は圭と同じ生徒ではない事を物語っている。
 圭も校舎内で何度か目にした事のある姿だったが、直接声を聞くのはこれが初めてだ。
 退魔師養成科の非常勤特別講師にして、対侵蝕者の第一線に身を置く現役の退魔師。名は――

桂木かつらぎ千沙都ちさとよ。よろしくね、加瀬圭くん」

 緋美佳の口から幾度となくその名を聞いた事があった圭である。逆に自分の名を知られているのも不思議な事だとは思わなかったが、緋美佳がどういう風に自分の事を話しているのかは気に掛かった。

「普通に真面目な子だとは聞いていたけど、サボりだなんてイッケナイんだ~?」

 相当に砕けた口調で、座り込む圭の顔を覗き込んでくる千沙都。
 事情を知りながら軽口を叩いているのか、見るからに不機嫌な圭の作り出す空気を和ませようとしているのか、それとも地からしてそうなのか。
 判断のつきかねるところではあったが、今の圭にはどうでもよい事だ。

「………」

 緋美佳の個人的な知人だと知ってはいても、圭は敢えて無言を返答とした。
 今は誰が相手であっても会話をする気にはなれなかったからだが、そんな露骨な反応を前にしても千沙都はどこ吹く風で続ける。

「加瀬くん、昨日今日で突然の有名人だしね。しかも良くない方の意味で。
 若い身だし、ショックでやさぐれちゃうのも分からないでもないわよね」

 まぁ、こんな良い天気の日に仕事するのもバカバカしく感じるわよねぇ。
 青空を仰ぎながら、千沙都は苦笑いを付け加えてみせた。
 およそ生徒を指導する立場の者の発言とも思えなかったが、そういった科白さえも千沙都の纏う雰囲気には似つかわしく感じられる。

「…それで、何か用ですか。不良生徒の取り締まり巡回でも?」

 圭は口を開いた。
 多少無視してみたところで、この千沙都という人物が自分の前から進んで消える事はないだろうと思い至ったからだ。
 せめてもの抵抗のつもりで棘を含んだ言葉を投げつけてみたが、圭が声を発した事を嬉しそうにさせただけだった。

「渦中の人物の、その後の様子をね」

 わざわざ見に来たというのか。圭は眉を顰めた。
 学校側が圭の精神的外傷トラウマを憂いてケア要員を用意したのだとしても、千沙都という人選は適当だとは思えなかった。
 生徒に近い年齢の見目麗しい女性ともなれば生徒と打ち解けるのも早いかもしれないが、そこから先、心のケアを行なうという肝心な部分では千沙都はいかにも人生経験の浅い若輩者だと思える。
 そんな圭の表情から何を読み取ったのか、千沙都は僅かばかり神妙な面持ちとなった。

「傍から見れば、あなたは不運にも事件に巻き込まれてしまっただけの高校生だけれどね。それだけには止めておいてくれない、込み入った事情を抱える人達もいるのよ」

 何か含んだような物言いに、圭は先程とは違う意味で眉根を寄せた。
 千沙都の言葉が何を指しているのかは見当もつかなかったが、変に言葉を選ぼうとしていない態度からは、心のケアといったような世間一般向けの建前など二の次程度に考えているのだと理解できた。
 そうなると、直接面識を持たない千沙都が圭の前に姿を見せる理由が気にもなったが、今の陰鬱な気分をどうこうする程のものでもない。

「……そんな人達がいたとしても、別に俺には関係ないし」

 そんな圭の言葉にどうしたものかと首を傾げる千沙都。色々と話さねばならない事はあるものの、圭の意識がこちらに向いてくれない事には何を言ってみたとしても意味が薄いままで終わってしまうだろう。
 もちろん、一方的に話を突き付けても大きな支障が出る訳でもないが、そういった権力者的思考は千沙都の本意ではない。
 片手間程度の教職とはいえ、互いの理解こそが教育には不可欠だと考えている。

「そうだ、加瀬くん! デートしましょう!」

 取りこぼしたスチール缶がコンクリートの床とぶつかって鈍い音を発した。

 今、何と言った?
 圭は自分の耳を疑い、止まった思考のまま千沙都の方へと顔を向ける。

「あれ? もしかして年上はお好みじゃない?
 私としては、加瀬くんくらいの男の子と並んでも十分にイケてるんじゃないかなって思うんだけど」

 いや、問題はそこじゃないだろう。ツッコむべきところだったが、口は酸素を求める魚のようにパクパクするばかりで声が出てこない。
 やはり千沙都がデートしようと言ったのは聞き間違いではないようだが、何が目的でそんな事を言い出したのか圭にはまるで理解できなかった。

 千沙都の正確な年齢を圭は知らないが、ごく一般的な男子高校生からしてみれば、目の前の女性と並び歩く事に異を唱える者はいないだろう。
 ましてやデートともなれば、誰もが舞い上がってしまいそうな相手だというのは男子生徒万人が認めるに違いない。
 声を掛けられたのが一樹だったとすれば、千切れんばかりに尻尾を振る小犬のように歓喜の声を上げた事だろう。

(……一樹)

 病院のベッドに寝かされている姿を想起した途端、圭は気持ちが深く沈み込むのを感じた。
 友人を病院送りにしておきながら自分は美人講師とデートだなどと、圭はそこまで図太くはない。

「あ……あれれ?」

 圭の意識が自分に向いたと感じた千沙都は上手くいきそうな手応えを掴んだつもりだったが、すぐに塞ぎ込んでしまった圭の姿を見て落胆する。

(うぅ……デートを持ち掛ければ間違いないと思ったのにぃ。最近の高校生はもっと凄い事をしてあげないとダメなのかしら?)

 軽々しい真似はできるだけ避けたい千沙都であったが、今の自分には世のため人のための大義がある。
 それに、上手く立ち回れれば千沙都自身にも莫大な恩恵が期待できるのだ。今日この瞬間こそが人生の分岐点のひとつになるのだと自身を鼓舞する。

 千沙都は決意を固めると盗み見るように視線を動かした。
 幸いにして圭は千沙都にまったく注意を払ってはいない。今ならば難なく背後を取れるだろう。
 後ろから胸を押し付けるように抱きしめ耳元で甘い言葉を囁けば、年下の男――特に思春期真っ盛りの学生なんかはイチコロだと、同僚から薦められた恋愛指南書『成りあがれ、私』には書いてあった。

 気配を殺して圭の背後に回り込み、静かに深呼吸をひとつ。
 迷いの消えた瞳で圭の無防備な首筋を視界の中心に捉えた。

「ねぇ、加瀬く――うひゃっ!?」

 言いかけた瞬間、千沙都の腰で震動が発生した。
 突然の事に驚いた千沙都は跳ねるように圭から離れ、振動の原因であった携帯電話を毟り取るようにして開いた。

「こんな時間に電話なんて誰が……えっ?」

 着信表示を見た千沙都は慌てて圭から距離を取り、携帯電話を耳に押しあてた。

「桂木です………ええ、今少し取り込んでいて………でもそれは………はい……はい………分かりました。すぐに」

 その殆どが相手からの伝達に費やされた会話を終え、千沙都は力なく携帯電話を折り畳んだ。
 自然と溜息が漏れる。せっかく決意を固めた途端に上司からの呼び出しとはなんとも間の悪い。
 しかし、呼び出された内容も緊急事態に準じているだけに後回しにする訳にもいかない。

「ごめんなさいね、加瀬くん。急用が出来ちゃって。また近いうちにお話ししましょ♪」

 胸中とは反する笑顔を振りまき、千沙都は急ぎ足で屋上を後にした。口の中で今日の運勢に悪態を吐きながら、再び取り出した携帯電話の画面も見ずにメールを打ち込み始める。


 一方、屋上に取り残される形となった圭は、甲高い摩擦音を立てて閉まる鉄扉の方向を何とはなしに見ていた。
 桂木千沙都という女性、明るい性格は緋美佳から聞かされていた通りだったなと、今更ながらに思い出していた。
 初対面の、しかも自分の勤務先でもある学校の生徒にいきなりデートを申し込むような挙動があるとまでは触れてはいなかったが。
 緋美佳を介してではあるものの、知らないでもない存在の圭が落ち込んでいるのを見かねてあんな事を言い出したのだろう。
 純粋に元気づけようとしているのでなければ、千沙都ほどの美人が軽々しく異性にデートなどと言うとは思えない。

「俺、そんなに落ち込んでいるように見える……よな、やっぱり」

 その善意には感謝しつつも、もう少しの間だけでも嫌な事は忘れたいと、膝を抱え込んで目を閉じる。
 押し出すように息を吐くと、ほどなくして圭の意識は青空へと吸い込まれるように霧散した。
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