3 / 3
貴族様の男娼
3
しおりを挟む
1週間後、少ない荷物を背負い、シンは娼館を振り返った。
(最後くらい、挨拶したかったんだけどな)
エレは、生憎出かけていた。拙い字で置き手紙を残したが、これで最後かもしれないと思うと後ろめたさが残る。懐中時計を確認する。迎えが来るまでまだ少しあった。
シンは人目を避け、ケープのフードを目深に被った。卑しい仕事であるという認識はある。世間から白い目で見られることも。けれど、シン自身は、この仕事を愚かなものだと思ったことはなかった。
生きていく為の手段であると認めていたし、自分自身やその人生の一部に値段がつけられる。明確な数字で表される。これ以上の恐怖があるだろうか。これ以上の喜びがあるだろうか。
いっそ、人目を憚らず大通りを歩いてみればいいとさえ思う。数字によって価値を認められた今の自分は、かつて盗みで生き長らえていた頃よりもうんと誇れるものだと思えた。
思わずフードに指をやったシンの足元に影が落ちた。顔を上げれば、上等な服を身に着けた青年が微笑んでいる。温厚そうな、吊ったように細い目の男だ。男は目を伏せ軽く一礼し、シンの顔を覗き込んだ。
「失礼、君がシンくんですか」
「……貴族様の使いか」
「そうそう。坊っちゃんのお使いさ。ではシンくん……いや、」
飄々とした態度で、男は軽やかに手を差し伸べる。
「お手をどうぞ、お姫様」
シンが口を開く前に、その小さな手をすくい上げた。
通りに出されていた馬車へ乗せられ、シンは窓から外を眺めていた。
「乗り心地はいかがです、お姫様?」
「馬車なんて初めて乗った」
「それは結構。気分が優れなかったらすぐお兄さんにお教えなさい」
頷き、シンは車窓から男へと視線を移す。フォーサイトと名乗った男は、相変わらず糸のように細い目で笑っている。波のようにうねった赤毛が目に鮮やかだ。
「私の顔に何か?お姫様」
「そのお姫様っていうのは」
「ええ、ええ、よく聞いてくれました」
フォーサイトは手を打ち、嬉しそうにさらに目を細める。
「ご子息のベッドへお迎えするお方ですから、男でも女でも、赤子でも老婆でも、お姫様とお呼びしようと思っていたんです。こんな可愛らしい方を姫と呼ぶことが出来て、私、少し安心してるんです」
シンは思わず目を丸くし、フォーサイトを眺めた。いつでも笑んでいるような細い目も、弧を描く唇も、緑を中心にした上質な衣服も、漂うほんのり甘い香水の香りも、手入れの行き届いた革靴も、一見すれば紳士的で育ちのいい青年だ。
しかしその口からは、淑女が顔を顰めて通り過ぎるような赤裸々な話が飛び出す。シンはくすりと笑った。
「あんた、女の人に嫌われそうだ」
「ええ、よく言われます。有り難いことですねぇ、私からすれば」
フォーサイトは血の色の唇の端を持ち上げ、シンに顔を近づけた。香水の香りがまとわりつく。さらりとしたシンの黒髪を手袋に包まれた指で優しくすくい上げた。
「そして貴方は、どんな淑女よりも美しく清らかだ」
髪を撫で、小さな顎をなぞると唇に触れる。シンはその指の動きを視線で辿り、フォーサイトの開かれない瞳を見上げた。
「誘ってる?」
「さぁ、どうでしょう」
「おれは商品だよ。高くつくけど」
挑発的に目を細めて笑ってみせると、フォーサイトは銃口を向けられた罪人のように両手を上げた。
「お許し下さい。坊っちゃんの姫君に手出しをすれば何と言われるか」
「意気地がないんだな」
ふん、と鼻を鳴らして口角を上げると、フォーサイトは細い目でじっとシンを見つめた。
この目は知っている。情欲と理性を飼い慣らすことの出来る者が、自身に“待て”をしながらこちらが絆されるのを待つ目だ。熱の籠もった目で見つめられ、あなたしかいない、あなたは美しいと囁かれ、絆されてしまう者は少なくない。
シンは人知れずこくりと喉を鳴らしながらも、あえて視線を窓へ向けた。本当に欲しいのなら、襲ってしまえばいいのに。そう胸中で嘲る。
車窓から見える景色は、雑多な街から品の良い物へと変わっていた。この辺だろうかなどと考えながら、緑の増えた爽やかな風景を眺める。白亜の壁に包まれた家、白い日差し、新緑の木々。閉ざされた硝子の窓からも、澄んだ空気が感じられるような気がする。
「おれの主は、どんな人なの」
何気なく問う。これからこの身体の主となる人物の話を、彼は指の先ほども知らなかった。仕事として相手をするのだから容姿や年頃にこだわりはないが、これから世話になる相手として情報を得ておくのは悪くない。
「美しい方ですよ。品が良く、お優しい。まあ少々気の弱いところのある方ですが」
困ったような声色で、フォーサイトは言う。その様子からして、嫌うに嫌えないというやつだろう。
(最後くらい、挨拶したかったんだけどな)
エレは、生憎出かけていた。拙い字で置き手紙を残したが、これで最後かもしれないと思うと後ろめたさが残る。懐中時計を確認する。迎えが来るまでまだ少しあった。
シンは人目を避け、ケープのフードを目深に被った。卑しい仕事であるという認識はある。世間から白い目で見られることも。けれど、シン自身は、この仕事を愚かなものだと思ったことはなかった。
生きていく為の手段であると認めていたし、自分自身やその人生の一部に値段がつけられる。明確な数字で表される。これ以上の恐怖があるだろうか。これ以上の喜びがあるだろうか。
いっそ、人目を憚らず大通りを歩いてみればいいとさえ思う。数字によって価値を認められた今の自分は、かつて盗みで生き長らえていた頃よりもうんと誇れるものだと思えた。
思わずフードに指をやったシンの足元に影が落ちた。顔を上げれば、上等な服を身に着けた青年が微笑んでいる。温厚そうな、吊ったように細い目の男だ。男は目を伏せ軽く一礼し、シンの顔を覗き込んだ。
「失礼、君がシンくんですか」
「……貴族様の使いか」
「そうそう。坊っちゃんのお使いさ。ではシンくん……いや、」
飄々とした態度で、男は軽やかに手を差し伸べる。
「お手をどうぞ、お姫様」
シンが口を開く前に、その小さな手をすくい上げた。
通りに出されていた馬車へ乗せられ、シンは窓から外を眺めていた。
「乗り心地はいかがです、お姫様?」
「馬車なんて初めて乗った」
「それは結構。気分が優れなかったらすぐお兄さんにお教えなさい」
頷き、シンは車窓から男へと視線を移す。フォーサイトと名乗った男は、相変わらず糸のように細い目で笑っている。波のようにうねった赤毛が目に鮮やかだ。
「私の顔に何か?お姫様」
「そのお姫様っていうのは」
「ええ、ええ、よく聞いてくれました」
フォーサイトは手を打ち、嬉しそうにさらに目を細める。
「ご子息のベッドへお迎えするお方ですから、男でも女でも、赤子でも老婆でも、お姫様とお呼びしようと思っていたんです。こんな可愛らしい方を姫と呼ぶことが出来て、私、少し安心してるんです」
シンは思わず目を丸くし、フォーサイトを眺めた。いつでも笑んでいるような細い目も、弧を描く唇も、緑を中心にした上質な衣服も、漂うほんのり甘い香水の香りも、手入れの行き届いた革靴も、一見すれば紳士的で育ちのいい青年だ。
しかしその口からは、淑女が顔を顰めて通り過ぎるような赤裸々な話が飛び出す。シンはくすりと笑った。
「あんた、女の人に嫌われそうだ」
「ええ、よく言われます。有り難いことですねぇ、私からすれば」
フォーサイトは血の色の唇の端を持ち上げ、シンに顔を近づけた。香水の香りがまとわりつく。さらりとしたシンの黒髪を手袋に包まれた指で優しくすくい上げた。
「そして貴方は、どんな淑女よりも美しく清らかだ」
髪を撫で、小さな顎をなぞると唇に触れる。シンはその指の動きを視線で辿り、フォーサイトの開かれない瞳を見上げた。
「誘ってる?」
「さぁ、どうでしょう」
「おれは商品だよ。高くつくけど」
挑発的に目を細めて笑ってみせると、フォーサイトは銃口を向けられた罪人のように両手を上げた。
「お許し下さい。坊っちゃんの姫君に手出しをすれば何と言われるか」
「意気地がないんだな」
ふん、と鼻を鳴らして口角を上げると、フォーサイトは細い目でじっとシンを見つめた。
この目は知っている。情欲と理性を飼い慣らすことの出来る者が、自身に“待て”をしながらこちらが絆されるのを待つ目だ。熱の籠もった目で見つめられ、あなたしかいない、あなたは美しいと囁かれ、絆されてしまう者は少なくない。
シンは人知れずこくりと喉を鳴らしながらも、あえて視線を窓へ向けた。本当に欲しいのなら、襲ってしまえばいいのに。そう胸中で嘲る。
車窓から見える景色は、雑多な街から品の良い物へと変わっていた。この辺だろうかなどと考えながら、緑の増えた爽やかな風景を眺める。白亜の壁に包まれた家、白い日差し、新緑の木々。閉ざされた硝子の窓からも、澄んだ空気が感じられるような気がする。
「おれの主は、どんな人なの」
何気なく問う。これからこの身体の主となる人物の話を、彼は指の先ほども知らなかった。仕事として相手をするのだから容姿や年頃にこだわりはないが、これから世話になる相手として情報を得ておくのは悪くない。
「美しい方ですよ。品が良く、お優しい。まあ少々気の弱いところのある方ですが」
困ったような声色で、フォーサイトは言う。その様子からして、嫌うに嫌えないというやつだろう。
応援ありがとうございます!
0
お気に入りに追加
27
この作品の感想を投稿する
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる