優しい愛の育てかた

御子柴 小春

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第二話

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鷹野春臣(たかのはるおみ)が35歳になる春先、就いている消防署の近くに去年の冬頃新しいマンションが立ち上がったとの事で少し遠方にあるマンションからそこへ引っ越す事になっていた。少し駅から遠いからか空き部屋は多数あったそうだ。鷹野は車を所持している為、駐車場も備えられている事を条件に満たしている事もあって即決した。
部屋の中に業者が荷物を次々に運んで行くのを鷹野は視線を配りつつ家財を置く位置を指定していく。このマンションの一室は一人暮らしにはいい広さの部屋だ。次々とリビングや寝室にダンボールが丁寧に山積みにされていく。
漸く全てを運び終えれば作業員からサインを求められた。

「これで完了しました。宜しければ此方にサインをお願いします」

「ん」

鷹野は短くそれだけを告げるとバインダーに挟まれた紙にフルネームでサインを書く。すると、二人で来ていた内の一人が手際良く家財を運ぶ際にぶつけてしまいそうな角に貼られていた緩衝材を剥がしていき、それを持ちながら一度鷹野に向かい礼をして玄関から出て行くのが見えた。

「ありがとうございます。これで作業は終了になりますので、またご利用が御座いましたら宜しくお願いします」

「あぁ、世話になったな。ありがとさん」

「ありがとうございました」

目の前の作業員が差し出したバインダーを受け取り帽子を取って礼をすると、此方もまた手際良く家財に梱包していた布の資材を持ち出て行った。漸く訪れる静寂と一人の時間が流れるとソファに腰をドカリと落として深く溜息を吐く。積まれたダンボールに視線を移していけば深く溜息を吐き出して背凭れに巨躯を預けた。

「これから一人でコイツら片付けるのもまた、面倒だな」

ぽつりと呟いた言葉を天井に向かって彷徨わせるも、ポケットからタバコとジッポーライターを取り出す。箱の中から一本取り出しフィルターを咥えれば、先端に火を付けて人差し指と中指でそのフィルターに近い部分を挟み唇から離して細く紫煙を吐き出した。
ふと自身の手で持ってきた菓子を詰め合わせた箱が梱包された物が入る紙袋に視線を投げると、隣人への挨拶も済まさなければいけない事に気付く。玄関に向かって右隣は誰も入って居ないらしいのだが、左隣は人が入っていると事前にチェックしていた。煙草を咥えながら立ち上がればダンボールの箱を漁り天面に『リビング備品』と書かれた物を選びガムテープを剥がして開ける。

「確か洗った灰皿がここに……あった」

取り出せばテーブルにそれを置いて灰をとんとんと人差し指で叩きそこに落として再び煙草を咥え、ゴミ箱も取り出せば剥がしたガムテープを丸めて入れながら部屋の隅へと置いた。再びソファに戻れば今度は静かに座り直して上体を少し前に倒し膝に肘を乗せると一旦煙草を離して紫煙を吐く。そして再びフィルターを唇に寄せれば軽く食んでからすうっ、と深く吸い込みそれをまた離してゆっくりと紫煙を吐き出した。挨拶に伺うタイミングを見計ろうと逆のポケットに入れていたスマホを取り出し時間を確認すると、13時32分と示されている。昼時もとっくに過ぎているし丁度いい頃合いかもしれない。

「さっさと済ませておくか」

何度か吸っている内に短くなった煙草を灰皿に押し付けて揉み消せばソファから立ち上がり、その側に置いてあるハンドバッグからキーケースを取り出した。新しい鍵はもう既に繋げてある。それと紙袋を持ちリビングを出れば玄関に入り、前のマンションから履いてきたクロックスに爪先から差し込むと浅く履き、その底を地面に擦りながらドアを開け外へと出た。
左隣になる部屋のドア前に立つとキーケースを尻ポケットにしまいながら紙袋を持つ手の親指の腹でインターホンの子機に備えられたボタンを押す。すると程なくしてそれから声が聞こえて来た。

「はい。…誰?」

不審がりつつも発せられる言葉に若い声に礼儀の無い言葉だ、という印象を受けつつ顎を左手で掴み丁度指先に当たる口元の少し膨れたホクロを緩く掻く。そろりとその手を下ろし子機のカメラに顔が映るようその正面に移動するも、礼儀が無かった事と明らかに自分より若い声というのも相俟って返す言葉には自分も礼儀を与えなかった。

「隣に越してきた鷹野だ」
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