ひみつゴト。

御子柴 小春

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第四話「試用期間、好都合」

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 扉の向こうから聞こえてくる慣れた息遣いと荒れた息遣いが混ざり合っている空気を感じ、忙しなく鳴り響く衣擦れの音を耳に入れる。知りたくないのに。もう思い出したくないのに勝手に歩は進み、ある部屋の前で立ち止まり手が前へと出る。

『やめろ…やめてくれ…』

届かない声で自分自身に制止の言葉を何度もかける。それでも変わらない夢の結末。ドアノブに手をかけ、ゆっくりと押して開けば其処に見えるのは…。

「……」

 また、変わらぬ夢、変わらぬ朝を迎える。
それでも唯一変わらないのは、忘れられなくて心にあるのは夢よりも昨日の出来事だということ。やはり、変わらず気持ちは焦がれたままのようだ。
いい加減認めてしまいたいのにそれを許さないと心中で自分が威圧をかけてくる。何故か。結局結末は『心変わり』だと思い込んでいるからだ。一人を一途に愛することなんて無い。どうせ迎えるそんな結末なら、『終わり無き愛』を繋いでいけばいいと思っている。確実に、井上の元へと落ちているのにそれを嘲笑する様に息に笑いを乗せて言葉を一つ吐いた。

「くだらねぇ。恋だの愛だの、結局最後は終わりに向かってんだよ」

 それは浅野自身に言い聞かせる様にも聞こえた。もしそうだとしても、それでいいとさえ思っていた。裏切られる気持ちになるなら、最初から無かった方がマシだと。纏わり着く様な感覚と寝汗を振り払いたくて朝もシャワーを浴びれば早々に身支度を整え、登校時間にはまだ早い為OASISへと向かうことにした。それは無意識に何かつまらない毎日が、浅野が紡いでいくくだらない毎日が変わるのではないかという期待を抱いていたのだろうか。


 扉を開ければ心地良くベルが鳴る。しかしそこには井上の姿は無かった。いつも通りの挨拶と注文の言葉をマスターに投げかけ席に着く、と同時に着信音が鳴り響き、ポケットのスマートフォンが震え始めた。取り出して画面を見れば、表示されているのは四ノ宮の名前だ。冷ややかな双眼で見据えた後、応答する。

「何か用か、恵美」

「あ、おはよ~詠斗~!あのね、今日は一緒に学校いかないかなぁって」

「ガキじゃあるめぇし、一人で行け。じゃあな」

今は苛立つ相手とは話したくない気分だった。声を、言葉を聞くなり冷ややかな口調でそう告げ終話した。どうにも四ノ宮を見ていると母親を思い出してしまうのだ。男遊びが過ぎる所も、自分に媚びを売ってくるところも。
そんなことより、何よりも井上が不在ということを気にかけていた。ほんの少しだけ申し訳なさも込み上げる。同時に恋に対する失望も。井上は浅野から逃げているのではないか、と考えていた。

『どうせ…ってな。そりゃ、男に迫られりゃそうなるか』

しかし、そんな思考は一気に破られることになる。
扉が開かれ、穏やかなBGMが響く店内にベルが鳴る。その方向に視線をゆるりと向ければ、そこには井上が立っていた。軽くマスターに挨拶を交わし注文を告げれば何かを探す様に辺りを見渡した後、浅野を見付けるや否や向かって来る。文句の一つでも吐きに来るかと構えていた。だが、井上の口から出たのは…。

「浅野君。昨日の答え、俺なりに考えてみました。きっと君は、俺に興味があるのだと思いました。俺に他とは違う何かを感じている、といった所でしょうか…?」

「…は?」

突然告げられる言葉に間抜けな声が浅野の口から零れた。あんな滅茶苦茶な問いについての答えをずっと考えていたのか、と。そして、そんな所にもまた惹かれてしまっている自分がいた。認めてしまうしかない、そう思った瞬間だった。

「だったらどうすんだよ。俺と付き合ってくれんの」

「それは…その…」

「ほらな、分かった所でどうしようもねぇ事なんだよ。俺は生徒でアンタは教師、その上男同士だ。忘れてください?"井上先生"」

まるで煽る様な言葉を紡ぎ、名を呼んだ次の瞬間、纏っている空気が変わったような気がした。張り詰めているような、そんな空気だ。表情を窺えば双眸を少し下げ浅野を見据えていた。その目は少し座っている様に見えた。そして、その口は静かに開かれる。

「いいでしょう。ただ、コレは君と俺の秘密事です。それが約束出来るなら、試用期間というものを設けましょう」

まさかそのような提案をされるとは思わず、暫し沈黙した時間が流れた。浅野はふと我に返り辺りを気にするように周りに視線を配らせる。幸い他に客はいなかった。それもちゃんと視野に入れてのこの言葉なのだろうか。

「試用期間…?なんだソレ」

浅野は素直に疑問を口にする。試用期間とはどんな物なのか、何が許されて何が許されないのか。どうすればその期間が終わるのか。その先はどうなるのか。浅野の中でらしくない感情、期待と不安が入り混じる感覚に少し高揚さえ覚えていた。
そして井上は静かに口を開く。

「卒業式を迎える頃まで、浅野君に付き合います。ただ、それは二人の間でだけの秘密事。もし他に知れるような事があれば、俺が上手く誤魔化します。そして、その時点で期間はお終いです。君には未来がある、そうなるのは当然のことですよね」

あくまで浅野に合わせるといった内容の条件を提示してきた。秘密にするならば許される関係。だが、気になっていたのはそこではなかった。

「もし、試用期間をクリアした上にアンタが俺を好きになったら?」

「その時は…君が俺をしたいようにしていいですよ」

浅野にとっては好条件だ。約束である秘密事というのも都合が良い。こんな美味しい話を飲まない筈が無い。勿論答えは。

「いいぜ、その話。乗ってやるよ」
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