蝉の声

にのみや朱乃

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蝉の声

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 夏といえば一般的に何を思い浮かべるだろうか。

 例えば、海。綺麗なマリンブルーに飛び込み、色鮮やかな小魚を眺めながら、魚になった気分で泳ぐ。あるいは、寄せては返す波を足で感じたり、沈んでいく夕陽を眺めたり、単に浜辺でゆったりと過ごしたりする。浜辺でのバーベキューや、海の家での買い食いも楽しみだ。

 夏が嫌いな人は猛烈な暑さを挙げるだろう。肌が焼けるような日差しや、立っているだけでも息苦しくなるほどの熱気が街中に充満している。あまりの暑さで外に出る気が失せてしまう。女性は日焼けの心配もあるし、最近では熱中症の懸念も大きい。

 それか、これはあたしも当てはまるが、虫が苦手な人にとっては最悪の季節でもある。冬にはおよそ見かけることがない大きな黒い虫がそこかしこを這いずり回ったり、羽音を立てて飛ぶ蜂やら何だかよく判らない虫やらが突然正面を横切ったりする。こちらがどう気をつけようと、彼らはお構いなしに現れる。あと道路でよく潰れているのも、虫嫌いにとっては辛い。

 夏の虫といえば、蝉だ。あたしはそう思う。朝昼夕とけたたましく鳴き続け、蝉の声を聞くと本格的な夏が来たことを実感する。夏の始まりから終わりまで徐々にその種類が変わり、聞こえてくる声の移ろいを感じるのも夏らしい。秋の入口を感じるきっかけにもなる。まあ道路でよく転がっているのは止めてほしいが、それは蝉を責めるわけにもいかない。
 蝉はあたしの中では比較的好ましい部類の虫に含まれていたのだが、あたしの考えを一変させる事件が起こった。

 あたしは友人の紗雪と大学生の頃からルームシェアしている。二人とも近場で就職したから、お互い引っ越しを考えることもなく、1LDKの少し広めの部屋に自然とそのまま住み続けている。家事は明らかに紗雪のほうが多く担当してくれているが、世話好きの紗雪には手がかかるあたしの世話が楽しくて仕方ないらしい。
 紗雪に不満はない。ただ、紗雪は時々変なことを言う癖がある。

「あ、また蝉」

 紗雪がベランダを見て呟く。寝起きのはずなのに、肩より下まで伸びる長い黒髪には癖一つ付いていない。ワンピースタイプのパジャマから着替えていないところを見ると、先に起きて整えたわけではないようだけれど。

「また? なんで家のベランダでひっくり返るのよ」

 あたしは少し外側に跳ねてしまったショートボブの髪を苛立ち紛れに弄る。蝉も最期の場所をもう少し選んでほしい。せめて虫が苦手ではない人の家に飛んでいくことはできないのだろうか。

 朝六時前、太陽もまだ高く上らないうちに、あたしと紗雪は日課のウォーキングに出かける。日中は机に座ってパソコンに向かっているだけの仕事だから、運動不足を解消するために始めたものだ。春に始め、暑くなってもそのまま続けている。汗を流してすっきりしてから出社すると、なかなか集中力が高まるというのも事実だ。
 そんな朝早くでも蝉の声は聞こえる。窓を開ければ大合唱が耳に入る。繁殖のためだと思うが、それにしても感心するほど早起きだ。鳴くことが仕事だとすれば、夕方まで熱心に鳴き続ける蝉はきっと優秀な社員だろう。家のベランダで倒れていなければ、素直に褒めて終わることができるのに。

 いつもなら虫嫌いのあたしのためにすぐ窓を開けて死骸を処理する紗雪だが、今日は窓を閉めたまま動かなかった。じっと窓の外を眺め、その視線は死骸ではなくどこかもっと遠くを見ている。
 長年の付き合いがあたしに警鐘を鳴らす。来る。紗雪の悪い癖が。

「蝉って変な声聞こえる時ない?」

 紗雪は独り言のように静かな声であたしに言う。

「あれって、昔死んだ武士の怨念の声なんだよ」
「は? やめてよ、また怖がらせようとして」

 あたしは極力耳からの音を遮断しようとしながら冷蔵庫を開ける。よく冷えた麦茶をコップに注ぎ、生まれつつある恐怖を腹の奥に押し戻す。

 怖い話は苦手だ。映画やドラマは勿論、小説や漫画でさえも、日常生活に恐怖が侵食してきそうで不安になる。あたしの想像力が豊かすぎるのか、物語に入り込みすぎているのか、夢にまで出てくることもある。意図せずそういう類のものに触れてしまった時、さすがに成人してまで夜に一人でお風呂に入れないとは言えず、それとなく紗雪を誘うことがある。あたしは霊やゾンビの類がそれほど嫌いなのだ。

 一方、紗雪はめっぽう強い。所謂霊感があるというタイプだ。紗雪が言うには、はっきりと見えないけれど臭うし聞こえるらしい。鼻と耳が利くと言うのが正しいのだろうか。とにかく、紗雪はあたしが全く知覚できない何かを察知しているようなのだ。
 それが、紗雪の変なことを言う癖に繋がる。

「本当だよ。よく見て。お面を被った武士の顔みたいな蝉が時々混ざってるの」

 窓の外から目を離さずに紗雪は続ける。淡々と語る口調が、却ってあたしを怖がらせる意図はないのだと悟らせる。

「憎い、辛い、痛い、熱い。そう叫んでるの」
「えぇ? ど、どういうこと?」

 もうあたしの頭は紗雪の話で一杯だ。街の至る所で鳴く蝉が全て武士の怨念の塊に思えてしまう。窓の向こうからミンミンと聞こえる音が呪いの声に聞こえてしまう。その声があたしに向けられているような錯覚に陥る。
 幸せそうに暮らしているお前が憎い。幸せに暮らせなかった自らの生を思うと辛い。戦場で負った傷が痛い。燃え盛る炎から逃げることができず、熱さに苦しむ武士の姿が目蓋の裏に浮かんでくる。蝉は土の中で長い年月を過ごしてから地上に出てくるそうだが、かつてその地で死した武士と土の中で入れ替わってしまうのだろうか。もしくは、死した武士が蝉に扮して機を狙っているのだろうか。

 悪い妄想だ。あたしは頭を振って恐怖を追い出す。けれど、頭に棲みついた恐怖はどんどん膨らんでいく。

「じっと聴いてるとね、蝉も気付くの。ああ、あの人は聴こえるんだ、って。聴こえるならどうにかしてくれって思っちゃう」
「そ……そうすると、どうなるの」
「恨みを晴らしてほしいんだって。他人を同じ目に遭わせることで。ほら、なんか供述の辻褄が合わなくて精神鑑定される人とかいるでしょ」
「あれって、そういうことなの? 蝉に呪われたの?」

 あたしは何かに縋らないと落ち着かなくなってくる。紗雪は目を細めて窓の外を睨む。朝日を浴びてどこか幻想的にも見えるその姿からは、近寄りがたい何かを感じた。

「あとは生きてるお前が憎いって言って呪われちゃうこととか、ある」
「ど、どうなるの、呪われると……?」
「うぅん……いきなりマンションから飛び降りたりとか、かなぁ。死ね、死ね、飛び降りろ、って延々聞こえてくるんだよ」

 いやに現実味のある話だ。風情のあるはずの蝉の声は、死を誘う呪いの声だったのだ。街を歩いていて周りから大音量で言われたら頭がおかしくなりそうだ。紗雪の耳には、蝉の声は過去の死者の嘆きとして聞こえているのだろうか。
 紗雪は警備員のように窓の側から動かない。あたしは身体の震えを止めるために紗雪に近づく。半袖のパジャマから伸びる紗雪の真っ白な腕にしがみつくと、紗雪はそっとあたしに身を寄せてくれる。心強いぬくもりが伝わってくる。

 蝉がどこかから飛んできて、窓から見える電柱に止まった。紗雪の話のせいで、怨念が篭った武士の顔にしか見えなくなる。どうしてこのタイミングであたしの目の届く範囲に来たのだろうか。

「あ、ほら。あれとか」
「も、もしかして、あの電柱の?」
「そう。すごいこっち見てる」

 紗雪に同意されてしまうと、途端に蝉と目が合ったように感じる。鳴いているであろう焦茶色の蝉から目が離せなくなる。まるで自分が狙われているかのような気分になり、胸の鼓動が速くなる。

「でも紗雪、聞こえなきゃ関係ないんでしょ? あたし何も聞こえないもん」

 半ば強がりのように紗雪に抵抗する。聞こえなければ蝉の標的になることはないのだ。何も怖がる必要はない。だってあたしにはただの煩い声としか思えないのだから。
 しかし紗雪の話に隙はない。あたしの手に指を絡めて落ち着かせながら、紗雪は静かに答えた。

「蝉が呪う時はぶつかってくるの。離れていたらそんな大きな呪いは与えられないから、ぶつかった瞬間に全ての力を込めて呪うの」
「き……聞こえない、人にも?」
「そういう無差別な蝉もいるよね。誰でもいいから不幸にしたい、幸せを壊してやりたいって思って呼んでる蝉」

 呼ぶ。紗雪はそう表現した。大きな声で自分の近くまで引き寄せて、飛び掛かる蝉の姿が鮮明に思い描かれる。虫捕りを楽しむ親子が蝉に呪われる光景を想像してしまい、あたしはその不幸な想像を振り払う。

 あの電柱にいる蝉が件の怨念の塊なら、きっとあたしたちを見ている。狙いを定めている。紗雪がずっと窓を開けようとしないのは、蝉が飛び掛かることができないようにするためではないのか。あの蝉が近くに来る前から存在に気付いていて、周囲を警戒していたのではないか。

 電柱の蝉が飛ぶ。こちらに向かって、窓の存在を気にすることもなく。

「いやああああぁっ!」

 あたしは悲鳴を上げて顔を背け、紗雪の細身を強く抱き締めた。激しく羽ばたかれる羽が窓にぶつかる音が聞こえる。
 どん、と窓が震えた。あたしは思わず身を強張らせる。蝉ではなく、紗雪が窓を叩いたのだ。蝉は驚いたように窓から離れ、そのままどこかへ飛んでいってしまった。

 恐る恐る紗雪の顔を見上げる。紗雪は普段のやわらかい表情に戻っていた。

「なぁんて。嘘だよ」

 いつの間にか部屋に充満していた緊張感が一気に解れる。あたしは安堵で座り込みそうになるのを堪えつつ、窓の外と紗雪を交互に見る。遠くから聞こえてくる蝉の声は、あたしが知っている夏の風物詩に戻っていた。

「え? え? どこまでが嘘?」
「ふふ。信じるも信じないもあなた次第?」

 紗雪は優しくあたしを抱き締めてくれる。紗雪の匂いとぬくもりに包まれ、あたしの尖った神経が少しずつ落ち着きを取り戻す。紗雪のほうがあたしよりも背が低いのに、あたしのほうが子どもみたいだ。

 また紗雪の悪い癖に脅かされてしまった。今の話のどこまでが嘘だったのだろう。こちらに飛んできた蝉が件の怨念というところ? 聞こえなくても当たったら終わりというところ? あるいは、今朝の蝉の一連の話? 間近で見る紗雪の顔はそれ以上の詮索を拒むように笑っていた。

「今日は歩くのやめよっか、なっちゃん」
「あー……」
「まだ怖いでしょ? 蝉いっぱいいるよ」

 紗雪はあたしの本心を見透かしたように尋ねる。この話が全て嘘だったとしても、暑い中を歩くような気分ではない。この後出社しなければならないのに、それさえ気が進まない。外に出た瞬間、先程の蝉が待ち構えていたらと思うと、聖域のようなこの部屋から出ることが怖い。

「紗雪は歩かなくていいの?」
「うん。暑いの嫌だし」
「もしかして、歩きたくないから変なこと言った?」
「どうかなぁ? 信じるも信じないもあなた次第、でしょ?」

 肯定も否定もせず、紗雪はキッチンに歩いていく。長い黒髪が揺れる後ろ姿からは本心が窺えない。結局、どこまでが嘘なのかは教えてもらえないようだ。

「外に出るの怖いわ、紗雪のせいで」

 あたしが冗談めいた口調で紗雪を責める。紗雪は振り返ってくすりと笑い、

「大丈夫だよ、なっちゃんにはわたしがいるんだから」

 確かな自信を感じさせる声音でそう応えた。

「どういうことよ」
「なっちゃんはわたしのものだもん。蝉なんかに渡さない。寄れば潰す」

 可愛い笑顔でそう言い切ってしまうあたり、最も恐ろしいのは紗雪なのかもしれない。


 けれど、嘘だったのなら、どうして紗雪はまだ窓を開けないのだろう?


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