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眠りだけを望んだ姫
しおりを挟むその国の姫君は、何よりも眠ることが好きでした。
勉学よりも、研鑽よりも、食事よりも、眠ることが好きでした。
いつしか姫君は周囲から眠り姫と呼ばれるようになりました。
眠り姫は星に語りかけます。
嗚呼、いつまでも心地良く眠ることができたなら。柔らかい羽毛の布団に包まれ、寝台にこの身を埋め、何者にも妨げられない眠りに沈むことができたなら。
叶わぬ願いと知りながら、眠り姫は望まずにいられませんでした。
そして、その日も愛する寝台に飛び込みます。
真夜中に眠り姫は烏の鳴き声で目覚めました。大きな烏が窓の外で啼いていました。
眠り姫は窓を開け、言いました。何かお困りでしょうか。
大烏は翼を広げ、言いました。住処の大樹を切られてしまい、休むところがございません。優しき姫君よ、どうか一晩、貴方の寝台の上に泊まらせていただけませんか。貴方の快い眠りは決して妨げません。
眠り姫は快諾し、大烏を部屋に招き入れました。
大烏は喜び、眠り姫の寝台の上に止まります。そのまま、すぐに眠ってしまいました。
眠り姫も寝台に飛び込みます。そのまま、すぐに眠ってしまいました。
夢を見ました。いつまでも、いつまでも、温もりに包まれる快い夢を。
明くる日から、国中が大騒ぎになりました。
眠り姫が何者にも妨げられない眠りを手に入れたのです。
部屋の窓は開け放たれ、部屋には大きな漆黒の羽が数枚落ちていました。
ある者が羽毛の布団を引き剥がそうとします。彼の腕が千切れました。
ある者が眠り姫を揺り動かします。彼の身体が震えて倒れました。
ある者が太陽の光を浴びせます。彼の目が闇を失いました。
ある者が眠り姫を見て気づきました。これは魔女の呪いではないか。
国王は怒り、民に命じました。
魔女を捜せ。愛しき我が子を死の眠りへ誘った悪しき魔女を。
こうして、この国では魔女狩りが始まります。
ある者が言いました。王様、この街に魔女は居りません。
国王は魔女の手先と疑い、その者を処刑しました。
ある者が言いました。王様、あの街に魔女が居たそうです。
国王は魔女の影を追い、その街を武力で滅ぼしました。
ある者は磔にされました。彼女は魔女ではありませんでした。
ある村は焼き払われました。その村に魔女は居ませんでした。
ある街は廃墟と化しました。その街に魔女は居ませんでした。
国は猜疑に溢れます。
さあ、悪しき魔女を捜せ。
嗚呼、魔女など、この国に居るのだろうか。
疲弊した国を、老いた魔女が訪れます。
老いた魔女は国王に申し出ます。眠り姫を起こしてみせましょう。
目には目を。魔女には魔女を。眠り姫にかけられた魔法を解いてみせましょう。
老いた魔女は眠り姫に魔法を解く魔法をかけます。老いた魔女はその魔力を失いました。
国王は怒り、臣に命じました。
魔女を殺せ。愛しき我が子が目覚めると騙した悪しき魔女を。
こうして、魔力を失った老婆は火刑に処されます。
処刑人は老婆に尋ねました。哀れな魔女よ、狂った国王を戻すことはできないか。貴方はその魔法を知らないか。
老婆は処刑人に言いました。哀れな忠臣よ、狂った国王を戻すことはできません。私はもう魔女ではないのだから。さあ、殺しなさい。さもなくば貴方が死ぬことになる。
処刑人は案山子を焼きました。さあ、逃げなさい。さもなくば貴方は死ぬことになる。
老婆は薄汚れた外套を纏い、闇に消えていきます。
老婆は処刑人に言い残しました。
烏だ。人よりも大きな、賢なる烏を捜しなさい。国王が伐採した大樹を目指しなさい。
これは賢なる烏の復讐。誤れば、国を失うことになりましょう。
賢なる忠臣よ、狂った国王を戻すことができるのは貴方かもしれません。
処刑人は空に尋ねます。賢なる烏とは如何なるものか。
空は答えます。それは、大空の支配者でしょう。
処刑人は風に尋ねます。賢なる烏とは如何なるものか。
風は答えます。それは、大嵐の統治者でしょう。
処刑人は星に尋ねます。賢なる烏とは如何なるものか。
星は答えます。それは、魔女の選定者でしょう。
処刑人は大樹の切株を目指します。
そこへ、一羽の大きな烏が飛んできました。
処刑人は大烏に尋ねます。賢なる烏とは、貴方か。
大烏は処刑人に尋ねます。狂った国王の下僕が僕を狩りに来たのですか。この大樹のように。
処刑人は大烏に尋ねます。姫君を眠らせたのは、貴方か。
大烏は処刑人に答えます。姫君を眠らせたのは、姫君です。
処刑人は剣を捨てます。どうか、姫君を起こしてはくれないか。このままでは国王が国を滅ぼしてしまう。
大烏は翼を広げます。ならば、対価を捧げてはいただけませんか。このままでは国王が何も失いません。
そう、例えば、賢なる忠臣の命を。
大樹の切株を取り込むように蔦が天高く伸びました。
蔦は互いに捻れ、絡まり、やがて大樹となりました。
大樹の根本には処刑人の剣が刺さっていました。まるで墓標のように。
滅びかけた国で、眠り姫は目覚めました。
浸っていたはずの夢は空に飛んでいきました。
包まれていたはずの温もりは嵐に奪われました。
大樹が眠り姫を呼びます。さあ、起きなさい。さもなくば国が滅びることになる。
その日から、国中が大騒ぎになりました。
国王は喜び、民は泣き、国は歓喜に沸きます。
さあ、眠り姫の目覚めを祝え。
嗚呼、魔女狩りなど、ただの悪夢だったのだ。
眠り姫は言いました。何故わたしの眠りを妨げたのですか。
国王は言いました。愛しき我が子よ、朝になれば起きねばならぬ。
眠り姫は尋ねました。朝になれば起きるなど、誰が決めたのですか。
国王は答えました。朝になれば起きるなど、誰もが知ることだ。
眠り姫は怒り、その力を振るいました。
わたしの眠りを妨げる者は赦しません。永い眠りに溺れなさい。
国王は眠りました。脳も、心臓も、筋肉も、等しく眠りました。国王が動くことは二度とありませんでした。
眠り姫は長い眠りの果てに魔女と化していました。
眠り姫は国中の民を眠らせます。永い眠りへと誘います。
誰も、二度と自らの眠りを妨げることのないように。
そうして、眠り姫は愛する寝台に飛び込みます。
嗚呼、これで何者にも妨げられない眠りに沈むことができる。
高い大樹の上で大烏は啼きました。
賢なる忠臣よ、貴方は選択を誤りました。これは僕の復讐。狂った国王から全てを奪うことこそ、僕の復讐。
貴方が望むべきだったのは、狂った国王の処刑。
貴方が望むべきだったのは、広がった猜疑の沈静。
決して、姫君の望みに逆らうべきではなかったのです。
誰も起こしてはならなかったのです。眠りに憑かれ、魔女と化した姫を。
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