眠りだけを望んだ姫

にのみや朱乃

文字の大きさ
上 下
1 / 1

眠りだけを望んだ姫

しおりを挟む

 その国の姫君は、何よりも眠ることが好きでした。
 勉学よりも、研鑽よりも、食事よりも、眠ることが好きでした。
 いつしか姫君は周囲から眠り姫と呼ばれるようになりました。

 眠り姫は星に語りかけます。
 嗚呼、いつまでも心地良く眠ることができたなら。柔らかい羽毛の布団に包まれ、寝台にこの身を埋め、何者にも妨げられない眠りに沈むことができたなら。
 叶わぬ願いと知りながら、眠り姫は望まずにいられませんでした。
 そして、その日も愛する寝台に飛び込みます。

 真夜中に眠り姫は烏の鳴き声で目覚めました。大きな烏が窓の外で啼いていました。
 眠り姫は窓を開け、言いました。何かお困りでしょうか。
 大烏は翼を広げ、言いました。住処の大樹を切られてしまい、休むところがございません。優しき姫君よ、どうか一晩、貴方の寝台の上に泊まらせていただけませんか。貴方の快い眠りは決して妨げません。

 眠り姫は快諾し、大烏を部屋に招き入れました。
 大烏は喜び、眠り姫の寝台の上に止まります。そのまま、すぐに眠ってしまいました。
 眠り姫も寝台に飛び込みます。そのまま、すぐに眠ってしまいました。

 夢を見ました。いつまでも、いつまでも、温もりに包まれる快い夢を。



 明くる日から、国中が大騒ぎになりました。
 眠り姫が何者にも妨げられない眠りを手に入れたのです。
 部屋の窓は開け放たれ、部屋には大きな漆黒の羽が数枚落ちていました。

 ある者が羽毛の布団を引き剥がそうとします。彼の腕が千切れました。
 ある者が眠り姫を揺り動かします。彼の身体が震えて倒れました。
 ある者が太陽の光を浴びせます。彼の目が闇を失いました。
 ある者が眠り姫を見て気づきました。これは魔女の呪いではないか。

 国王は怒り、民に命じました。
 魔女を捜せ。愛しき我が子を死の眠りへ誘った悪しき魔女を。
 こうして、この国では魔女狩りが始まります。

 ある者が言いました。王様、この街に魔女は居りません。
 国王は魔女の手先と疑い、その者を処刑しました。
 ある者が言いました。王様、あの街に魔女が居たそうです。
 国王は魔女の影を追い、その街を武力で滅ぼしました。

 ある者は磔にされました。彼女は魔女ではありませんでした。
 ある村は焼き払われました。その村に魔女は居ませんでした。
 ある街は廃墟と化しました。その街に魔女は居ませんでした。
 国は猜疑に溢れます。
 さあ、悪しき魔女を捜せ。
 嗚呼、魔女など、この国に居るのだろうか。



 疲弊した国を、老いた魔女が訪れます。
 老いた魔女は国王に申し出ます。眠り姫を起こしてみせましょう。
 目には目を。魔女には魔女を。眠り姫にかけられた魔法を解いてみせましょう。

 老いた魔女は眠り姫に魔法を解く魔法をかけます。老いた魔女はその魔力を失いました。
 国王は怒り、臣に命じました。
 魔女を殺せ。愛しき我が子が目覚めると騙した悪しき魔女を。
 こうして、魔力を失った老婆は火刑に処されます。

 処刑人は老婆に尋ねました。哀れな魔女よ、狂った国王を戻すことはできないか。貴方はその魔法を知らないか。
 老婆は処刑人に言いました。哀れな忠臣よ、狂った国王を戻すことはできません。私はもう魔女ではないのだから。さあ、殺しなさい。さもなくば貴方が死ぬことになる。
 処刑人は案山子を焼きました。さあ、逃げなさい。さもなくば貴方は死ぬことになる。

 老婆は薄汚れた外套を纏い、闇に消えていきます。
 老婆は処刑人に言い残しました。
 烏だ。人よりも大きな、賢なる烏を捜しなさい。国王が伐採した大樹を目指しなさい。
 これは賢なる烏の復讐。誤れば、国を失うことになりましょう。
 賢なる忠臣よ、狂った国王を戻すことができるのは貴方かもしれません。


 処刑人は空に尋ねます。賢なる烏とは如何なるものか。
 空は答えます。それは、大空の支配者でしょう。
 処刑人は風に尋ねます。賢なる烏とは如何なるものか。
 風は答えます。それは、大嵐の統治者でしょう。
 処刑人は星に尋ねます。賢なる烏とは如何なるものか。
 星は答えます。それは、魔女の選定者でしょう。

 処刑人は大樹の切株を目指します。
 そこへ、一羽の大きな烏が飛んできました。

 処刑人は大烏に尋ねます。賢なる烏とは、貴方か。
 大烏は処刑人に尋ねます。狂った国王の下僕が僕を狩りに来たのですか。この大樹のように。

 処刑人は大烏に尋ねます。姫君を眠らせたのは、貴方か。
 大烏は処刑人に答えます。姫君を眠らせたのは、姫君です。
 処刑人は剣を捨てます。どうか、姫君を起こしてはくれないか。このままでは国王が国を滅ぼしてしまう。
 大烏は翼を広げます。ならば、対価を捧げてはいただけませんか。このままでは国王が何も失いません。
 そう、例えば、賢なる忠臣の命を。

 大樹の切株を取り込むように蔦が天高く伸びました。
 蔦は互いに捻れ、絡まり、やがて大樹となりました。
 大樹の根本には処刑人の剣が刺さっていました。まるで墓標のように。



 滅びかけた国で、眠り姫は目覚めました。
 浸っていたはずの夢は空に飛んでいきました。
 包まれていたはずの温もりは嵐に奪われました。
 大樹が眠り姫を呼びます。さあ、起きなさい。さもなくば国が滅びることになる。

 その日から、国中が大騒ぎになりました。
 国王は喜び、民は泣き、国は歓喜に沸きます。
 さあ、眠り姫の目覚めを祝え。
 嗚呼、魔女狩りなど、ただの悪夢だったのだ。

 眠り姫は言いました。何故わたしの眠りを妨げたのですか。
 国王は言いました。愛しき我が子よ、朝になれば起きねばならぬ。
 眠り姫は尋ねました。朝になれば起きるなど、誰が決めたのですか。
 国王は答えました。朝になれば起きるなど、誰もが知ることだ。

 眠り姫は怒り、その力を振るいました。
 わたしの眠りを妨げる者は赦しません。永い眠りに溺れなさい。
 国王は眠りました。脳も、心臓も、筋肉も、等しく眠りました。国王が動くことは二度とありませんでした。

 眠り姫は長い眠りの果てに魔女と化していました。
 眠り姫は国中の民を眠らせます。永い眠りへと誘います。
 誰も、二度と自らの眠りを妨げることのないように。
 そうして、眠り姫は愛する寝台に飛び込みます。
 嗚呼、これで何者にも妨げられない眠りに沈むことができる。



 高い大樹の上で大烏は啼きました。
 賢なる忠臣よ、貴方は選択を誤りました。これは僕の復讐。狂った国王から全てを奪うことこそ、僕の復讐。
 貴方が望むべきだったのは、狂った国王の処刑。
 貴方が望むべきだったのは、広がった猜疑の沈静。
 決して、姫君の望みに逆らうべきではなかったのです。

 誰も起こしてはならなかったのです。眠りに憑かれ、魔女と化した姫を。


   †
しおりを挟む

この作品は感想を受け付けておりません。


処理中です...