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開店オープンの前日

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そして、オープンの前日。
政行、35歳の春。


午前11時半には、招待状を出した人数よりも、遥かに上回る人数が店内に入ってる。
博人先生が来てくれてるのが目に映る。
嬉しいな。
博人先生は何人かを連れて来てくれているが、この人たちは東京に住んでるのかな。
でも、クリニック・ボスの姿は何処にも見えない。
お礼を言いたかったんだけど、都合が付かなかったのかな…。
でも、博人先生が来てくれて嬉しいと思ったので声を掛けた。
 「博人先生」
先生は振り向いてくれた。
 「今日は来て下さりありがとうございます」
 「招待状ありがとう。明日からオープンだね、おめでとう」
 「ありがとうございます」

すると、リハビリの先生が声を掛けてくれる。
 「ねえ、店名の由来って何ですか?」
 「俺、すぐ泣いちゃうんだけど…、『素直に泣けば良いんだよ』と言ってくれるので、それなら皆を泣かすかと言われて」
 「あ、それなら自分で付けたのでは無いのですね?」
 「はい、そうです」

博人先生は、その言葉を聞き言ってくる。
 「なるほど、恋人に言われたのか」
 「博人せんせっ…」

博人先生の周りに居た数人は盛り上がってくれる。
 「おー、好きな人が居るんだぁ」
 「恋人が居るのと居ないのとでは、気持ち的に違いますからね」
 「いいなー、俺も欲しい…」

それ以上、何も言われたくないのでキッチンに向かおうとした。
だけど、一人に捕まってしまった。
 「それで、『カレーの辛さで冒険しよう屋』という名前にしたの?」
 「そうです。辛さに挑戦して涙を流す、という意味で」
 「なるほど、それじゃ私も冒険してみようかな」
博人先生の声がする。
 「ショウは辛いのが好みだからな」
 「博人もそうだろ?」

その二人に向かって政行は声を掛ける。
 「辛さの段階は3段階あるので、食べたら感想下さいね」

ショウと呼ばれた人は、はいはーい、と元気よく応えてくれた。


 「ねえ、甘口は無いの?」
 「ベースは甘口です。そしてスパイスを加えて、辛口にしていきます」

泳ぐ事しかしてこなかった、この30年弱。
スランプもあったり、ブランクもあった。
今は、そっち関係の人間には誰にも会いたくない。


博人先生はおでんを食べたり、カレーを三品とも食べようとしている。
見てると、スパイスを加え様としているので、思わずスパイスの缶を奪い取る。
 「博人先生、一匙で2倍の辛さになりますよ」
 「良いから」

政行は辛さを調整してやる。
博人先生は、キーマカレーの辛さに挑戦して完食してくれた。
 「うん、私にはこれぐらいが丁度良いな」

覚えておこう。
博人先生は、ベースにプラス二匙の辛みスパイス。



チリリンッ♪

ベルが鳴るが、今日は貸し切りだ。
口を開きかけるが、入ってこようとしてる人を見ると駆け寄り声を掛けた。
 「来て頂きありがとうございます」
 「遅くなったけど、良いかな?」
 「はい、どうそ」

あの子も一緒だ。
近くで見ると分かる。博人先生にも似ているが、クリニック・ボスにも似ている。
その子が俺に聞いてくる。
 「ねえ、これって何?」
 「おでんの厚揚げですよ」
 「こっちは?」
(え、知らないのか?)と思いながら政行は応じる。
 「こんにゃくですよ」
 「こん…?」
 「ヘルシーな食べ物です」
 「ヘルシー…」
何を思ったのか、その子は博人先生に声を掛けた。
 「ヒロー。はい、これ食べて」
 「なんで、こんにゃく?」
 「ヘルシーな食べ物なんだって。これ食べて、そのポッコッ…」
痛いよぉ…、と自分の頭を擦っている子に、博人先生は言ってる。
 「それ言うなら、友に言えっ」

クリニック・ボスが声を掛けている。
 「はい、そこ。食べ物を振り回さないの」
 「トモー。ヒロが食べてくれない」
 「こんにゃくか…。味はしないと思うけれど、おでんには必要な食べ物だよ。
それに他人に味見させるのではなく、自分で味見しなさいっ」
 「さすがトモ、ばれたか…。ねえ、なんで味はしないの?」
 「全く、ほれ口を開けるっ」
その子は、無理矢理に口を開けさせられ、こんにゃくを口の中に押し込まされていた。


クリニック・ボスは、その子に話しかけてる。
 「こんにゃくはね、身体の栄養となる食べ物では無いんだ」
 「栄養にならない物を食べるの?」
 「そうだよ」
 「どうして?」
 「考えてご覧。栄養になる物ばかり食べてると、どうなる?」
 「…デブになる」
 「でしょ。だからデブになるのを防ぐために、こんにゃくは食べるんだよ」
 「だからヘルシーなの?」
 
クリニック・ボスは溜息を付いてる。
 「肉ステーキと豆腐ステーキ、どっちが好き?」
 「肉ステーキッ」
 「野菜は必ず付くでしょ?」
 「うん、食べてるよ」
 「どうして食べるの?」
 「お肉ばかりだと太るから」
 「そうだよね。なら、野菜は、どんな役目だと思う?」
 「役目?」
 「そうだよ。肉はタンパク質で身体の筋肉を作り、野菜はビタミンで身体の血を作る。
人体には、必要な物だ。それらを一緒に食べる事によって、人間の身体は作られている」
 「デブは…」
 「体質もあるけどね。肉ばかり食べて、野菜は少ししか食べないと太る。その逆もある。
でもね、たくさん食べれば良いという事では無い。それに、ダイエットする為に野菜しか食べないという事では身体のバランスが取れない。
丁度良い、という言葉があるように加減が必要なんだ。
こんにゃくは、カロリーがないけど、食物繊維というのは多量に含まれてる。
それは……」

 「うわぁ…。ダディの話、難しくなってきた。何か食べよう」

そのダディであるクリニック・ボスは、子供が聞いてなくてもお構いなく言ってる。
 「それは、便通をよくする物で、余分なカロリーを吸収して体外に排出してくれる。
食べ物に限らず、不必要な物はこの世には無いんだ。
それに、おでんという食べ物は熱々なのを食べるに限る。
これに日本酒があれば最高なんだけどなー」

え、日本酒?
それなら出せる。
そう思った俺は声を掛ける。
 「日本酒、呑まれますか?」
 「え、良いの?」
 「はい。熱燗と冷、どちらが良いですか?」
 「熱燗で」
 「はい。お待ち下さい」

政行は、お盆にセットして渡す。
 「どうぞ」
 「わぉ♪嬉しい、ありがとう」
 「ごゆっくりどうぞ」



先程の元気いっぱいな声がクリニック・ボスに声を掛けている。
 「ボスは何を食べてるのかな?」
 「おでんですよ」
 「私も食べよっ」

一串を皿に取り、それを口に運ぶ。
 「ん、美味いっ。いい味を出してるなー」
 「昌平さん」
 「何?」
 「私は、恐らくパースで死を迎えるだろう」
 「こういう時に何言ってるんだ」
 「私と出会ったのが縁で、皆が再び集まってくる。私が頼んだのは博人先生だけなのに…」
 「それは、皆が選んだ事だ。ボスが気に病むことは無い」
 「もし、このまま日本に居たら、皆はどうするのだろう」
 「確実に言えるのは、うちの末っ子はパースには行かない。博人も行かないな。マサもだな。
向こうに居る奴等は大いにブーイングの嵐だろうけどな」


そこに陽気な声が割って入ってきた。
 「ショウッ、食べてるか?」
 「博人?お前、なんかイキイキとしてるな」
昌平は気が付き、店主に声を掛ける。
 「おい、店主。こいつに何の酒を飲ませた?」
政行は驚いてる。
 「え、お酒ですか?」

友明は隠す事もしない博人の手に持ってる物を目敏く見つけた。
 「昌平さん、博人先生が飲んでるのはナポレオンだ。ボトルを持ってる」
 「は?ナポレ…」
目の前で、博人はボトルの口に直接口を付けて飲んでる。
昌平は、それを見て驚いてる。
 「博人、お前っ…」
 「あげないから」

それを見た政行は焦っている。
 「俺、ウイスキーとか洋酒は持ってない。洋酒を持ってるのは…」
目で探すと、直ぐに見つかった。
こちらも上機嫌だ。
そいつに声を掛ける。

 「嘉男さんっ!アルコールは駄目だって言ってるでしょっ!!」
上機嫌な声が返ってくる。
 「固い事言わないの。こういう時は飲まないと。ねー、皆さん」


まったくもぅ…。
お酒の匂いで、明日オープン出来なかったらどうしてくれるのっ。

飲み助連中を外にやり、ドアを開け放ってアルコールの匂いを飛ばす。



政行は、先程のクリニック・ボスの言葉を思い返していた。
子供に向けての言葉だったけど、政行にも理解できる。

 「この世には、不必要な物は無いんだよ」

ドクターストップ掛かって30年も経った人の言葉は違う。
説得力あるなあ、と思っていた政行だった。



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