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精霊はエマの肉体を奪ってから、しばらく眠っていた。大樹の下に何層も重なっている落ち葉は、彼女を静かに支えていた。




――精霊は目を覚ました。



夜になっていた。




彼女は初めて人間の肉体を動かした。首を回してみたり、手足をパタパタさせてみたりした。その動きはいずれもぎこちなかった。

(人間はいつもこんなに重たいカタマリを運んでいるのか)

身体の様々な部分を見つめながら閉じたり広げたりして、可動域を確認した。次第に慣れていった。人間がそうしているように、彼女は立ち上がった。ふらつき、こけ、また立ち上がる――。

(さて……村に行くにはどこを辿ればよいのだろう)

乗り移った相手が村の娘であることは、服装からわかっていた。しかし、帰り方がわからない。村の人間はこの森に立ち入らないし、精霊は外の世界を知らなかった。ただ、多くの人間たちを見てきたため、人間のことは理解しているつもりだった。

(朝を待つしかないだろうか)

そんなことを考えていると、精霊は誰かに「おーい!」と呼ばれた気がした。聞き覚えのある、男性の低い声だった。

振り返ると、灯火を掲げた男の姿がある。エマという肉体につく目玉は能力が低いせいか、遠くの人間の顔がはっきり見えない。



(不便な目だ……)

男が徐々に近づいてくる。



「エマ! 探したんだぞ!」

精霊の目の前に現れたのは、アンドレだった。彼女が恋い焦がれ、一人の人間の肉体を奪ってまで会いたかった、あのアンドレである。

「アンドレ!」

精霊も、彼の言葉に自然と反応した。まるでエマという肉体が、彼の名を呼び慣れているかのように。

駆け寄ったアンドレは、灯火で精霊の顔を照らした。

「村中が大騒ぎだったんだぞ。お前がいなくなったって。俺もどれだけ心配したか。さあ、家に帰ろう」

アンドレは安堵の表情を浮かべながらこう言うと、精霊の手を握った。精霊は彼に手を引かれながら、彼の手の温かみに胸がぎゅっと締めつけられた。初めての感覚だった。

「うっ……うぅ……」

激しい痛みが胸中を襲い、精霊は苦しそうにうずくまった。

人間の肌と触れ合うことで、彼女は初めての感覚に包まれた。黒くて、ぶごつくて、温かくて、力強い。人間の生命力――これが肉と骨ゆえに感じるのか、アンドレの手だから感じるのか、精霊にはわからなかった。いずれにしても、幾歳月生きてきたか知れない自分の脈流よりも、はるかに太ましい。精霊はそう感じて、彼の手を握り返した。濃く短く生きる人間の血脈を感じたのかもしれなかった。

「エマ! 大丈夫か!? 呼吸できるか?」

精霊は呼吸を整えた。少しずつ、胸の違和感がとけていく。

そして精霊は、自分がエマと呼ばれていることに、いまさら戸惑った。エマの肉体を奪ったのだから当然なのだけれども。

「うん、平気……」

自分はエマなんだ。演じなければならない。今まで「精霊様」と呼ばれていた自分に、人間の名がついた。これからはエマとして生きていく。精霊はそう自分に言い聞かせた。

しかしこの時点で精霊は、エマが何者なのか知らなかった。

「わたしは……わたしはアンドレにとっての……何なのですか……?」

精霊は胸元をさすりながら、慣れないかすれた声でこう尋ねた。するとアンドレは、彼女のほっそりした手を握りしめたまま、身をかがめて、彼女の顔をのぞき込んだ。彼の表情は、夜の闇に紛れているせいか、暗く見えた。

「何を言っているんだ……。お前は俺の妻じゃないか」
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