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一章【災禍操るポンコツ娘】
神の子(1)
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「……戻ったか」
ニャーンの察した通り、グレンは屋敷にいながら二人の様子を観察していた。ソファに座る彼の前には動く絵が浮かんでいる。光を操る能力で可視光線をねじ曲げ、外の光景を映し出す。相手が眼前にいるかのように拡大することも可能。逃亡者が隠れるような場所、逃走ルートも熟知している。ワンガニの中では誰も彼の目から逃れることはできない。
それにしても意外な展開だ。アイムならあの娘を逃がす、そう踏んでいたのに結局夜の街を散策しただけで戻った。つまり、本当に彼女を自分にぶつけるつもりらしい。アイム自身も参加するとはいえ、結果は火を見るより明らかだろうに。
「加減するつもりは無いぞ……」
それだけはできない。約束がある。怪塵を操る少女を全力で潰す。この世から消し去る。
無論、気乗りする話ではない。善良な少女だということは一目でわかった。昼に奇襲を仕掛けたあの時、何故周りにいた民衆が誰一人怪我をしていなかったのか。彼女が咄嗟に守ったからに他ならない。正体が露見する可能性を考えず自分自身の身さえ守らずに怪塵を操り、他の者達を受け止めさせた。気付かれなかったのはただの幸運。
殺したいとは思わない。逃がすなら逃がして欲しかった。彼とて人間なのである。誰も殺さずに済むならそうしたい。善人が相手ならなおさらに。彼女を手にかけることは大罪だろう。殺めればまず確実に地獄へ落ちる。
だとしても、あの力は危険すぎる。世を滅ぼしかねないほどに。成長しきっていない今だけがチャンスかもしれない。だから手が届く範囲に留まる以上ここで確実に芽を摘んでおく。
しばらくして寝室へ戻った。すると部屋の前にクメルが立っているではないか。こんな時間に珍しい。
彼女は開口一番、問いかけて来る。
「本当に、お受けになるのですか?」
「でなければ引き下がらん。アイム・ユニティとはそういう男だ」
あの獣との付き合いは長い。性格についても熟知している。
「けれど、あの方と戦うのは危険です……また以前のように」
「かもしれんな」
怪塵使いの少女はともかくアイムは強い。前回は引き分けたものの、あちらはまだ本気ではなかったはず。一度深手を負わせたからこそ今度は全力でぶつかって来る。その結果どちらかが死ぬこともあり得る。
決意は固い。そう読み取ったクメルは抱き着いて来た。
「グレン様……!」
「すまない」
そっと押し返し、身を離すグレン。彼女の気持ちは知っているが、応えるわけにはいかない。彼の愛はまだ妻のもの。妻だけにしか向けられない。
「君は素晴らしい女性だ。それでも私は彼女のために生きたい」
「はい……申し訳ございません……」
俯き、泣きながら立ち去って行くクメル。まただ、何年も仕えてくれていたが、彼女もこれで辞めてしまうだろう。英雄とは女性の目によほど魅力的に映るらしい。今までにも同じことを繰り返して来た。
寝室に入り、壁にかけた絵を見つめる。調度品の類を置かないこの寝室に唯一飾られているそれは彼が描いた亡き妻の肖像。記憶の中にある最も美しい彼女、こちらに向かって眩い笑顔を向ける姿。
「あの頃は君を振り向かせるだけで精一杯だったのにな……」
そしてまた思い返すのだ。彼が『神の子』ではなく、ただの普通の男だった時間。幸せだった、あの頃の記憶を──
「おかえり!」
「ただいまメレテ!」
漁から戻ると、妻はいつも明るく出迎えてくれた。グレン・ハイエンドは大陸の西端の漁村で生まれ、そこで育った漁師。ずっと昔はそうだった。
十五の時に幼馴染と夫婦になった。漁は得意な方で若手では一番の銛の名手と言われていたし父親も腕が良い。ほとんどの人間は安全な高地で暮らすことを望むから魚や獣肉は高値で買い取ってもらえて稼ぎも良かった。村でも常に海から強い風が吹く。だから怪塵被害はたまに狂った獣が現れるくらい。漁師は腕っぷしの強い者ばかりでそれすら大した脅威だとは思わなかった。都会の人間は軟弱で言うことがいちいち大袈裟なのだと、よく皆で笑っていた。
あの日が来るまでは。
村の近くの海に面した岸壁。そこに洞窟があった。漁師達は皆その存在を知っていたが、よそ者には知られていない。そういう場所。子供の頃にはよく内部を探検してみたものである。
洞窟は奥に深く続いていて、そしてどんどん狭くなる。だから子供でも大して奥へ進むことはできない。
だから誰も気が付かなかった。気付けるわけもなかった。
災厄は唐突に訪れた。いつもより風が強い雨の夜に。
幼い頃から相思相愛。なのになかなか素直になれない。そんな妻と苦難の末に結ばれてから、たった一年。一年後に地下から巨大な怪物が現れ、村の皆が何一つ理解できぬうちに彼等の命を奪った。風と波とが少しずつ洞窟の奥の奥、人の目が届かない場所へ怪塵を運び、蓄積させていたのだ。それが一定の量に達し怪物を生み出した。
あれは生物を見境無く殺す。遠く離れていても気配を嗅ぎつける。海へ行ってくれたら幸運だった。けれど不運にも村の方が先に目を付けられた。そして故郷の人間は皆殺しにされた。たった一人を除いて。
「なんで、どうして、どうしてなんだよ!?」
彼は突然目覚めた力で怪物を八つ裂きにした。妻がやられたのと同じように原型を留めなくなるまで切り刻んでやった。小さくなった怪物は己を維持できなくなり、崩れて雨と風に押し流された。そして彼は妻の残骸の前で泣き崩れた。
本当に唐突で、別れの言葉さえ交わせなかった。
「どうして、もっと早く……もっと、もっと早く……!」
「……」
その場には他にも一人いた。全て終わってからようやく駆け付けて来た男。当時の彼とさほど歳が変わらないように見える少年。
男は雨に濡れながら、傘も差さずに黙って立っていた。だが、やがて口を開く。
「お主は生きとる」
「……え?」
「お主は生き残った。これからも生き続けろ。その力で、救えなかった分まで誰かを救え。それが死者に対する弔いじゃ。ワシは、そう思う」
「……」
ふざけるなと思った。何が生き残っただ。まるで幸運であるかのように。そんな物言いをする男が許せなかった。
「なんだお前は……誰だ……何が言いたいんだ!?」
「アイム・ユニティ。それがワシの名じゃ。間に合わなかったのはお互い様だな。ワシは一歩出遅れた。お主も覚醒が遅かった。互いに悔いの残る話だが、それでも先へ進まねばならん。立て小僧、気が晴れんなら相手してやる。ただし死者の弔いが先だ。お主の大事な者達を埋葬してやろう」
──それが家族と故郷を失った最悪の日の記憶。そして流浪の英雄に出会い、自らも同じものになろうと立ち上がった、最初の日の記憶。
翌朝、再び主人の寝室を訪れたクメルは驚く。ベッドの状態が昨日整えた時点から全く変わっていない。
「グレン様、まさか眠っていないのですか!?」
「いや、少し眠った。ここで瞑想しながらな」
床から立ち上がるグレン。彼も少し驚いた。昨夜あんなことがあったから彼女は二度と来ないものと覚悟していた。
「そんな……」
愕然とするクメル。床に座ったままで十分休めるはずがない。そんな状態であの大英雄と戦うとでも?
「延期を申し出ましょう。せめて、もう一日先に」
「必要無い」
立ち上がり、駆け寄って来た彼女を掌で制すグレン。本当に必要無い。たしかに若干の疲れは感じるが、それがいい。だからこそ万全。長く実戦を積み重ねて来たことで知った。肉体は少し疲労を感じているくらいの方が素直に思考に追従してくれる。
そして気力はこれ以上無いほど漲っていた。
「今なら勝てるさ、あの男に。今度こそ奴に敗北を認めさせる。認めさせてやる」
そう呟く彼の瞳には、また強烈な憎悪の火が渦巻いていた。
ニャーンの察した通り、グレンは屋敷にいながら二人の様子を観察していた。ソファに座る彼の前には動く絵が浮かんでいる。光を操る能力で可視光線をねじ曲げ、外の光景を映し出す。相手が眼前にいるかのように拡大することも可能。逃亡者が隠れるような場所、逃走ルートも熟知している。ワンガニの中では誰も彼の目から逃れることはできない。
それにしても意外な展開だ。アイムならあの娘を逃がす、そう踏んでいたのに結局夜の街を散策しただけで戻った。つまり、本当に彼女を自分にぶつけるつもりらしい。アイム自身も参加するとはいえ、結果は火を見るより明らかだろうに。
「加減するつもりは無いぞ……」
それだけはできない。約束がある。怪塵を操る少女を全力で潰す。この世から消し去る。
無論、気乗りする話ではない。善良な少女だということは一目でわかった。昼に奇襲を仕掛けたあの時、何故周りにいた民衆が誰一人怪我をしていなかったのか。彼女が咄嗟に守ったからに他ならない。正体が露見する可能性を考えず自分自身の身さえ守らずに怪塵を操り、他の者達を受け止めさせた。気付かれなかったのはただの幸運。
殺したいとは思わない。逃がすなら逃がして欲しかった。彼とて人間なのである。誰も殺さずに済むならそうしたい。善人が相手ならなおさらに。彼女を手にかけることは大罪だろう。殺めればまず確実に地獄へ落ちる。
だとしても、あの力は危険すぎる。世を滅ぼしかねないほどに。成長しきっていない今だけがチャンスかもしれない。だから手が届く範囲に留まる以上ここで確実に芽を摘んでおく。
しばらくして寝室へ戻った。すると部屋の前にクメルが立っているではないか。こんな時間に珍しい。
彼女は開口一番、問いかけて来る。
「本当に、お受けになるのですか?」
「でなければ引き下がらん。アイム・ユニティとはそういう男だ」
あの獣との付き合いは長い。性格についても熟知している。
「けれど、あの方と戦うのは危険です……また以前のように」
「かもしれんな」
怪塵使いの少女はともかくアイムは強い。前回は引き分けたものの、あちらはまだ本気ではなかったはず。一度深手を負わせたからこそ今度は全力でぶつかって来る。その結果どちらかが死ぬこともあり得る。
決意は固い。そう読み取ったクメルは抱き着いて来た。
「グレン様……!」
「すまない」
そっと押し返し、身を離すグレン。彼女の気持ちは知っているが、応えるわけにはいかない。彼の愛はまだ妻のもの。妻だけにしか向けられない。
「君は素晴らしい女性だ。それでも私は彼女のために生きたい」
「はい……申し訳ございません……」
俯き、泣きながら立ち去って行くクメル。まただ、何年も仕えてくれていたが、彼女もこれで辞めてしまうだろう。英雄とは女性の目によほど魅力的に映るらしい。今までにも同じことを繰り返して来た。
寝室に入り、壁にかけた絵を見つめる。調度品の類を置かないこの寝室に唯一飾られているそれは彼が描いた亡き妻の肖像。記憶の中にある最も美しい彼女、こちらに向かって眩い笑顔を向ける姿。
「あの頃は君を振り向かせるだけで精一杯だったのにな……」
そしてまた思い返すのだ。彼が『神の子』ではなく、ただの普通の男だった時間。幸せだった、あの頃の記憶を──
「おかえり!」
「ただいまメレテ!」
漁から戻ると、妻はいつも明るく出迎えてくれた。グレン・ハイエンドは大陸の西端の漁村で生まれ、そこで育った漁師。ずっと昔はそうだった。
十五の時に幼馴染と夫婦になった。漁は得意な方で若手では一番の銛の名手と言われていたし父親も腕が良い。ほとんどの人間は安全な高地で暮らすことを望むから魚や獣肉は高値で買い取ってもらえて稼ぎも良かった。村でも常に海から強い風が吹く。だから怪塵被害はたまに狂った獣が現れるくらい。漁師は腕っぷしの強い者ばかりでそれすら大した脅威だとは思わなかった。都会の人間は軟弱で言うことがいちいち大袈裟なのだと、よく皆で笑っていた。
あの日が来るまでは。
村の近くの海に面した岸壁。そこに洞窟があった。漁師達は皆その存在を知っていたが、よそ者には知られていない。そういう場所。子供の頃にはよく内部を探検してみたものである。
洞窟は奥に深く続いていて、そしてどんどん狭くなる。だから子供でも大して奥へ進むことはできない。
だから誰も気が付かなかった。気付けるわけもなかった。
災厄は唐突に訪れた。いつもより風が強い雨の夜に。
幼い頃から相思相愛。なのになかなか素直になれない。そんな妻と苦難の末に結ばれてから、たった一年。一年後に地下から巨大な怪物が現れ、村の皆が何一つ理解できぬうちに彼等の命を奪った。風と波とが少しずつ洞窟の奥の奥、人の目が届かない場所へ怪塵を運び、蓄積させていたのだ。それが一定の量に達し怪物を生み出した。
あれは生物を見境無く殺す。遠く離れていても気配を嗅ぎつける。海へ行ってくれたら幸運だった。けれど不運にも村の方が先に目を付けられた。そして故郷の人間は皆殺しにされた。たった一人を除いて。
「なんで、どうして、どうしてなんだよ!?」
彼は突然目覚めた力で怪物を八つ裂きにした。妻がやられたのと同じように原型を留めなくなるまで切り刻んでやった。小さくなった怪物は己を維持できなくなり、崩れて雨と風に押し流された。そして彼は妻の残骸の前で泣き崩れた。
本当に唐突で、別れの言葉さえ交わせなかった。
「どうして、もっと早く……もっと、もっと早く……!」
「……」
その場には他にも一人いた。全て終わってからようやく駆け付けて来た男。当時の彼とさほど歳が変わらないように見える少年。
男は雨に濡れながら、傘も差さずに黙って立っていた。だが、やがて口を開く。
「お主は生きとる」
「……え?」
「お主は生き残った。これからも生き続けろ。その力で、救えなかった分まで誰かを救え。それが死者に対する弔いじゃ。ワシは、そう思う」
「……」
ふざけるなと思った。何が生き残っただ。まるで幸運であるかのように。そんな物言いをする男が許せなかった。
「なんだお前は……誰だ……何が言いたいんだ!?」
「アイム・ユニティ。それがワシの名じゃ。間に合わなかったのはお互い様だな。ワシは一歩出遅れた。お主も覚醒が遅かった。互いに悔いの残る話だが、それでも先へ進まねばならん。立て小僧、気が晴れんなら相手してやる。ただし死者の弔いが先だ。お主の大事な者達を埋葬してやろう」
──それが家族と故郷を失った最悪の日の記憶。そして流浪の英雄に出会い、自らも同じものになろうと立ち上がった、最初の日の記憶。
翌朝、再び主人の寝室を訪れたクメルは驚く。ベッドの状態が昨日整えた時点から全く変わっていない。
「グレン様、まさか眠っていないのですか!?」
「いや、少し眠った。ここで瞑想しながらな」
床から立ち上がるグレン。彼も少し驚いた。昨夜あんなことがあったから彼女は二度と来ないものと覚悟していた。
「そんな……」
愕然とするクメル。床に座ったままで十分休めるはずがない。そんな状態であの大英雄と戦うとでも?
「延期を申し出ましょう。せめて、もう一日先に」
「必要無い」
立ち上がり、駆け寄って来た彼女を掌で制すグレン。本当に必要無い。たしかに若干の疲れは感じるが、それがいい。だからこそ万全。長く実戦を積み重ねて来たことで知った。肉体は少し疲労を感じているくらいの方が素直に思考に追従してくれる。
そして気力はこれ以上無いほど漲っていた。
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