当て馬系ヤンデレキャラから脱却を図ろうとしたら、スピンオフに突入していた件。

マツヲ。

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32.弱りきった末に転じた先は、想定がつかない件。

 今しがた耳にした酒匂さかわ先生のセリフが、ただわけのわからない言葉の羅列から翻訳され、ジワジワとあたまに染みてくる。

 常に法令を基準に、正しいか正しくないかで判断をくだし、正しくなければ正論でもって相手を論破する。
 そんな冬也とうやなら、仮に薬を盛られたところで、合意ではない行為は犯罪だと説いて聞かせていたことだろう。

 そして手習いの護身術でもって、抵抗しようとしたはずだ。
 さすがに山よりも高い己のプライドが邪魔をして、声を出して助けを呼ぶことはしなかったかもしれないけれど。

 これまでの冬也が、合理的かつ常に正しい判断をくだしてきたからこそ、社会的に成功者と呼ばれる地位を不動のものにしてきたのも事実だ。
 でも今回の場合にかぎっては、それらをしていたのなら酒匂先生の言うとおり、むしろすべてが逆効果となっていたかもしれなかった。

 少なくとも、人の話なんて聞きそうにないあのドラ息子たちの説得はムダだろうし、下手な抵抗なんてしようものなら、もっと手酷くあつかわれていた可能性は十分にあり得る。
 でも酒匂先生いわく、それすらも織り込んだうえで、今回の作戦が練られていたらしい。

 ならば最初から己は、彼らを釣りあげるための餌として呼ばれたにすぎないわけで、なんならむしろショーの一環としてその毒牙にかけられることさえ期待されていたと言ってもいい。
 だというのに、そういった思惑があることにみじんも気づかなかった自分は、なんておめでたいヤツだったんだろうか?

 トップに立つ人材ならば、そうした人の思惑を読みとる能力や反対にそれを隠す能力が要求されるというのに、それが足りていなかった自分と、足りていた酒匂先生。
 反省すべきは俺自身だというのは、言うまでもなくわかった。
 けれどそれ以上に、心が痛みを訴えてくる。

 まるで大きな手で心臓が、キュッとにぎりつぶされようとしているみたいな、そんな息苦しさが込み上げてくる。
 やはりこの世界での己は、対象としか見られないのだろうかと。

 なにもだれからも愛され、大切にされる存在になりたいなんて、そんな大それた願いは持ち合わせていない。
 けれど、せめて自分が大切に思う相手くらいからは、おなじように思われたいというのは、そんなにむずかしいことなんだろうか?

「────っ!」
「冬也様っ!?」
 あわてて口もとをおさえ、嗚咽をこらえる俺の様子に、白幡しらはたの顔に動揺が走った。

「おどろいたな……最近は君の雰囲気が大きく変わったというウワサは聞いていたけれど、本当のことだったのか……」
 若干その声色に呆れがまざっているのではないかと邪推してしまいそうになるのは、きっと今、俺の心が弱っているからだ。

 わかっている、本来の筋書きとはちがうことをしているのは、俺のほうなんだってことくらい。
 いくら怖くても悲しくても、それを表に出さないのが、これまでの『鷹矢凪たかやなぎ冬也とうや』という人物だったはずなのに。

 たとえば今回の囮役に求められる条件が、見目のよさと酒匂先生のお気に入りという点だけならば、手駒のなかには俺以上にふさわしい、美男美女だって何人もいたかもしれない。
 けれど会食の場にひとりで置いて帰るのが不自然ではなくて、さらにそれをネタにゆすってくることが絶対にない人物となると、とたんに相手がかぎられてくる。

 ついでにヤツらの言葉を信じるならば、これまで俺を鉄壁のガードで守ってきた白幡を失い、さらには最近のグループ会社のメインバンクの破綻のあおりを受けて弱っていそうなところもふくめ、今なら手を出しやすいという印象をあたえられるところも、なおさら都合がよかったのだろう。

 そこまでふくめてかんがえたなら、酒匂先生の持つ手駒のなかで、俺を使うのが最善の策としか言えない。
 と、そこまで理解できてしまったからこそ、面と向かって文句を言うことができなくなっていた。

「さて、冬也くん。今回は事前に君へ説明もできずに、結果的に無理やり巻き込んでしまってすまなかったね。私にできることなら、なんでも君の要求を飲もう」
 おたがいの本心を押し隠したやり取りに、先にしびれを切らしたのは酒匂先生のほうだった。

 一足飛びに、報酬についての交渉を持ちかけられる。
 おそらく酒匂先生は、俺が今回の件について、なんらかの対価を要求すると思っているのかもしれない。

 酒匂先生ほどの人物が『できることなら、なんでも』だなんて、破格の提示だ。
 本来ならここで、なんらかの助力を願っておけば、今後会社の存続という点でも有利な展開となるのだろう。

 このスピンオフにおいて、冬也が己の会社を存続させられるかどうかは、無事にハッピーエンドをむかえるために重要な分かれ目となるのは、まちがいないと思うのだけど。
 心はひんやりと冷たく後ろ向きになり、かんがえることを放棄しそうになっていた。

「……期待された役回りを演じきることもできず、不甲斐ない姿を御目に触れさせてしまい、申し訳なく存じます……」
 そのせいで、やっとのことで口からひねり出せたセリフは、要求ですらなかった。

「いやいや、おかげで政界の膿を無事出すことができたんだ、君は十分働いてくれたよ冬也くん。この私から対価を受け取るだけの権利はある」
 以前の冬也なら、ここでなんの要求もしないほうが、かえって相手の疑念を強めてしまうだろうと思ったにちがいない。
 そしてちょうどいい落としどころを探りつつ、自社グループの利益となるなにかを要求し、すんなり受け入れられていたことだろう。

「……ですが今回のことで、私があなたになにかを要求するつもりはありません───認識の甘かった自分自身が悪いのですから……」
「冬也、くん……?」
 今の自分のあたまで、必死にかんがえて出したこたえは、それだった。

 だって、それをするには、今しがたこの身に起きたことを事後承諾し、あまつさえそれに値段をつけるということだから。
 それってつまりは───今後もそれ相当の支払いをすれば、おなじことをしてもよいと了承することになってしまう。

 そんなのは無理だった。
 たとえ未遂に終わろうと、無理やりにからだを暴かれる恐怖は、二度と味わいたくはない。
 ここで呆れられ、切り捨てられてしまうことになろうとも、受け入れることはできなかった。

「あぁダメですね、本来なら『政界のドン』たるからすれば私のような若輩者、しょせんは便利な手駒のひとつにすぎないというのに……はそんなことはしないと、勝手に思い込んでしまっていましたから……」

 けれど、それ以上のセリフをつむぐことはできなかった。
 なぜなら、深く心を傷つけられた悲しみが涙となって、あふれだしてしまったから。

 だって俺は知っている、この人は本当の身内のことは大事にする人だということを。
 その酒匂先生に事前に相談されることもなく、こうして囮にさせられたということは、俺はこの人にとっては身内でもなんでもなかったのだ、ということになるのだろう。

 キリキリと胸が締めつけられるような痛みを訴えてきて、ツンと鼻の奥にもそれは伝播する。
 それのせいで、静かに涙は頬を伝って落ちていった。
 あぁ、せっかく白幡がハンカチでぬぐってくれたのに、これじゃ意味がなかったな……。

 やはり白幡を失った自分には、無償の愛をかたむけてくれるような『身内』は、もうどこにもいないのだという事実だけが突きつけられた結果になったというわけだ。
 しゃくりあげそうになるのを、最後の意地で我慢する。

「───っ、すまなかった、冬也くん!」
「いいえ、先生が気にされる必要はありません。あなたからのこれまでのご厚意の数々を、勘ちがいした私が悪かっただけなのですから……」
 とたんに顔色をなくす相手に、しかし精いっぱいの虚勢を張ってほほえみかける。

 厳しい躾と教育の機会しかあたえてくれなかった実父とちがって、酒匂先生は俺にたいして、これまではまるで叔父や祖父のようにやさしく接してくれていたから、つい甘えてしまっていたんだろう。
 本当は、ただの便利な手駒にするために手懐けられていただけだったのに。

 でもそれも、これで終わる。
 期待をされた役割すら満足に果たせず、破格の申し出となった助力すら断り、役立たずとなってしまった今の俺の醜態をさらしてしまったのだから。
 きっと酒匂先生は、あきれかえってしまったことだろう。

 けれど。
 その瞬間、スイッチが切り替わるかのようになにかの流れが、そして空気が変わったのを、たしかに感じた。

「いや、まちがえていたのは、私のほうだ───よりによって、なぜ君を犠牲にしようなどということができたのか……」
 にじみ出るのは、深い悔恨の念。
 眉間に刻まれた深いシワが、本人の苦悩をなにより如実にあらわしていた。

「ゆるしてくれ、冬也くん……君はいつだって私に誠実に向き合ってきてくれた、ふたりといない大切な存在だったというのに……君ならば、なにがあろうと大丈夫だろうだなんて思い込んでしまっていた。私はいったい、なにを見ていたのだろうな……?」
 俺をまっすぐに見つめる酒匂先生の瞳からは、滂沱の涙があふれていた。
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