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忘れたつもりだった

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 講演が終わり、会場を後にした蒼は、いまだ興奮さめやらぬ井上とともに施設内のカフェへと移った。
「いやー! 若いうちに成功してる奴ってのは意識が違うよな意識が!」
「そ……そう、ですね」
 とりあえず気付けにと頼んだブレンドコーヒーを啜りながら、曖昧に蒼は頷く。
 案の定、講演の内容はほとんど蒼の頭には残らなかった。
 ただ、演壇に立つ琢己の一挙手一投足を目で追いかけるうちに、気が付くと質問の時間に移り、隣の井上が何か質問するのへ琢己が答えた瞬間、一瞬だけ視線が合った気がしたことだけはやけに鮮明に覚えている。
 忘れたつもりでいた。
 少なくとも蒼は。
 だが実際は、まるで忘れてなどいなかったのだ。言葉を切り出す際のわずかなタメや、ペンを持つ手の仕草。相手の話に耳を傾ける時の、どこか哲人めいた柔和な表情――何もかも、記憶に残る挙措そのままで、細かな共通点を見出すたびに蒼の胸は切なく痛んだ。
「どうした?」
「えっ?」
 顔を上げる。テーブルの向かいで、井上が心配顔で蒼を覗き込んでいた。
「顔色が悪いぞ。気分でも悪いのか?」
「い、いえ、別に……」
 慌てて笑みを繕うと、蒼は手元のコーヒーを啜った。
「気を付けてくれよ。お前、去年もその調子でいきなり倒れただろ」
「その節は……まぁ、ご迷惑をおかけしました。でも、今日は本当に大丈夫なんです。このまま、家に帰って休めば、」
「蒼」
 ――えっ。
 聞き覚えのある声に名を呼ばれ、覚えず蒼は息を呑む。
 この、身体の芯にぞくりと響く深みのあるバリトンは――
 おそるおそる振り返る。
 いつの間に現われたのだろう。蒼の背後に、つい先程まで演壇に立っていた男が、にこやかな笑みを浮かべて蒼を見下ろしていた。
「良かった。まだ中にいてくれて」
「……え」
 思いがけない展開に蒼は呆然となる。
 なぜ、どうして琢己がこんなところに……
「いやぁ石動さん! 先程は素晴らしい講演をありがとうございますっ!」
 すかさず立ち上がった井上が、いかにも体育会系らしく折り目正しい礼をする。そんな井上に、琢己はにこやかなスマイルで応じると、再び蒼に向き直り、「この方は?」と問うた。
 琢己の態度に、どうやら蒼の知り合いらしいと察した井上がおやという顔をする。
「ひょっとして石動さん、早川とお知り合いなんですか?」
 すると琢己は、ええ、と曖昧に笑って、
「私の大学時代の後輩ですよ」
「ええっ!? おい何だよ早川っ! それならそうと最初から言えよっ!」
「そ、それは……でも、」
 返す言葉に困りながら、おそるおそる蒼は琢己の顔を見上げる。すると琢己は、おどけたように肩をすくめて、
「まぁ、昔から奥床しい人間でしたからね。彼は」
 と、事実を知る人間からすればあまりにも当たり障りのない答えを返した。
「そうですか。自分は、早川と同じ会社に勤める井上という者です」
 言いながら井上は、懐から取り出した名刺を琢己の前に突き出す。それを快く受け取った琢己は、自らも名刺を取り出し井上に差し出した。それを井上は、取引先のお偉方相手でもここまではしないだろうと思わせる態度で恭しく受け取る。
「いやぁ、まさかあの石動さんと知り合いになれるとは光栄だなぁ」
「それは大袈裟ですよ。私など所詮は取るに足らない人間です」
「またまた、ご謙遜を!」
「いえ、本当ですよ。とくに家庭のこととなるとまるで駄目でして。――これはオフレコですが、実は現在、妻と別居中でして」
「……えっ」
 一瞬、琢己が口にした言葉の意味が分からず蒼は呆然となる。
 妻と別居中? あの、結婚式で幸せに満ち溢れていた琢己が……?
 さりげなく琢己の左手に目を落とす。
 あの結婚式の日、神父の前で琢己の指に嵌められたはずの指輪は、今は影も形も見当たらなかった。
「おっと、そろそろ次の予定に向かわなくては。では、私はこれで」
 そして琢己は、にこやかな笑みを残して足早にカフェを立ち去ってゆく。その、昔と変わらない広く逞しい背中を見送りながら、蒼は、たった今聞かされた意想外の事実を何度も、何度も何度も頭の奥で反芻していた。
「いやぁ、あんな出来た人でも、奥さんに愛想をつかされることもあるんだなぁ。ていうか贅沢すぎだろ、石動さんの奥さん」
「……」
「ん? どうした早川。どうもさっきから調子がおかしいな」
「え? あ……いえ、そんなことは」
「っつーかお前、知り合いなら知り合いだって先に教えてくれよ! なんか恥かいちまったじゃねーか」
「すみません……」
 慌てて笑みを繕いながら、その実、蒼の心は今なお琢己の言葉が意味するところを延々と探し求めていた。
 やはり、忘れられていないのだ。
 だからこそ、あんな他愛もないはずの言葉に動揺して……
「ちょっと、トイレ行ってきます」
 ほとんど逃げるように席を立つと、蒼は、とりあえず混乱した思考を落ち着けるべく近場のトイレへと急いだ。
 洗面台に飛びつき、顔に水を叩きつける。
 そうして何度も顔を洗ううち、一度は混乱した気分もようやく落ち着きを取り戻しはじめた。
 馬鹿な考えはよせ。
 あの人が、もう一度こちらを振り返ることは絶対に――絶対にありえないのだ。
 二年前、式場で目にした石動夫妻のブライダル姿は、あたかも雑誌のグラビアか何かのように完璧に調和していた。学生時代に読者モデルを務めていたという新婦は、琢己と並んでもなお見劣りすることなく、むしろ完璧な美しさで新郎の隣を飾っていた。
 そんな二人の新たな門出を、多くの人々が祝福し喜んだ。両家の関係者はもちろん、新郎新婦の友人や勤め先の関係者、そして、大学時代の先輩後輩に至るまで――
 そんな、華々しい結婚式からわずか二年。
 普通なら、今なお新婚夫婦としての生活を謳歌している頃のはずだ。その石動が、どうして今更、蒼に――よりにもよって同性の元恋人なぞに振り向くものか。
 そう。ありえないのだ。
 あの人が、もう一度振り返ってくれるなど。だからこそ蒼は――
 不意に懐のスマホが震え、手を拭く間も惜しむように慌てて取り出す。さてはトイレが長いと心配した井上が電話をかけてきたのか。もしくは拓海が、講演が終わった時間を見計らって連絡を……
「えっ?」
 画面を目にした瞬間、蒼はその場に硬直する。
 表示されていたのは、もう何度も消そうとして消せずにいた――密かに連絡を待ち続け、そして期待を裏切られてきた番号――
 すなわち、琢己の番号だった。
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