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あなたは〝タクミ〟じゃない

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 通されたのは、目が眩むほど贅沢な内装が施された部屋だった。
 飴色に輝く柱に施された彫刻も、繊細な意匠が描かれた壁紙も――巨大なマントルピースも、踵が埋まりそうな毛足の長いカーペットも、それに頭上の絢爛なシャンデリアも、何もかもが、一目で一流とわかる品だ。そんな贅沢きわまる空間に、さらに重厚な造りの家具を惜しげもなく並べるなら、蒼のような一般庶民はただ溜息をつくことしかできない。
 ただ――と、蒼は思う。なぜだろう、どうもこの部屋は肌に合わない……。
「どうだ、気に入ったか、この部屋は?」
 蒼の肩にさりげなく手を置きながら、誇らしげに琢己が言う。
「え? いえ……あ、はい」
 慌てて言い直し、そのまま足元のカーペットに目を落とす。ふかふかの足元は、だが重心が取りにくく、うっかりすると転んでしまいそうだ。
「……すごく、素敵なお部屋です」
「そうだろう。わざわざお前との夜のためにリザーブした部屋だ。気に入ってもらわなければ困るよ」
 誇らしげに答える琢己に、蒼は微苦笑で応じる。これが本当に蒼のためというのなら、なぜ、蒼はこんなにも居心地の悪い思いを強いられなければいけないのだろう……
 蒼の返答に、琢己は満足げな笑みを浮かべると、さっそく部屋の隅にあるサイドバーへと向かった。
「ブランデーは飲めるか?」
「は、はい……いただきます」
 頷きながら蒼は、改めて、自分が招かれた部屋を見渡す。
 部屋にサイドバーのあるスイートなど、これまでの人生で目にしたこともなければ、まして泊まったこともない――いや、これからの人生でも、おそらく二度とないだろう。
 とりあえずマントルピースそばのソファに腰を下ろす。アール・ヌーボー調の、やや装飾過多な印象はあるがなかなか品のいいソファだ。そのソファは、しかし、座面がふかふかと柔らかすぎ、うっかりすると今にも身体が埋まってしまいそうになる。
 やがて、サイドバーでブランデーを注いだ琢己がソファに戻ってくる。礼を言いつつグラスを受け取り、目を落とすと、ひどく浮かない顔をした自分が琥珀色の水面にゆらゆらと揺れていた。
 やがて蒼の隣に、おもむろに琢己が腰を下ろしてくる。
 その姿を、蒼はさりげなく横目で盗み見る。ソファに深々と身体を預けた琢己の優雅な姿は、ファッション雑誌のポートレートでも観ているかのようで、その美しさに改めて蒼は溜息をつく。
 優雅に組まれた長い脚も、ゆったりと肘掛けに置かれた腕も――俳優のように整った顔立ちも――何もかも、切ないほどにあの頃と変わらない。
「いや嬉しいよ」
 蒼のグラスに自分のそれを軽くかち合わせながら、しみじみと琢己は呟く。今夜、彼のグラスに注がれたそれは、いつものペリエではなく琥珀色のブランデーだ。――このまま、ここで夜を明かすつもりなのだろう。おそらくは蒼とともに……
 そのグラスを軽く呷ると、琢己は続ける。
「こうして、年に一度のクリスマスを、お前と二人で過ごせるんだからな」
「……大袈裟ですよ」
 とりあえず苦笑で応じ、蒼もまた手元のグラスを舐める。洋酒特有のきついアルコールが舌先を焼き、覚えず蒼は顔をしかめた。
「どうした。口に合わなかったか?」
「いえ……洋酒ってその、この独特の苦みがどうも苦手で」
「ははっ子供だな。この苦みの良さが分からんとは」
「……苦いのは、嫌いです」
 膝にかすかな重みがかかり、見ると、琢己の手が蒼の膝に添えられていた。振り返ると、琢己が覗き込むように蒼の顔を見つめている。
「恋もそうだ。苦みもあって、初めて本物の恋と呼べる。甘ったるいだけの恋など、所詮、ガキの恋愛ごっこでしかない」
 囁き、そっと唇を寄せてくる――
「だから、苦みしか与えてくれなかったんですか。あなたは」
「……は?」
 蒼の言葉に、一瞬、琢己は何を言われたのか分からないという顔になる。そんな琢己の呆けたような顔に向けて、なおも蒼は言った。
「なるほど、あれはあなたなりの優しさだったというわけですね。僕を大人にするための……ええ、おかげで僕は立派な大人になれました。あなたのおかげで、恋の苦みを、苦しみを、痛みを知ることができた……もっとも、優しいあなたは、それ以外の味は何ひとつ僕に教えてはくれませんでしたがね」
 蒼の言葉に、琢己は「ははっ」と苦笑を浮かべる。おそらく、悪い冗談でも口にしているとでも思ったのだろう。――が、だとすれば琢己の読みは完全に外れていた。
「今日は……あなたにお願いがあって来ました」
「お願い?」
 おそらく彼にとっては意想外の会話の流れに、怪訝な色を隠しもせずに問い返す。
「今度は何だ? お前の指輪なら、ほら、もう買ってある、」
「僕を本当に愛しているのなら――」
 琢己の言葉を、蒼は強い言葉で無理やりに遮る。琢己は懐をまさぐる手を止めると、そんな蒼を意外なものを見る目で見つめ返した。
 が、構わず蒼は続ける。
 今日、この日のためだけに用意した言葉を。
「お願いします、僕と別れてください。その代わり、僕の身体のみを愛しているのなら、どうぞ、お好きになさって結構です」
「……は?」
 今度こそ、琢己は呆けたように呆然となる。
 それは普段、圧倒的な機転の速さでビジネスを制する石動琢己が、おそらく初めて浮かべる表情だっただろう。それほどに、たったいま蒼が口にした言葉は、即座に意味を解するには難解だったということだろうか。
 やがて琢己は、苦笑交じりに呻いた。
「ど……どういうことだ」
「そのままの意味です。とくに裏などはありません」
 気まずい沈黙が、ふたたび二人を包む。
 が、やがて――
「あはははは!」
 広々としたスイートに派手な哄笑が弾け、見ると、琢己が見たこともないほど複雑きわまる表情で笑っていた。
 泣いているような、かと思えば激怒しているような――どれほど達者な役者でも、こんな奇妙な表情はそうそう造り得ないだろう。
「こいつは、なかなか面白い冗談だ……! つまり、俺とは身体だけの関係で収めたいと、そういうことか?」
「そう……いう解釈で結構です」
「試しているのか? え? 俺の気持ちを! お前が!」
「いえ。あなたの気持ちは、もはや試すまでもありません。……ずっと、知っていましたから」
「は? 知っていた?」
「はい。あなたにとって、僕がただの……玩具にすぎなかったことを」
「……」
 蒼の言葉に、琢己が幽鬼のような表情で見つめ返してくる。その、呆然を通り越してもはや白痴めいた表情は、だが、一切の心底を伺わせないぶん、余計に不気味な印象を与えた。
 だが。それでも蒼は引かなかった。
 本当は、ずっと、最初から気付いていたのだ。自分が、ただの玩具としてしか看做されていなかったことを。好きな時に抱き、好きな時に欲望を満たすことのできる、つまりはそういう玩具でしかなかったことを。
 が、それを認めてしまえば、きっと自分は恐ろしく惨めになってしまう。
 だからこそ蒼は気付かないふりを続けた。のみならず、〝タクミ〟は自分を愛してくれているのだと言い聞かせ、そして自分を欺きつづけた。
 要するに最初から最後まで、蒼の恋は偽りでしかなかった。
 蒼を愛してくれる〝タクミ〟など、最初からどこにも存在しなかったのだ……
「何故、そんな目で俺を見る」
「……」
「何故、そんな軽蔑の目で俺を見るのかと訊いているんだッッ!」
「……っ!」
 瞬間、背中に強い衝撃を覚えて蒼は小さく呻く。
 気付くと、蒼の身体はソファの座面に強く押しつけられていた。
「ああ……そうとも」
 鼻先に、見たことがないほど凶悪な琢己の顔が迫る。その醜く歪んだ表情に、多少のイレギュラーは覚悟していた蒼もさすがに蒼褪める。元が端正な顔立ちだけに、いざ崩れると、もはやその醜悪さは見るに堪えない。
「お前の言うとおりだ……俺にとって、お前は所詮、身体だけの人間だった。……お前を抱いたのも、一度ぐらいは男を抱いてみたいという子供じみた気まぐれがきっかけだった。それが……まさか、こんなことになるとは……」
「こ……こんなこと?」
「快すぎたんだよ、お前の身体は……結局、お前の味を知った俺は、もはや女の身体では一切満足できない身体になってしまった……妻を抱いても、別の女を抱いても、身体はつねにお前の感触を追い求めている……要するに俺は、呪われちまったのさ、お前に……お前の、その快すぎる身体に……」
 ビッ、と何かを引き裂く鋭い音がして、見ると、琢己の手が蒼のシャツを強引に引き剥いていた。
 普段の温厚な雰囲気とは裏腹に、意外と頭に血が逆上りやすい琢己は、かつて恋人として付き合っていた時も、時々、こうして逆上しては蒼を無理やりに押し倒し、そして抱いた。
 そんな時の琢己はきまって乱暴で、それでも、彼に見捨てられたくない一心だった蒼は頑張って応じていたのだけど、そのたびに蒼は、自分が使い捨ての玩具にでもなったような惨めさに泣く羽目になった。
 そういえば、こんなふうに手荒く抱かれるのは久しぶりだ。
 拓海は、いくら喧嘩の後で苛ついている時でも、決して乱暴にはしなかったから。
 やがて、顕わになった胸板に、餓えた野良犬の貌をした琢己がむしゃぶりつく。
「ぅあ……っ!」
 乱暴な口づけは鎖骨から胸へ、やがて突起へと移る。貪るだけの乱暴な愛撫に、しかし、蒼の身体は不覚にも応じてしまう。
「や、やめて、くださ……んっ」
「責任を……」
「……えっ?」
「俺をこんな身体にした責任を、今夜はたっぷり取ってもらうからな」
 言うなり蒼の蕾に強く噛みつく。鋭い痛みとともに何ともいえない甘い痺れが背筋を走り、さらに蒼は堪らなくなる。
「っ……あ、や、やめて……石動さん、っ」
「琢己と呼べ」
 蒼の必死の懇願を、しかし琢己は冷ややかに突き返す。
「この前からずうっと言っているだろう。なぜ言うことを聞かない? そんなに俺の名を口にするのが忌まわしいか? えぇ?」
「ち、違います」
「じゃあ何だッッ!?」
「あなたは、もう、僕の〝タクミ〟じゃない!」
 その時――
 琢己が浮かべた表情を、おそらく蒼は二度と忘れることはできないだろう。
 悲しいような情けないような、縋るような憤るような、甘えるような怒るような――さまざまな表情が次々と浮かんでは消え、最終的には、迷子の子供を思わせるひどく不安げな顔に落ち着いた。
「……頼む」
「えっ?」
「もう一度……せめて、一度でいい。もう一度、お前の声で、俺の名前を……呼んでくれ。……一度でいいから……」
 その腕が、する、と腕が伸びて、蒼の肩をそっと抱き寄せる。思いがけない琢己の豹変に、わけがわからず呆然となる蒼を、なおも琢己は強く抱き寄せる。
 その腕は、だが、強くはあるものの決して乱暴というわけではなく。
 ただひたすらに、優しかった。――あの琢己の腕だとは、にわかに信じられないほどに。
 やがて耳元で、押し殺したような嗚咽が響きはじめた。ますます困惑する蒼の耳元で、絞るような声が聞こえたのはその時だった。
「……すまなかった」
「……」
「本当に……愛していたんだ。信じてくれ」
 その、縋るような声色に嘘の気配はなく、あるいは本当に、琢己は自分を愛してくれていたのかもしれないと蒼は思うともなく思った。ただ、その気持ちに、蒼はもちろん琢己自身も気付けずにいただけで。
 ふと胸の内に愛しさがこみ上げて、その広い背中に腕を回す。何度も、何度も何度も脳裏に蘇らせては追い求めてきたその背中が、今は、蒼の目の前で頼りなく震えていた。
 抱きしめたい。抱き寄せて、そして今度こそ、身体だけでなく心も――
 だが。
「……離れてください」
 琢己の背中に回しかけた手を、代わりに、その肩に置いて突っぱねる。
 たとえ愛してくれていたとして――否、であればこそ余計に琢己を愛するわけにはいかなかった。
 そうでなくとも、もう二度と、この男を愛せないという確信が蒼にはあった。この期に及んで抱かせたところで、それは所詮、傷を舐め合うだけの空しい交合にしかなりえないとも。
「すみません」
 呆然となる琢己に、蒼は告げた。
「僕にとっての〝タクミ〟は一人です。――そして、あなたはその一人じゃない」
 そしてソファを立つと、破れたシャツを掻き合わせながら足元の鞄を取り上げ、琢己に背を向ける。
「さようなら。あなたとは今後、ビジネス以外では二度と会うつもりはありません」
 言い残すと、蒼は、彼のために用意されたという豪奢なスイートを後にした。
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