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再会

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「うーん、何だかなぁ」
 それが、初めて渉のギャルソン姿を目にしたときの速見の感想だった。
「何というか……まぁ、サイズはいいんだけど雰囲気がなぁ。っていうか、そもそも童顔すぎるんだよあんた。本当に社長の同級生?」
 それを言われると、渉としては返す言葉がなくなってしまう。
 顔立ちの幼さは、渉にしてみれば一種の呪いのようなもので、とくに社会人になってからは、このために損をしたケースを挙げるときりがなかった。取引先には散々ナメた態度を取られた挙句、あいつは頼りにならないからと担当換えを求められたことも一度や二度ではない。ほかの業種ならともかく、こと営業マンにとって童顔はハンデ以外の何物でもない。――そのハンデを覆すほどの実力を身につけられなかった渉も、まぁ悪いといえば悪いのだけど。
「あの、童顔だと、やっぱりまずいんですか」
 よっぽど渉の表情が深刻げに見えたのだろう、とりなすように速見は笑った。
「あ、いや、まずいってほどじゃないんだけどさ……ただちょっと、いじめてみたくなっただけっていうか」
「……そうですか」
 何とか追従笑いを浮べようとするも、うまく笑えない自分が渉はもどかしかった。冗談のように〝虐める〟などと口にする速見に、自分でも思う以上に悪い印象を抱いてしまったのかもしれない。
「ところで、仕事のことは社長から何か聞いてる?」
「いえ……詳しいことは、こちらに来てから話があるとのことだったので、とくには……」
「えっ? じゃあ何も聞かずに上京してきたわけ? すごいなあんた、見た目によらず大胆っていうか、まぁチャレンジャーだよな、うん」
「……どうも」
 相手に悪気はないのだろうが、この正直すぎる物言いも苦手だ。
 厭でも思い出してしまうのは前の会社の上司だ。売上のためには身体を売れと怒鳴りつけ、硬いペン立てでも何でも平気で投げつけてくる。あのときの恐怖は、今思い出しても膝が竦む。
 そして、あの頃のことを思い出すと必ず苛まれる症状がある。
 身体が慄え、冷や汗が出る。
 肺を押し上げられるような感覚に息をするのさえ苦しくなる。
 まずい、更衣室に戻って安定剤を……
「どうした?」
「えっ?」
 顔を上げると、速見が怪訝そうな顔で渉を見つめていた。
「なんか、顔色悪いけど……ひょっとして気分でも悪い?」
「い、いえ……そういうわけでは、」
「わかった、ちょっと待ってて」
 言い繕う渉を後目に、速見はカウンターの向こうに飛び込むと、その奥の棚にずらりと並ぶガラス瓶の中から次々と瓶を掴み出し、こちらにラベルが見えるかたちでカウンターに並べた。
 瓶には、それぞれ乾いた草のようなものがわさわさと詰められている。
「な……何ですか、それ」
 何となく更衣室に戻るのも憚られて、仕方なしに問えば、
「ハーブだよ。この店で出すお茶の材料だ」
「お茶……ですか? これが?」
 お茶といえば緑茶か、せいぜい夏に飲む麦茶くらいしかイメージできない渉には、目の前に並ぶ干し草がお茶の原料になるとはどうしても信じられない。
 そんな渉の疑問をよそに、速見は慣れた手つきで次々と瓶の蓋を開くと、匙で瓶の中から草を掬い出し、そばに用意した小皿に無造作に放り込んでいった。
 一連の作業が終わると、小皿の中身を見せるように渉に突き出してくる。
「この乾いたニラみたいなのがレモングラス。こっちのちっこい紫色の花がラベンダーで、黄色い綿みたいなやつがカモミール。――まぁ、こういうのはおいおい覚えていくといいよ」
 続けて別の棚から白い陶製のポットを取り出し、そこに、常時沸かしてあるらしい奥のコンロの薬缶から勢いよく湯を注ぎこんだ。そこに茶葉を入れるのかと思いきや、どうも違うらしく、そのままポットの蓋を閉じてしまう。
「これは、ポットを温めるためのお湯。お茶に使うお湯は別に沸かすんだ」
 言いながら今度は、奥の冷蔵庫を渉に開いてみせた。ケースには、色も形もラベルもまちまちなペットボトルがずらりと並んでいる。
「それは……?」
「ミネラルウォーターだよ。海外ブランドのやつから国内メーカのものまで、産地別のものも含めて常時五十種類以上が常備されてる。――ええと、社長と同郷ってことは、サキも九州の生まれだよね?」
「は、はい……熊本で……」
「おおっ、だったらいいのがある」
 言いながら速見は、ラベルに阿蘇の天然水と書かれたボトルを取り出すと、それをカウンターに座る渉の前に置いた。たしかに熊本は全国でも水処として有名だが、こうして、東京のビジネス街でボトルに詰められているものを見ると、何だか少し新鮮な気もする。
「欧米の水に比べて、日本の水は軟水といって全体に口当たりが優しいんだ。中でも九州の水はまろやかでね。ほっとしたい時、リラックスしたい時は九州の水で淹れるといい。逆に気持ちをリフレッシュしたいときは、キレのいい南アルプスあたりの水で淹れるのがオススメだ」
 よどみなく説明を加えながら、その手は休みなく準備を続ける。
 ボトルから薬缶に水を入移し、それを電気コンロにかける。その間に、ポットから先ほどのお湯を捨て――そんな単純な動作さえ手馴れていて、見ていて惚れ惚れしてしまう。
 速水を苦手に思う気持ちは、いつの間にか忘れていた。
「そこの棚からさ、カップ取ってきて。サキの気に入ったやつでいいから」
 ふり返ると、店の片隅に置かれた欧風の食器棚に愛らしいティーカップがずらりと並んでいる。色も形もさまざまで、見ているだけで何だか楽しくなってくる。
「基本的にカップはお客様に選んでいただくことになってるんだ。常連さんの中には、自分のカップはこれと決めていらっしゃる方もいてね、中には買ってしまわれる方もいるぐらいなんだよ。そういう方のカップは――棚の隣の、鍵のかかったガラスケースに並べてある」
 居酒屋で言うボトルキープのようなものか。にしても、カップを取り置きしてまで通いつめる客がいるというのが渉には驚きだった。どう見ても、ただのカフェにしか見えないのに……
 やがてお湯が沸いたのだろう、薬缶の蓋がちんちんと可愛らしい音を立てはじめた。
「おっ、沸いた」
 そのお湯を、小皿の草とともに陶器のポットに一気に注ぎ込む。
「カップは選んだ?」
「えっ? あ、ええと」
 だしぬけに問われ、手近にあった一つを慌てて手に取る。カウンターに運ぶと、そこに速見は余った薬缶のお湯を軽く注いだ。
「こうしてカップを温めておくんだ。お茶が冷めにくくなる」
 シンクに湯を捨て、空になったカップをソーサーとともにカウンターに置く。いよいよ陶器のポットを手に取ると、煮出したお茶をゆっくりとカップに注ぎ込んだ。
 てっきり紅茶のようなものを想像していた渉は、だが、カップに現れた枯れ草色の液体に軽く拍子抜けを食らった。
「これが……お茶、ですか?」
「そう。速見店長謹製やすらぎハーブティー」
「ハーブティー……」
 ティーと言うぐらいだからやっぱりお茶なのだろう。しかし、目の前のそれは出涸らしから無理やり搾り出した薄い緑茶のようで、お茶と呼ぶにはどうも頼りない。
「まぁ、とりあえず飲んでみてよ」
「……はぁ」
 半信半疑でカップを手に取り、口をつける。――瞬間、渉の疑念はあっけなく消し飛んだ。
 ほんの一口含むだけで、レモンに似た香りが一気に鼻を抜けていく。さわやかで、それでいてほっとする不思議な香りに、気づくと渉はほっと溜息を洩らしていた。
「すごい、これ……匂いが」
 驚く渉に、速見は得意気にニヤリと笑った。
「だろ? うちのハーブはどれも原産地にこだわってて、世界中から一級品のものを仕入れてるんだ。だから、あんな少量でもこれだけ強い香りが引き出せるってわけ」
「す、すごいんですね……ハーブって……」
「で、どう? 少しは気分が楽になった?」
「えっ?」
 気遣わしげな速見の眼差しに、ようやく渉は理解する。このお茶は、どうやら渉の気分を和ませるために淹れてくれたものらしい。
 そういえば、身体の慄えも、それに息苦しさも収まっている……
「疲れたんだろ。ごめんな。まだ東京に着いて間もない人間にいろいろ言っちゃって」
 どうやら渉の不調を、単に旅の疲れのせいと思ったらしい。
 渉としては、病気のことはなるべく他人に知られたくなく、だから速水が勝手に誤解してくれたことにほっとしつつも、心配をかけてしまったこと自体は申し訳なく思った。
「ここはさ、つまりはそういう店なわけ」
「そういう……店?」
「そう。仕事や日々の暮らしで疲れちゃった人に、ほんのひととき安らいでもらうための店。んで俺たちは、ハーブや何やの知識を通じてそのお手伝いをする、まぁ一種のサポートスタッフみたいなもんだ」
「安らいでもらう……ですか」
 手元で揺れる枯草色の水面を見つめながらぼんやり呟く。あの頃の暮らしの中に、たとえばこんな店があったら、自分は壊れずに済んだのだろうか……
「あれ? 早かったっすね社長」
 社長――不意に速水が口にした言葉に、渉は思わず身構える。ここでいう社長といえば、渉は一人しか思い浮かばない……
「ほら来てますよ。社長が言ってた人」
「ああ」
 身体の芯に響くような低音。いよいよ間違いない、この声の主は。
 ――お前を友人だと思ったことは一度もない。
 静まりかけたはずの動悸が速くなる。手元のハーブティーから立ちのぼる香りで何とか気持ちを落ち着けようとするも、神経は厭でも背後の気配を捉えてしまう。
 何を今更。あいつとの再会は、東京に出ると決めたときから覚悟していたことだ……
 やがて隣の席に、黒い人影が腰を下ろす気配を感じた。と同時に鼻先に漂う、ハーブティーのそれとは違うスパイシーな大人の香り。
 観念してふり返る。記憶のそれと寸分違わない――いや、あの頃に比べてもなお大人の色気を増した旧友が、覗き込むように渉を見つめていた。
 ほどよく削げた頬に、日本人には珍しいほど細く尖った鼻梁。ただでさえ薄い髭は丁寧に剃り上げられ、清潔感という点では申し分ない。
 全体的に精悍な顔立ちの中で、とりわけ印象的なのは、歌舞伎役者のように目尻の切れ上がった大きな目だ。いかにも気の強そうな、それでいて、どこか茶目っ気を感じさせる双眸には、何かミステリアスな印象を抱かないではいられない。
 すらりとした長身を包むのは、詰襟の学生服ではなくスマートなシルエットのスーツ。そのアウトラインがえもいわれず優美なのは、たぶん、量販店の吊るし売りではなくオーダーメイドのそれだからだろう。よく見ると、全体に白いピンストライプが入っていて、黒いだけのスーツとは違う華やかさと大人の色気を加えている。
 が、いくら洒落たスーツも土台によって台無しになることもある。渉の元上司がまさにその口で、締まりのないビール腹が上等なスーツの魅力を完全に殺していた。その点、鷹村の身体はジムか何かで鍛えているのか見事な逆三角で、男でも見惚れてしまうシルエットだ。
 身体つきは高校時代と大差ない一方で、昔と決定的に変わった点がある。眼鏡だ。
 高校の頃、鷹村の目が悪いという話は聞いたことがなかったから、大学時代か、あるいは社会人になってから視力が落ちてしまったのだろう。流線的でスマートなデザインの銀縁眼鏡は、だが、鷹村の精悍な魅力を殺すどころか知的に引き立てさえしている。
「久しぶりだな、渉」
 七年ぶりに旧友の口から聞く〝渉〟は、ひどく大人びて聞こえた。
「ああ、ちょうど今、サキにお茶を淹れてたところなんすよ」
「サキ?」
 速見の言葉に、怪訝そうに鷹村が眉を寄せる。
「はい。山崎だからサキ。ってか社長、この人ほんとに二十五なんすか? 正直、高校生にしか見えないんすけど」
「まぁ……元々ガキみたいな奴だったからな、こいつは」
 大きく広い手のひらが、渉の背中をぽんと叩く。高校時代、部活のトレーニングで渉が体力の限界を迎えそうになると、よく鷹村は、こんなふうに背中を叩いて渉を励ましてくれた。――その感覚だけは、あの頃と何も変わらない。
「よければ社長にも何か淹れましょうか」
「いや」
 言うなり鷹村は渉に手を伸ばすと、その手からおもむろにカップを奪い取った。
 わけがわからず呆然と見守る渉をよそに、そのカップを鼻に寄せ、す、と香りを嗅ぐ。そうして、何かを納得したようにふんと鼻を鳴らすと、渉が口をつけたカップを何の躊躇いもなく唇に運んだ。
 色も形も薄い一文字の唇は、見た目によらず熱く柔らかいことを渉は知っている……
「こいつのコンセプトは?」
「安らぎです。いや、なんかひどく疲れてる感じだったんで……まぁ、東京に出てきたばかりってことで、いろいろ旅の疲れも溜まってんのかなぁって」
「なるほど」
 それきり鷹村は黙りこむと、黙々とカップを口に運び、とうとう一人でお茶を干してしまった。
「ごちそうさん。まぁ俺は、もう少しパンチの効いた味が好みだがな」
 飲み終えたカップをソーサーに戻し、カウンターに置いた鞄を取って席を立つ。
「あれ? もう行くんすか?」
「ああ。これから、来月品川でオープンするレストランの視察に行くんだ」
「いやー、相変わらず多忙っすね社長」
「なに、仕事がないよりはマシさ」
 冗談っぽく肩を竦めると、鷹村は思い出したように渉に向き直った。不意打ちのように視線を向けられ、なぜか渉は戸惑う。
「そうだ渉。お前に渡すものがあった」
「わ……渡すもの?」
 答える代りに鷹村はスーツの懐から一枚のカードを取り出すと、それを渉の前のカウンターに置いた。3021とアラビア数字が記される以外は、文字も何も記されていない漆黒の表。手に取って裏返すと、こちらは表に対して真っ白だ。ただし数字も含めて文字は何も記されていない。
 続けて鷹村は手帳を取り出すと、何やら手早く書きつけはじめた。――渉が、鷹村の左手に光る指輪の存在に気づいたのはこのときだ。
 やがて鷹村は、書きつけたページを破って渉に差し出してきた。
「今日からここがお前の家だ」
「えっ……家?」
「ああ」
 戸惑う渉を後目に鷹村はきびすを返すと、あとは振り返りもせずに店を出て行った。
「いやぁ、相変わらず忙しい人だなぁほんと」
 ぼやく速水とともにその背中を見送りながら、しかし渉は、全く別のことに気を取られていた。
 あの指輪は、まさか……。
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