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がんばらなくていい

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 御園が店に現われたのは、それから間もなくのことだ。
「せいぜい鷹村さんの顔に泥を塗らない程度には頑張ることね」
「……はい」
 のっけから浴びせられた言葉にヘコまされながら、それでも渉は普段の開店準備を進める。テーブルや床に汚れはないか。窓ガラスは曇っていないか。トイレは汚れていないか。洗面台のアメニティは切らしていないか……
 とにかく、来店したお客さまに心地よい時間を提供するのが自分たちの仕事だ。単純に、お茶を淹れるだけが仕事ではない。
 横目でフロアを盗み見ると、ほかのスタッフもいつになくきびきびと動き回っている。もちろん、御園の存在がそうさせているのだろう。その御園は、早くもギャルソン姿に着替えてフロアの隅で店内をするどく見渡している。
 緊張感のないサービスを支持するつもりはない。ただ、いきすぎた監視と干渉、そのために起こる過度の委縮は、きっと、この店の良さを潰してしまうだろう。
 恐怖は、必ずしも成果につながるとは限らない。
 前の会社でもそうだった。怒鳴られ、恐怖を与えられた社員が必ずしも数字を上げるとは限らず、むしろ彼らは、委縮して成績を落としてしまうことのほうが多かった。苛立った上司がそれを叱り飛ばし、そうして部下はまた成績を下げる……この負のスパイラルから逃れるには、会社を逃げ出すか、あるいは壊れるしかない。
 だが――今の渉には、そのどちらも御免だった。
 やがて十一時のオープンとともに、数人の客がちらほらと来店する。その一人に、さっそく渉は声をかけた。
「こんにちは。本日はどのようなティーをお作りしましょうか」
 相手は、週に一二度は店に顔を出す常連客だった。
 この店では、とくに常連客の好みや最近飲んだティーの履歴などの情報を、スタッフ全員でこまかく共有することになっていて、もちろん渉もそれを把握している。
 まずは客の要望を聞く。要望といってもほとんど世話話のようなもので、他愛のない会話の中からそれとなく希望を引き出す。さらに、彼女の好みや最近の履歴を交えつつブレンドのアイディアを練り、提案する。
「近頃、お肌のトラブルでお悩みということでしたら、ビタミンの豊富なローズヒップに、美肌効果の期待されるヒースを加えたティーはいかがですか?」
「そうね。じゃ、今日はそれをいただくわ」
 カウンターに戻り、さっそくティーの準備にかかる。まずはポットにお湯を満たし、温める間に棚から茶葉の瓶を取り出してブレンドを――
「四分二十四秒」
 耳元に、冷やかな声が流れ込んだのはそのときだ。
 ふり返ると、ストップウォッチを手にした御園が冷たく渉を睨みつけている。
「あなたが、あのお客様から注文を取るのにかかった時間よ。どれだけ無駄話が好きなのよ。私たちには、そんなものに無駄な給料を割く余裕はなくってよ」
「……はい」
「次は一分以内で注文を取りなさい」
 一分では、せいぜいメニュー内のブレンドティーを薦めて終わりだ。初見の客にはそれで構わないにしても、オリジナルのブレンドやスタッフとの会話を楽しみに店を訪れる常連客には、それではあまりにも物足りないのではないか。
 ――そいつの言うことは、まぁ、テキトーに流しとけ。ただし口答えはしないこと。
「はい」
 御園にというよりは、速水のアドバイスに対して渉は答えた。
 そんな御園の接客はというと、まさに〝スマート〟そのものだった。
 さすがは高級ホテルを実家に持つ令嬢なだけはあり、立ち居振る舞いや身のこなしに一切の無駄がない。驚いたのは欧米人のキャリアウーマンが店に現われたときで、同じく金髪碧眼の鬼塚が「うち英語むりやわぁ。高校のときずっと赤点だったもん」と慌ててカウンターの奥に隠れる一方、御園が完璧な発音の英語で対応に当たったときはさすがに圧倒された。
 ただ、その態度はどこかそっけなくもあって、アットホームさを目指す店の雰囲気からは完全に浮いている。
 いや、浮いているというよりは、端から融け込む気がないのだろう。
 その一方で渉は、すすんで客に声をかけ、御園が嫌がるような丁寧な説明を試みつづけた。当てつけというよりは、それが今の自分にできる最良の接客だと確信していたからだ。
 自分は御園ほど器用でも、それに優秀でもない。
 そんな自分にもできることを今はやるしかない。懸命に。心を込めて。
「先日はリラックス系のブレンドをお召しになっていましたが……今日はあいにくの空模様ですし、気分だけでも爽快になれるミント系のブレンドはいかがです?」
 渉の提案に、テーブル席の老婦人は愉快そうに微笑んだ。
「あら、面白いわねそれ。じゃ、それでいただくわ――ええと、山崎さん?」
「はい――あ、いえヤマサキです。サキは濁らないんです」
「あら失礼。――あなた、いつもカウンターの向こうでお仕事してる方よね。こうしてお話ししてみると、案外しっかりした方でびっくりしたわ。正直、おどおどした印象があったから」
「そ、それは……」
 渉は思わず目を落とした。照れくさいこともあったが、それ以上に、自分の知らないところで自分を見ている客がいるという事実が急に怖くなったのだ。
 いやだ見られたくない。こんな無能で、ダメな僕など――……
 ふと肩を叩かれ、ふり返る。
 たったいま背後を通り過ぎたらしいスタッフの一人が、何食わぬ顔で来店客に声をかけている。副店長の山之内という人で、速水とは対称的に寡黙な印象だが、つねにフロア全体に気を配っていて、ときに的確なアドバイスをくれたりもする。
 そうだ。見られることを恐れてはいけない。
 注目されることを、期待されることを恐れてはいけないんだ。
「ありがとうございます。では、さっそくティーをお淹れしてきますね」
 にこり微笑むと、跳ねるような足取りで渉はカウンターに戻った。
 その後も渉は、順調にフロアでの接客をこなしていった。慣れてくると、客とのコミュニケーションは思った以上に楽しくて、そんな自分に渉はひそかに驚いていた。
 御園からの苦言は相変わらずだったが、スルーを心得た渉には、もはや大したダメージにはならなかった。あとは、このまま閉店まで何も起こらなければ―――
「大丈夫ですよ。頑張れば……きっと大丈夫ですから」
 御園の声だ。あれほど客との世話話はするなと命じておきながら――
 だが、彼女が客との会話をはじめたということは、つまり、こちらのやり方を認めてくれたということだろう。
 ただ、何かが……何かが引っかかる。
「よろしければ、何か元気になれるブレンドをお作りしましょうか? こちらの『頑張る人のホットブレンド』などはいかがでしょう。よろしいですか? ……ダメ。ではこちらの『イエローハッピーブレンド』は……」
 が、相手の客は答えない。俯いたまま、じっとテーブルを見つめている。
 綺麗だが、ちょっと陰気な感じのする若い女性だ。見覚えがないところを見ると、一見の客か、もしくは渉の知らない常連だろう。
 ただ、時間帯やメイクの雰囲気から見て仕事帰りなのは間違いない。ひょっとすると会社で大きな失敗をして、それで落ち込んでいるのかもしれない。
 そんなときの〝頑張れ〟は、本人にしてみればただの呪いでしかない。
 散々足掻いて、もう、これ以上どう頑張ればいいか分からないときにかけられる〝頑張れ〟ほどつらい言葉はない。まだ頑張らなきゃいけないのか。そもそも、これ以上何を頑張ればいいのか。わからなくて混乱して、そんな自分が許せなくてまた苦しくなる。
 それでも周囲の人間は、やはり同じ言葉をかけつづける。
 頑張れ。がんばれ。ガンバレ――
「あのっ」
 だしぬけな渉の声に、キッ、と御園がふり返る。
「……何?」
 斬りつけるような眼差しに気圧されながら、それでも渉は踏みとどまる。自分が今、ここにいる理由――鷹村に呼ばれた理由を、今こそ渉は強く自覚していた。
「そういう言い方は、やめた方がいいと思います」
「えっ?」
 端正な御園の顔が苛立たしげに歪む。それでも、渉は引かなかった。
「ええと、ですから、すでに目一杯頑張ってる人に、さらに頑張れというのは、とても、残酷なことだと思うんです。だから……やめてください」
「残酷? 何言ってるの。私はただ、このお客様に元気になっていただこうと、」
「ならなくてもいいじゃないですか」
「は?」
 御園は呆れたように黒い瞳を丸くした。そもそも言葉の意味がわからない、そんな顔だ。
「ならなくてもいいですって? 元気に……」
 形の良い人形の唇が、慄えながら引き攣ったように微笑む。笑ってはいるが、むしろ素直に怒りをぶつけられるより不気味でおぞましかった。
「馬鹿を言わないで。そもそもこの店は、お客様に元気になっていただくというコンセプトで鷹村さんが開いた店なのよ。それをあなた、一体どういうつもりで、」
「人間は機械じゃありません」
 御園の言葉を遮るように、ぴしゃり渉は言った。――コンセプトなんかどうでもいい。大事なのは、今、目の前にいるお客さまにしっかりと向き合うことじゃないのか。
「ヘコんだり、落ち込んだり、後ろ向きになったり……別にいいじゃないですか。そうやって、ちょっとずつバランスを取りながら、人ってのは生きてるんです。……御園さんは優秀な方ですから分からないかもしれませんが、少なくとも普通の人は、そんなふうに不器用にバランスを取りながら、何とか生きてるんですよ」
 人形の顔がみるみる赤くなる。理解できないものに対する軽蔑と、その軽蔑すべきものに恥をかかされた屈辱が、端正な顔を禍々しく歪めていた。
 そんな御園の顔を、渉は自分でも驚くほど冷静に眺めていた。
「だからこれ以上、元気を出せとか頑張れとか、言わないであげてください」
 気まずい沈黙が店内を包む。スタッフも、それに客さえも、渉と御園のやりとりを見守っているらしい雰囲気が伝わってくる。
 強い後悔が、ふと渉の胸をよぎった。
 開店前、速水はなんと言ったか。御園には絶対に口答えをするなと言ったはずだ。それを自分は、よりにもよってこんなかたちで破ってしまった……
「……ありがとう」
「えっ?」
 意外な言葉にふり返る。例の女性客が、今までの張りつめた顔とは一転、ほっとしたように渉を見上げていた。
「おかげで……ちょっと楽になれた気がします」
「そう、ですか」
「はい。あの……何か、ほっとできるブレンドをいただけますか? できれば、少し元気になれるような……」
「え……あっ、はい!」
 渉はきびすを返すと、さっそくカウンターに飛び込み、茶葉のブレンドをはじめた。
 ふと視線を感じて顔を上げると、御園が今にも食い破りそうな目で渉を睨んでいる。所詮は泥シミにすぎない男に成果を攫われたのがよっぽど悔しかったのだろう。
 でも、と渉は思う。
 あの完璧超人の彼女には、女性客の求めるティーを出すことは絶対にできなかった。それは、誰が何と言おうと事実なのだ。

「どういうつもり?」
 店のおもてに『CLOSE』の看板がかかると同時に、待ちかねたように御園が鋭い声を浴びせてきた。
「新人のくせにあなた、この私に意見するの?」
「えっ? ……意見?」
 別に意見したつもりのない渉は、一瞬、何のことか分からず呆然となったが、やがて、さっきの女性客の一件だと気づいてあっとなった。
 そんな渉にはかまわず、ずけずけと御園は続ける。
「いいこと? 私は国内外の有名大学で経営学やホテル学を修めてきた、いわばサービスのプロフェッショナルなの。欧米の学会誌には論文だって掲載されたことがあるわ。その私に、よくもまぁ偉そうに意見しようと思ったわね!」
「ぼ……僕はただ、あのお客さまにベストなティーを、」
「御園さん」
 激昂する御園の前に、割って入ったのは速水だ。
「サキはサキなりに良かれと思うことをやったんだ。そして実際、お客さまはこいつの淹れたティーで満足して帰られた。いいじゃないかそれで。なぁ?」
「よくない! 全っっ然よくないわ!」
 速見の言葉を、断ち切るように御園は吠える。
「そもそも速水店長、この店をあなたにお任せするとき鷹村さんが何とおっしゃったか憶えていて? ここを都会のオアシスにしたいと、ビジネスパーソンの元気の源にしたいと、そうおっしゃったはずよ。それなのに、客を元気にしてはいけないですって? ――ふざけるのも大概にしてちょうだい! この人の言い分は、要するに、鷹村さんが提案なさったこの店のコンセプトを根底から覆すものだわ! そんなもの……私は断じて認められない!」
 立て続けに叩きつけられる非難の言葉を、しかし速水は、小指の先で耳をほじりながら平気な顔で聞き流している。ここまで神経が太いと、さぞ生きるのも楽だろう。
「まぁ、たしかに社長はそう言ったけどさぁ」
 小指の先についた垢をふっと吹くと、速水は言った。
「だからって、そいつを額面どおり守る必要はねぇんじゃねぇの?」
「……何ですって?」
「大体あんたは、いちいちマニュアルだコンセプトだとうるっせぇんだよ。そもそも客なんてのは千差万別で、だからこそ相手や状況によって臨機応変に対応すんのがサービスってやつじゃねぇの。――そりゃ、まぁコンセプトも必要さ。店としての全体の方向性を見失っちゃ元も子もねぇからな。けど、それにしたって今日のサキの行動は、俺からすりゃ十分方向性にかなってたと思うんだがな。実際、お客さまに元気を与えるって目的は果たしたわけで」
 速水の言葉に、御園は人形の顔をみるみる憎悪に歪めた。なまじ土台が美しいだけに、かえって禍々しく見える。
「あなたのように意識の低い人間が、鷹村さんの仕事を台無しにしてしまうのよ」
「おうおう、だったら台無しになるがいいさ。この程度のフレキシビリティーも許容されないような仕事なんざ、どうせ端っから大したこたぁねぇんだ」
 人を食ったような速水の物言いに、とうとう御園は返す言葉をなくしたのだろう。渉に向き直ると、今度こそ食い殺しそうな目で睨みつけてきた。
「あなたもあなたよ。鷹村さんの旧い知り合いだからって少し調子づいてるんじゃなくて?」
「それは……」
 そんなつもりはないと言いかけて、渉はまた自分が分からなくなる。
 本当のところはどうなのだろう。自分ではそのつもりはなくても、心のどこかで調子づいていたのだろうか。鷹村が友人でなければ、あんなことを言っただろうか……
 おい、と速水がふたたび割って入る。
「旧い知り合いだから何だよ。そんな理由で誰かを不当に贔屓するような、そんな器の小さい人間に見えるか? あの社長が?」
「鷹村さんはそんな人じゃないわ!」
「あんたが言ったんだよそういうふうに。つーか本当にそう思うなら、じゃあ別にサキへの贔屓を疑う必要ねぇじゃねーか。――それともあんた、ひょっとしてサキに妬いてんのか?」
「や……妬く、ですって?」
 怒りで紅潮していた顔が、一瞬、さっと蒼褪める。
「わからないわ……どうして私が妬かなければいけないのかしら、こんな人に」
「そういや、あんたがうちの店に絡みだしたのも、サキが来てからだよなぁ」
「それは、たまたま時期が被っただけよ。この店には、以前から何か言ってあげなければと思っていたの。……ええ、被っただけ。偶然よ……」
「ああそうかい。俺はてっきり、社長がつれなくなったんでイラついてんのかと思ったぜ」
「……」
 瞬間、ぴり、と店内の空気が張りつめる。
 口論のなりゆきを見守るスタッフたちの、息詰まるような緊張が肌に伝わってくる。この騒動と緊張の原因が自分だと思えば、渉はどうしようもなく居た堪れなくなって、せめて自分が何とかしなければと思うのだけど、じゃあどうすればいいのか何も思いつかない。
 どうして僕は、いつもそうなのだろう。
 うまくいったと思ったらすぐ駄目になる。よかれと思ってやったことが何もかもぶち壊しにしてしまう。事実、開店前の速水のアドバイスを守ってさえいれば、こんなことにはならなかったはずなのだ。
 僕のせいだ。
 僕が浅はかだったから、こんなふうに、みんなに迷惑をかけてしまった……。
 そういえば、さっきからこめかみがひどく疼いている。息が苦しくて、肺に水でも溜まっているかのようだ。僕は……まもとに息をすることさえできない、のか……
 ふっと視界が霞んで、次の瞬間にはもう渉の意識は深い闇の底へと落ちていた。 
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