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踏み出す一歩は小さくても
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翌日、店に出勤すると、先日とはうってかわって上機嫌の速水が鼻歌交じりに観葉植物に水をやっていた。
「おはようございます。何がいいことがあったんですか?」
「おはよーサキ。どうしたんだ昨日は。急に休むって連絡があって心配してたんだが」
「あ……あれは、その……」
だしぬけの質問に渉は思わず言葉を詰まらせた。まさか、ベッドで鷹村と一日中抱き合っていました、などとは口が裂けても言えない。……とりわけ速水には。
そんな渉の内心には気づいていないのか、速水はあくまでも呑気だ。
「ま、いいや。サキも近頃ずっと無理してたみたいだし、それに、あんなことがあった日の翌日に出勤しろってのも何だか酷だしな」
「い、いえ、僕がもっとしっかりしていれば、あんなことにはならなかったんです。だから、」
「いや、ありゃ完全に御園が悪いさ。――そうそう、その御園だが」
「は、はい」
御園という言葉に、渉はついびくりとなる。
それは、しかし仕方のない話だった。渉は今、御園に対してこの上ない不義を働いている。確かに御園という女性は好きになれないが、かといって、それとこれとは別問題のはずだ。
昨日、鷹村はついに御園の件には触れなかった。
だから、これから鷹村が彼女のことをどうするつもりなのか、どう接していくのか――続けるのか終わらせるのかも含めて――渉には何も分からない。
あるいは自分は、本当は何も知りたくないのかもしれない。
自分のせいで引き起こされたと言ってもいい悲劇に目をふさぎ耳をふさいで、それでやり過ごせるのならそれでいいと考えているのだ。だが、それはあまりにも卑怯だ……
「ん? どした? サキ」
「あ、いえ、何でも……で、御園さんがどうかしたんですか?」
「いやな、社長の判断で、もううちには来なくていいってことになったんだそうだ。御園はずいぶん反対したらしいがな」
「じゃあ、店はこのまま……?」
「ああ。今まで通りのやり方でオッケーってわけ。まぁ社長にも、さすがに御園の言い分がただの言いがかりだってことが分かったんだろ」
「言いがかり……ですか」
「ああ。完全に言いがかりだろあんなもん。元気と安らぎがコンセプトと言いながらよ、一方じゃ客との会話の時間を短くしろだとか……まぁ、効率的に客を捌くことはたしかに重要だけど、繁忙時でない限りは別になぁ。要するにあいつ、単にうちを潰したかっただけなんだよ」
「潰す? 社長が開いた店をですか?」
すると速水は、困ったように肩をすくめた。
「うちはさ、まぁ店長の俺がこんなことを言うのも何だけど、直営店の中でも一二を争うほど売り上げの低い店なわけね。そのくせハーブやら水の調達で意外と原価がかかる。まぁそれも社長のこだわりなわけだけど、ただ御園としては、あの尊敬する鷹村さんがそんなダメな店を続けていること自体気に食わないわけよ。御園としては、だから店を効率化して売り上げをアップするか、もしくはとっとと畳むかの二択しかない」
「……そうですか」
自分と鷹村との関係を疑っているのでは――などと邪推した自分を、渉は急に恥ずかしく思った。いくら何でもそれは彼女を侮辱しすぎだ。立派なビジネスパーソンである彼女が、よしんば勘づいているにしろ、そんな私的な理由で自分を排除にかかるわけがない。
そんなことより気になるのは、鷹村の開いた店でさえ平気で潰そうとするその感覚だ。本当に鷹村を尊敬し愛しているのなら、果たして、そんな乱暴な手に出るだろうか?
少なくとも僕なら――ない。絶対に。
「あの」
ふり返ると、『CLOSE』の看板がかかっているはずの店の入口に、一人の女性が顔を覗かせていた。どこかおとなしい印象のある綺麗な女性だ。
その顔に、渉は見覚えがあった。先日、御園との口論のきっかけになった女性客だ。ただ今日は、先日とはうって変わって晴れやかな顔をしている。
「こんにちは。――あれ? ひょっとして忘れ物ですか?」
「いえ違うんです。その……先日のお礼をさせていただきたいと思って」
「お礼、ですか?」
「はい」
にこやかに微笑むと、女性は手にしていた紙袋を渉の前に差し出した。受け取って中を覗くと、どうやらお菓子らしい。
「あなたのおかげで、何とか乗り越えることができました。――また寄らせていただきます。その時は、また素敵なお茶を淹れてくださいね」
そして女性は、ふたたびにっこり微笑むと、軽やかにスカートを靡かせながら店を後にしていった。
「やったじゃん、サキ」
ぽんと肩を叩かれふり返る。ニッと白い歯を見せる速水に、渉も覚えず微笑み返していた。
「はい」
「よしっ、そんじゃ、ほかの連中が来ないうちにソイツを片づけるとしますか。――ええと、焼き菓子に合うブレンドは、っと」
「え? もう食べちゃうんですか?」
初めて客にもらったプレゼントだ。できればゆっくりしたときに味わって食べたい。
ところが、速水はそれを許さなかった。
「ったりめーだっ! そんなもん更衣室に置いといてみろ、あっという間に誰かに喰われるぞ」
「おはようございます。何がいいことがあったんですか?」
「おはよーサキ。どうしたんだ昨日は。急に休むって連絡があって心配してたんだが」
「あ……あれは、その……」
だしぬけの質問に渉は思わず言葉を詰まらせた。まさか、ベッドで鷹村と一日中抱き合っていました、などとは口が裂けても言えない。……とりわけ速水には。
そんな渉の内心には気づいていないのか、速水はあくまでも呑気だ。
「ま、いいや。サキも近頃ずっと無理してたみたいだし、それに、あんなことがあった日の翌日に出勤しろってのも何だか酷だしな」
「い、いえ、僕がもっとしっかりしていれば、あんなことにはならなかったんです。だから、」
「いや、ありゃ完全に御園が悪いさ。――そうそう、その御園だが」
「は、はい」
御園という言葉に、渉はついびくりとなる。
それは、しかし仕方のない話だった。渉は今、御園に対してこの上ない不義を働いている。確かに御園という女性は好きになれないが、かといって、それとこれとは別問題のはずだ。
昨日、鷹村はついに御園の件には触れなかった。
だから、これから鷹村が彼女のことをどうするつもりなのか、どう接していくのか――続けるのか終わらせるのかも含めて――渉には何も分からない。
あるいは自分は、本当は何も知りたくないのかもしれない。
自分のせいで引き起こされたと言ってもいい悲劇に目をふさぎ耳をふさいで、それでやり過ごせるのならそれでいいと考えているのだ。だが、それはあまりにも卑怯だ……
「ん? どした? サキ」
「あ、いえ、何でも……で、御園さんがどうかしたんですか?」
「いやな、社長の判断で、もううちには来なくていいってことになったんだそうだ。御園はずいぶん反対したらしいがな」
「じゃあ、店はこのまま……?」
「ああ。今まで通りのやり方でオッケーってわけ。まぁ社長にも、さすがに御園の言い分がただの言いがかりだってことが分かったんだろ」
「言いがかり……ですか」
「ああ。完全に言いがかりだろあんなもん。元気と安らぎがコンセプトと言いながらよ、一方じゃ客との会話の時間を短くしろだとか……まぁ、効率的に客を捌くことはたしかに重要だけど、繁忙時でない限りは別になぁ。要するにあいつ、単にうちを潰したかっただけなんだよ」
「潰す? 社長が開いた店をですか?」
すると速水は、困ったように肩をすくめた。
「うちはさ、まぁ店長の俺がこんなことを言うのも何だけど、直営店の中でも一二を争うほど売り上げの低い店なわけね。そのくせハーブやら水の調達で意外と原価がかかる。まぁそれも社長のこだわりなわけだけど、ただ御園としては、あの尊敬する鷹村さんがそんなダメな店を続けていること自体気に食わないわけよ。御園としては、だから店を効率化して売り上げをアップするか、もしくはとっとと畳むかの二択しかない」
「……そうですか」
自分と鷹村との関係を疑っているのでは――などと邪推した自分を、渉は急に恥ずかしく思った。いくら何でもそれは彼女を侮辱しすぎだ。立派なビジネスパーソンである彼女が、よしんば勘づいているにしろ、そんな私的な理由で自分を排除にかかるわけがない。
そんなことより気になるのは、鷹村の開いた店でさえ平気で潰そうとするその感覚だ。本当に鷹村を尊敬し愛しているのなら、果たして、そんな乱暴な手に出るだろうか?
少なくとも僕なら――ない。絶対に。
「あの」
ふり返ると、『CLOSE』の看板がかかっているはずの店の入口に、一人の女性が顔を覗かせていた。どこかおとなしい印象のある綺麗な女性だ。
その顔に、渉は見覚えがあった。先日、御園との口論のきっかけになった女性客だ。ただ今日は、先日とはうって変わって晴れやかな顔をしている。
「こんにちは。――あれ? ひょっとして忘れ物ですか?」
「いえ違うんです。その……先日のお礼をさせていただきたいと思って」
「お礼、ですか?」
「はい」
にこやかに微笑むと、女性は手にしていた紙袋を渉の前に差し出した。受け取って中を覗くと、どうやらお菓子らしい。
「あなたのおかげで、何とか乗り越えることができました。――また寄らせていただきます。その時は、また素敵なお茶を淹れてくださいね」
そして女性は、ふたたびにっこり微笑むと、軽やかにスカートを靡かせながら店を後にしていった。
「やったじゃん、サキ」
ぽんと肩を叩かれふり返る。ニッと白い歯を見せる速水に、渉も覚えず微笑み返していた。
「はい」
「よしっ、そんじゃ、ほかの連中が来ないうちにソイツを片づけるとしますか。――ええと、焼き菓子に合うブレンドは、っと」
「え? もう食べちゃうんですか?」
初めて客にもらったプレゼントだ。できればゆっくりしたときに味わって食べたい。
ところが、速水はそれを許さなかった。
「ったりめーだっ! そんなもん更衣室に置いといてみろ、あっという間に誰かに喰われるぞ」
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