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路地裏乃猫

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恋人

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「……ってことがあってね」
  苦笑まじりにぼやくと、雪也はリビングのソファに腰を下ろした。
  たったいま冷蔵庫から取り出したばかりの発泡酒の缶を開き、ぐっと呷る。程よく冷えた発泡酒の炭酸が喉元を流れ落ちる感覚を愉しみながら、今度はミニテーブルに開いたポテトの袋に手を伸ばす。
  ほんのりペッパーの風味が利いたそれを数枚同時に口に放り込む。ぱりりと小気味よい音が部屋に響き、やはり薄切りではなく少しお高めの厚切りポテトにしておいてよかったなぁと、仕事帰りに立ち寄ったコンビニで、十分近く悩んだ挙句の判断に自分で喝采を送っていると、不意に隣の男に肩を抱き寄せられ、そのままこめかみに軽くキスされた。
 「な、何だよ、急に……っ」
  振り返り、たった今のキスの主を軽く睨む。
  が、当の主はというと、太縁眼鏡の奥にある双眸をニヤニヤといじわるく細めるばかりで何も答えようとはしない。どころかその目は今も、次は何を仕掛けてやろうかという企みに充ちた眼差しで雪也を見つめていて、まるで油断ならなかった。
  男の名前は常坂駆(ときさか かける)。現在、雪也とともに暮らす恋人だ。
  一年前、行きつけの本屋で声をかけられ、その同じ夜にはもう身体を重ねていた。身持ちの堅い雪也にしては珍しいほどのガードの甘さだったが、その身が纏うどこかミステリアスな雰囲気と、何より、雪也も大学時代に専攻していた数学の話でおおいに盛り上がり、つい酒がすすんでそういうことになってしまったのだった。
  が、だからといって、当時の自分の軽薄さを雪也が悔いていたかといえばそうでもなく、むしろ、結果として素敵な恋人を得られてよかったと思っている。
  事実、駆は雪也には勿体ないほどの恋人だった。
  基本的にパソコンを使った在宅勤務で、外で働く雪也のために家事をこなしてくれる。おかげで部屋はつねに小奇麗に片付いて、家に帰るたびに、こうしてゆったりソファで落ち着くことができる。駆と付き合う以前の雪也にとって、ソファといえば取り込んだ洗濯物の仮置き場でしかなく、こうしてソファでくつろぐなど考えられなかった。
  料理はプロ級。リクエストさえあれば、何でも器用に作ってくれるし、たとえリクエストがない日でも、健康に気を遣った心づくしの料理を必ず用意してくれる。
  これだけでも雪也には出来すぎた恋人と言えるだろう。が、それに加えて――
  駆は、いやでも人目を惹くほどの美貌の持ち主だった。
  ほっそりとしていながら、全体に目鼻立ちのしっかりとした精悍な顔立ちは、いかにも男性的で、ただでさえ童顔な雪也はどうしても憧れずにはいれらない。
  意志の強さを感じさせる切れ長の眉と、くっきりとした二重瞼に囲まれた大粒の瞳。
  細く高い鼻梁と、やや薄めの一文字唇はいずれも形よく整い、非の打ちどころがないというより、非を見つけることの方が難しい。
  美しいのは顔立ちだけではなかった。普段、ジム通いで鍛えるその身体はすらりとしていながら逞しく、まるでスポーツメーカーのモデルのようだ。
  正直――自分にはもったいないほどの彼氏だと雪也は思う。
  とはいえ、そんなことは駆の前では口が裂けても言えなかった。うっかり駆を乗せてしまうと、その後が大変なことになってしまうのを、この一年の付き合いでいやというほど身に沁みていたからだ。
  もっとも、いくら沁みたところで、一度気分が乗ってしまった駆を止めることなど誰にもできないのだけど。
 「何って、マーキングだよ」
  言いながら、懲りずにふたたびこめかみに口づけてくる。
 「は? マーキング?」
 「そう。だって雪也は魅力的だから。たとえ相手がガキでも油断できない」
  そして今度は唇に重ねてくる。口づけは瞬く間に深くなり、ポテトの食べかすでざらつく雪也の口中を、駆の貪欲な舌先は構わずむさぼった。
 「ちょ……や……っ」
  抗う腕はしかし、すぐに長い腕に絡め取られ、封じられる。駆の積極さはいつものことだが、今夜はいつにもまして力強かった。キスも、それに雪也を抱き寄せる腕も。
  まさか、十歳の子供に本気で対抗意識を燃やしているとか? ……いや、いくら何でもそんな馬鹿な。
  ようやく唇を解放されたところで、急き込むように雪也は尋ねた。
 「そ、そういえば、今夜はもう仕事はいいの?」
  すると駆は、一瞬、何を言われたのか分からないという顔で大粒の瞳を瞬かせると、やがて、何だそんなことか、という顔で軽く笑った。
 「ああ。さっきアメリカの某証券会社の顧客情報に侵入をかけてきたんだが、あんまり手応えがなかったもんで、本当は明日に回すつもりだった某軍事企業のサイトへのハッキングも済ませてきちまった」
  ハッカーだの侵入だのと言葉が並ぶあたり、傍で聞けば何とも物騒な台詞ではある。
  が、そもそも駆の仕事は本来の意味での〝ハッカー〟――企業などの依頼で、その企業のウェブサイトに侵入をかけ、防壁に隙や弱点やあればそれを指摘報告する――であり、反社会的なハッカーを指すところの、いわゆる〝クラッカー〟とは違う。
  だから、彼の反社会的な破壊行為を疑う必要はないのだけれど、それでも恋人としては、いつ妙なトラブルに巻き込まれてしまわないかと気が気でないわけで、できることなら普通のソフトウェア会社に勤めてほしいと密かに願ってはいた。……とはいえ、ただでさえ人並み外れた頭脳とプログラミングの知識を持つ駆が、大人しく背広を着てやるような仕事に満足するとは思えないが。
  事実、駆は日本、いや世界でも十指に入る凄腕のハッカーで、そのクライアントは、欧州の某軍需企業から某新興国の政府に至るまで文字どおり世界中に点在している。最初は、そんな映画の主人公じみた人間が実在するのかと半信半疑だった雪也も、一度だけ、彼の銀行の預金通帳を見せられた瞬間に一撃で納得してしまった。一般人ならまず一生お目にかかることのない、冗談めいた数字がそこに記されていたからだ。
 「と、いうわけで明日は仕事はお休みっ♪」
  それを言えば、彼にとっては一年のほとんどが休日のようなものだ。そのくせ年収は、雪也の数十倍、いや数百倍ときているのだから世の中は不公平なものだ。
 「なぁ、明日は雪也も休みなんだろ? 一緒にドライブにでも行こうぜ。それとも……」
  綺麗な二重の瞼が、ふっと、いじわるな笑みに歪む。
 「一日中ベッドで愛し合う?」
  言って、雪也の唇をそっと啄む。その煽るような口づけに、お返しとばかりに雪也は駆の唇にくちづけた。何にせよ、やられっぱなしというのは癪なものだ。
  口づけはすぐに深くなる。今度はもう、口中のざらつきは気にならなかった。
 「……ん、ふっ」
  唾液を啜り合ういやらしい水音が耳の奥に響きはじめる。我ながら下品だと知りながら、それでも雪也は駆を求める舌先を止めることができなかった。
 「……欲張りだな」
  唇を解いた駆が、鼻先でぽつりと囁く。
 「でも、そんな雪也は嫌いじゃない……むしろ、好き」
  今度は雪也の首筋に吸い付く。耳朶を食み、再び首筋にキスを移しながら、その手で雪也のシャツをたくし上げ、手品師のようにするりと首から抜き取った。
  普段、室内で仕事をすることが多い雪也は、夏でも日に焼けることがない。そうでなくとも雪也の肌は、生まれつき雪のように白く、だから子供のころは、よく女の子と見間違えられることが多かった。薄いのは肌の色だけでなく、髪も瞳も茶味がかっていて、ハーフと間違えられたこともある。
  その、普段ほとんど日に焼けない雪也の胸の上では、早くも桜色の蕾がぷくりとふくらみはじめていた。
 「ひょっとして……今のキスで感じた?」
  どうせ答えは分かっているくせにと悔しく思いながら、それでも事実は事実だから反論はできない。そんな雪也に、駆はさらにいじわるな口調で囁く。
 「……可愛い」
  そして、雪也の突起を――
 「ん、っ」
  おもむろに雪也の身体を押し倒しながら、さらに駆は雪也のそこを執拗に舐る。尖らせた舌先で器用に転がしたかと思えば、きゅっと強く吸い上げ、痛さの一歩手前という絶妙な刺激をそこに与え続ける。
  そのたびに雪也は、甘い悲鳴を唇から垂れ流す羽目になった。
 「あっ、い、いやっ……うんっ」
  前歯で軽く噛みつかれると、さらに雪也ははしたない嬌声を溢れさせた。
 「ああ、っ」
 「ほんとに雪也はここが弱いね」
  くすくす、と可笑しそうに駆が含み笑いを漏らす。
 「可愛い」
 「や、やめて、よっ……あ、んんっ!」
  唾液で濡れた乳首を、今度は器用な指が責める。普段、目にも止まらないスピードでキーボードを叩く彼の指は細く、それでいてしなやかで、その繊細かつ力強い印象はそのまま彼本人の印象とも合致する。
  その器用で繊細な指先が、絞るように突起をひねり、捏ね回す。それだけでも堪らないというのに、さらにもう一方の突起に強く吸い付かれると、もはや正気を保つことさえ雪也には困難になる。
 「どうした、雪也」
 「えっ?」
 「もう腰が動いてる。そんなに待ち遠しい?」
  指摘され、初めて雪也は自身の身体の変化に気付く。そういえば、いつの間にか腰が妖しく揺らめきはじめている……
 「ち……ちがう」
  はしたない人間だと思われるのが恥ずかしくて、思わず否定するも所詮は後の祭りだった。ここまで散々痴態を晒しておいて、今更否定したところで何の説得力もないだろう。
  ふっ、と駆は口の端を歪めると、雪也の言葉にではなく、その押し隠した欲情に従うかのように雪也のパンツに手を伸ばした。
  そのまま両手で手早くベルトを解く。開いた前の奥に手をもぐりこませると、早くも芯を持ちはじめた雪也のそこに長い指を巻きつけた。そして――
 「は、あんっ!」
  その手が、握力をこめてそれを扱きはじめると、いよいよ雪也は内なる欲望が掻き立てられるのを止められなかった。
  しかも、その緩急は絶妙で、無慈悲なほど力強く扱かれたかと思えば、次の瞬間には握力を緩められ、いっそじれったくなるほど優しいタッチに変わる。が、それは雪也に対する慈悲でも何でもなく、むしろ逆――雪也を追いつめるための狡い駆け引きにすぎないのだ。
  欲しくなり、自ら腰を揺らめかせはじめたところへ、それを見計らったように加えられる強烈な愛撫――だが、十分に充たされるかと思った次の瞬間、今度は力を緩められ、ふたたび強烈な飢餓感に襲われる。
  その繰り返しに、雪也の理性はますますもって揺さぶられ、翻弄される。
 「んっ、ん……んふっ」
  下唇を噛みしめ、せめて声だけは抑えようと努めるも、その唇さえ、駆のもう一方の指先で宥められ、やんわりとだが強引に開かされた。その開いた唇に長い指が滑り込み、雪也の形の良い歯列を、歯茎を、さらにはその奥にひそむ舌を絡め取る。
 「あ、ふぐっ……」
  溢れた唾液が口の端からあふれては顎へと伝い流れる。啜りたくとも、指が邪魔をして顎を閉ざすことができず、結局は垂れ流すに任せるしかない。醜態を晒すというよりは、人間性という名の仮面をはぎ取られ、生の自分をさらけ出さざるをえない羞恥に頬を赤らめれば、覆い被さるように身を屈めた駆が、紅潮した雪也の耳朶にそっと囁く。
 「可愛いよ。俺の……俺だけの雪也」
  その低く濡れた声は、雪也の中の何かをびくり刺激し――
 「ん、はぁっ!」
  次の瞬間には、下に絡まった駆の手を盛大に汚していた。
 「はあっ、はぁ……」
  荒い息をつきながら、焦点の定まらない瞳でのろり駆を見上げる。いつの間にか上体を起こした駆は、たったいま雪也が汚した手をおもむろに顔に寄せると、雪也にとってては恥ずかしいことに、じっくりとそれを眺めはじめた。
  自身の恥部を見つめられるかのような感覚に、雪也は、言い知れない恥ずかしさを覚えて顔を赤らめる。なまじ肌が白いだけに、すぐに顔に出てしまうのが余計に恥ずかしい。
 「み、見ないで……」
  絞るような声で、そう雪也が懇願した次の刹那。
  その手が彼の口元に運ばれ、突き出た舌先に、ちろり、と舐め取られた。
 「ちょ、な、何……」
  すると駆は、なぜそんなことを訊くのだという顔で雪也を見下ろし、
 「決まってるだろ。雪也のものを舐めてるんだよ」
 「や、やめてよ、そんな変なもの、」
 「どうして。雪也のものは全部俺のもの。俺が俺のものを味わって何が悪い?」
  反論にもならない反論に、しかし雪也は口を噤む。暴論と分かっていても、あまりに堂々と叩きつけられると、いくら相手が間違っていると分かっていても何も言い返せなくなる。これはその好例だった。
 「さて、前菜は頂いたことだし」
 「えっ? 前菜?」
  今のが前菜だったのか、と信じられない気持ちで駆を見上げれば、
 「そう、前菜。じゃ、そろそろメインを頂くとしようか」
  言いながら駆は、雪也のパンツに手をかける。慌てて抗おうとする雪也の手をさりげなく振り払うと、下着ごと一気に足から抜き取ってしまった。
  とうとう生まれたままの姿と化してしまった雪也に、獲物に食らいつく猛獣の体でのしかかりながら駆が囁く。
 「雪也は、誰にも渡さない……絶対に」
  そして駆は、その指を雪也の内股にすべらせると、そのさらに奥、雪也の最も弱い場所へと進めていった。
  ……それから後のことを、雪也はよく覚えていない。ただ気付くと、駆と二人、生まれたままの姿で四肢を絡め合いながら荒い息をついていた。
  こんな時、きまって雪也が囚われる感覚がある。
  目の前の駆が幻で、本当は、夢でも見ているのではないかと。
  この常坂駆という人物は、本当はどこにも存在しない人間なのではないか――と。
  その感覚が恐ろしく、今一度、目の前の細く逞しい首に腕を回す。そっと抱き寄せ、つい今し方まで熱烈に合わせていた唇を今度は軽く啄む。
  あるいは、この愛もまた幻だとしたら……
 「ねぇ、駆」
  その肩に顔を埋めながら、耳元でそっと囁く。
 「僕ね……今、すごく幸せだよ……」
  いっそ怖いくらいに――とは、結局、口にはできなかった。
 
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