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路地裏乃猫

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無理難題

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 結局、部屋に移ったあとも、三人を包む重苦しい雰囲気は晴れなかった。
  ――とんだ三角関係だな、これは……
  そんなことを思いながら、雪也は、リビングのソファにふんぞり返ったままそっぽを向く駆と、こちらはダイニングテーブルで置物と化したまま、一度も口を開こうとしない直生を交互に眺めた。二人の無言が放つ緊張感は、カウンター越しにキッチンに立つ雪也にもいやというほど伝わってきて、早くも雪也は波乱の予感をおぼえずにはいられなかった。
  テーブルには、直生のためにと用意した牛乳とクッキーが置かれているが、出された当初から一度も手をつけられていない。クッキーは、先程立ち寄ったスーパーで、彼自身これが食べたいと選んだものだったから、嫌いだということはありえない。
  単純に緊張しているせいか。それとも〝ライバル〟の手前、こんな子供じみたものには手をつけられないということか。
  それにしても、と改めて雪也は思う。
  本当に、とんだ三角関係だ。
  二人の歳の差はゆうに十六。片や年齢的には小学生で、片や、若くして多くの大手企業や官公庁を顧客に持つ、業界では名の知れた凄腕ハッカーである。そんな二人が恋人、それも同性の恋人をめぐって争う図というのは、それだけで何だか漫画じみている――が、この状況を生み出した当の雪也としては、無責任に笑うわけにもいかなかった。
 「……あの」
  気まずい沈黙を最初に破ったのは、意外な人物だった。直生だ。
 「ひょっとして……ここで暮らしてるんですか、あの人」
  違うと言ってくれ。そんな気持ちが嫌でも伝わってくるような、どこか切実さを感じさせる声色に、雪也は返す言葉に困る。
  この期に及んで嘘を吐けるほどのふてぶてしさを雪也が持ち合わせていなかったこともある。が、それ以上に、あの無理解な駆を前に今の台詞を否定すれば、後でどんな修羅場が待つかを想像するだけで雪也は気が気でなかったのだ。
  そこまで考えて雪也は、ふと、自分のことしか考えられずにいる自分の浅ましさに気付いて悲しくなる。肯定すれば、直生が傷ついてしまうのは間違いないというのに。
  そうかと言って、直生を傷つけずに済む答えが見つかるわけでもなく……と。
  どうやら会話を聞いていたらしい駆が、見かねたようにダイニングの方を振り返る。その皮肉なかたちに歪められた口元に、雪也が嫌な予感をおぼえた、その時だ。
 「ああそうだ。半年前に俺と、そして雪也の二人で選んだんだよ。バルコニーからの眺めが最高でね。――わかったら、そいつ食ってさっさと出て行け。ここは、俺と雪也二人だけの家だ。ガキはお呼びじゃねぇんだよ」
 「駆っ!」
  とうとう我慢できずに雪也は口を挟む。駆は、どうして俺がと言いたげに切れ長の目尻で鋭く雪也を一瞥すると、ふたたび窓の方にそっぽを向いてしまった。
  その背中が放つ無言の憤りに、雪也は悄然となる。
  彼が文句をつけたくなる気持ちは痛いほど分かる。
  確かに悪いのは、中途半端な情に流され、直生の願いを突っぱねることのできなかった雪也の方だ。あの時、スクール長は直生を引き取っても良いという色を出してくれていたし、別に雪也が断ったとしても、直生が行き場をなくすということはなかったのだ。
  それでも――直生の強い気持ちを前に折れてしまった。
  責任は、だから、あくまでも雪也の側にある……が、それでも。
 「べ、別に直生くんは、ずっとここに住むわけじゃないんだ。さっきメールにも書いたけど、今は直生くんのお父さんと連絡がつかなくて、でも、連絡がつき次第すぐに、」
 「迎えに来させるってか? ――じゃあ仮に、その父親ってのが迎えに来なかったら?」
 「……っ」
  痛いところを突かれ、雪也は思わず黙り込む。さすがに駆を相手に、下手な誤魔化しは通用しないらしい。
  そんな雪也に追い打ちをかけるように、駆は続ける。
 「だってそうだろ。夜中に家を飛び出した十歳の子供を、いまだ探しにもこない馬鹿親だぜ。その馬鹿親が、たとえ連絡が取れたところで、どうもすみませんねとか何とか殊勝なことを言って大人しく迎えに来ると思うか? 俺はそうは思わないね」
 「……」
  駆の言い分は、いちいち嫌になるほど尤もだった。
  以前、スクールで直生が熱を出した時にも、直生の父親は、自分では看病ができないからという理由で迎えに来るのを拒んだことがある。あれも今にして思うなら、単に看病が面倒だったからだと考えられなくもない。
  結局その時は、スクール長が仕事帰りに直生の家まで送って行ったのだが、そのスクール長の話によれば、玄関に現れた直生の父親は、競馬の大穴が当たったとかでビールで祝杯を挙げていたとのこと。
  そんな父親が、たとえ連絡が取れたからといって――
 「いやだ!」
  不意に甲高い怒鳴り声がして、雪也はびくり肩をすくめる。
  見ると、直生が、今にも泣きだしそうな目でじっと雪也を見上げていた。
 「い……いやだ。お父さんのところに戻ったら……また、ゆうかいされる」
  そういえば、そうだった。
  そもそも直生は、〝ゆうかい〟を恐れて父親のもとを逃げ出してきたのだった。その直生が、いくら連絡が取れたからといって、自分の〝ゆうかい〟を試みた父親のもとに帰りたいとは思わないだろう。
  が、だとすれば、直生の言う〝ゆうかい〟とは一体何を指しているのか。
  世間的に見れば、実の父親による誘拐が決して起こりえないということはない。たとえば、離婚した元夫婦の間でしばしば起こる連れ去り事件などがその例だ。
  子供の親権を母親が持つ場合、その元夫が子供を無理やり自分のもとに〝取り戻〟してしまうと、それは母親側から、あるいは法的に見れば立派な誘拐行為になる。
  だが。
  直生の場合、すでに母親は亡くなっている。当然、親権は父親にあるのだし、だとすれば、法的に見れば父親の〝ゆうかい〟など起こりえない。起こしようがないのだ。
 「ええと……さっきも言っていたけど、その、誘拐、というのはどういうこと?」
  この流れなら、あるいは詳しい事情を訊き出せるかもしれない――そう期待し、さりげなさを装って尋ねる。一方、直生も直生でようやく秘密を明かす決意を固めたのか、きっ、と顔を上げ、口を開いた――と。
 「これ以上、こんなガキに関わるんじゃねぇよ」
 「えっ?」
  リビングに視軸を移す。相変わらず駆はバルコニーを睨んだままそっぽを向いているが、今の言葉は駆のそれで間違いない。
  その横顔には、なぜか、いつになく激しい苛立ちが滲んでいるように雪也には見えた。
 「いいんだよ放っておけば。どうせ時期が来たらなるようになるんだし」
 「じ、時期って……何の?」
  その問いには答えないまま、駆は無言でソファを立ち上がると、ダイニングをすり抜け、雪也の立つキッチンにやって来た。何をするのか見守っていると、冷蔵庫から発泡酒の缶を取り出し、かしゅ、と小気味良い音を立ててプルトップを開く。まだ明るい時間だが、早くも一杯やるつもりらしい。
  その、缶を持たないもう一方の手がするりと雪也の腰に巻きつく。カウンター越しということもあり、角度的には直生の目に触れないが、落ち着かないことには変わりない。
  その唇が、雪也の耳元でそっと囁く。
 「雪也は、ずっと俺だけを見ていればいい。俺一人だけを」
  それが、どうやら直生に対する牽制らしいと雪也が気付いた、その時だ。
 「お……お父さんが、いきなり外国に行くって!」
  二人の会話を断ち切るように、直生が甲高く声を張り上げる。
  見ると直生が、二人を――正確には駆を睨むようにこちらを見つめていた。
 「チッ……」
  耳元で、駆が苛立たしげに舌を打つ。せっかく気分が盛り上がってきたところで、雪也の注意を奪われたことに腹を立てたらしい。
  が今は、そんな駆の大人げない態度に構う余裕はない。
 「外国? それは……どこの国のこと?」
  すると直生は、今度は哀しそうにゆるゆるとかぶりを振って、
 「わ……わからない。ただ、すごくいい国だって……そこに行ったら、王様みたいな暮らしができるんだって……そう、お父さんは、言ってた……」
  王様とは、また随分と時代錯誤な表現が出てきたものだ。
  しかし、いくら直生の父親が日本の円を持っているからといって、外国に移りさえすれば豪華な暮らしができるというのは余りにも短絡的すぎるだろう。そもそも今は、途上国とはいえ物価も随分と上がっているから、直生の父親程度の貯金では(詳しい貯金額は分からないが、彼が重度のギャンブル依存症であることから考えて、それほど多くはないだろう)王様のような暮らしというのはさすがに現実味がない。
 「それって……昔話の王様みたいな?」
  自分でもそんなはずがないと思いつつ問えば、
 「わからない……ただ、王様になれる、って……」
  そして、ふたたび力なく首を振る。どうやら今度ばかりは、わざと口を噤んでいるのではなく本当に直生にも分からないらしい。
  とはいえ、これで直生が家に帰りたくないと訴える理由がわかった。が、そうなると余計に不可解なのが、なぜ直生の父親と連絡が取れないのかという点だ。すでに外国に向かう準備が整っているのなら、たとえば飛行機の時間もあるだろうから、一分でも一秒でも早く息子の居場所を突き止め、引き取りに来るべきところだろう。まして、連絡がつかないということはありえない。
  まさか、すでに一人で外国行きの飛行機に? それで一時的に携帯の電源を落としているとか……?
  と。
 「おいガキ」
  ここまで黙って二人のやり取りを聞いていた駆が、ふと口を挟む。
 「そんなにここに置いてほしいか?」
 「……えっ?」
  そう声を上げたのは、直生ではなく雪也だった。ここまでの態度から考えて、駆が直生との同居を認めることは、万に一つもありえないと諦めていたのだ。
  許してくれるのか? あの駆が?
  ひそかな期待を抱く雪也を横目に、駆は、いつも彼がジーンズの尻ポケットにしまっているメモ帳を取り出すと、そこに何やらさらさらと書きつけはじめた。
  横からそっと覗き込む。それは、大学の理数系を出た雪也さえも目がくらむような、おそろしく難しい数式だった。
 「……それは?」
 「見りゃわかるだろ? 数式だよ」
 「そ、それは……まぁ、わかるけど、でも……何で?」
 「まぁ、いいから」
  やがて数式を書き終えた駆は、メモ帳からページを破り取ると、そのままキッチンカウンターを回り込み、直生の前にメモを叩きつけた。
  一体、何のつもりだ――まさか。
 「こいつが解けたら、まぁ、置いてやらんでもない」
 「そんな!」
  あまりにも理不尽な条件に雪也は思わず反論の声を上げる。
  実をいうと、直生の告白の件を話した以前にも、駆の前で雪也はちょくちょく直生のことを話題にしていた。それは直生が、特別雪也に懐いていたせいもあるが、それ以上に直生が、ある意味で特別な子供だったからということもある。
  直生は、昨年の全国数学コンテストで見事優勝を飾っている。
  小中学生の部といったいわゆる子供枠で、ではない。日本全国の、それこそ日本屈指の理系大学に籍を置く研究者や、さらには古強者の数学マニアたちも参加する大会で、そんな彼らを押さえての優勝だった。当時、若干九歳だった小学生が、だ。
  世の中には、天才と呼ばれる人間が確かに存在する。
  その事実を、ともすれば何でも平等と叫びたがる全国の教育者や保護者たちにまざまざと見せつける快挙だった。
  そうでなくとも直生は、暇さえあれば雪也が貸し与えた数学の専門書を飽きもせず眺め暮らし、いまだ証明されていない公式があれば、一週間でも二週間でも鉛筆の先をすり減らして挑みかかるような子供だ。
  そんな子供のことを、同じく数学の天才を自称する駆の前で話題にしたのは、もちろん駆の自意識過剰ぶりを諫める意味もあったがもう一つ。自分の方が天才だと豪語して憚らない駆の姿が可愛かったからだ――が、調子に乗っていたのは実は雪也の方だったらしい。
  まさか、あの頃の世話話がこんなかたちで仇になるとは……
 「うわさは聞いてるぞ、ガキ。お前、去年の数学コンテストで全国優勝して、その世界ではなかなか名が知れてるそうじゃないか。今じゃ雪也にテキストを借りて、大学の理数科レベルの問題を解いてるとか? ――ははっ、その程度の才能で粋がってんじゃねぇよ」
  いちいち煽るような駆の言葉に、直生はむっとした顔で睨み返す。いけない、そんな挑発に乗っては……と雪也が冷や冷やしながら見守る前で、直生は駆の手から紙片をもぎ取ると、絞るような口調で言った。
 「……わかりました。解けばいいんでしょ、解けば」
 「ちょちょちょ、待ってよ駆っ!」
  そんな二人のやり取りに、慌てて雪也は割って入る。
 「いくら何でもそれは大人げないだろ? 相手はまだ小学生なんだぞ」
 「関係ないだろ。言っておくが俺は、これでも随分と難易度を下げてやってんだぜ?」
 「下げてるって……どのくらい」
  すると駆は、人を食った顔でひょいと肩をすくめて、
 「少なくとも、数学コンテスト全国優勝者に出すのに失礼にならない程度には下げてやってるつもりだが?」
 「は?」
 「ああそうだ、先週、世界の数学マニアが集まるサイトにこいつと同じ数式を掲載してみたんだが、今のところ正解を出したのは三人。うち二人はハーバードのインド人留学生で、残る一人はMITのロボット工学者だったかな」
  どこが〝失礼にならない程度に〟だ――雪也は苦々しく顔をしかめる。たったいま駆が名前を挙げたのは、いずれも理系の分野では世界最高クラスの頭脳が集まるアメリカのエリート大学だ。
 「それ……ほとんど無理ゲーじゃないか」
 「どうかな」
  言って、駆はチェシャ猫のような笑みを浮かべてみせる。
  とはいえ、そんな超高難易度問題を平然と出題できる駆も、やはり並の天才ではない。
  この常坂駆という人間のことを、実を言うと雪也は未だによく知らない。本人曰く、アメリカ生まれの日系人で、大学を卒業するまでアメリカで過ごしていたとのことだが、一体どこまでが事実なのか、恋人の雪也にもわからない部分が多い。
  一年前のある日、雪也がいきつけの本屋を冷やかしにいったところ、数学の専門書コーナーで、以前から気になっていた研究者の新刊本を見つけた。なんとはなしに本に手を伸ばしたその時、うっかり別の客と手がぶつかってしまい、すみませんと言って顔を上げたところ目の前に立っていたのが駆だった。
  その姿に、雪也は一目で心を奪われた。
  細身のスーツが似合うすらりとした長身。堅くなりすぎない程度に撫でつけた頭は大人の遊びと余裕を感じさせ、中でも、知的な印象を与える端正な顔立ちと、眼鏡の奥の涼しげな瞳がひときわ魅力的だった。
  ――お好きなんですか、この研究者さんが。
  低く落ち着きのある、いかにも大人の男といった声で男――駆は言った。
  本を買った雪也はその後、駆とともに近くのカフェへと移り、そこですっかり話が弾んで、さらに雪也が唯一知る洒落たフレンチレストランへと移った。それでも何となく離れがたく、ついには夜も共にしてしまったわけだが、あの日の雪也は、今思い出しても随分と舞い上がっていたように思う。
  それから一年。
  あの頃に較べれば、駆のことも色々とわかってきたつもりでいる。が、自分がどこまで本当の駆の姿を掴んでいるのか、それは雪也にもよく分からなかった。
  見ると直生は、さっきモールで買ったばかりのノートをテーブルに広げ、せっせとシャーペンを動かしている。どうやら早くも駆が出した難問にとりかかっているらしい。
  その横顔はどこまでも真剣そのもので、そこまでして自分と一緒に住みたいのかと思えば、むしろ、その健気さが雪也には辛かった。
  逆に、あんな子供相手に本気でむきになる駆が、ひどく大人げなく見える。
  一年前、初めて出会ったときの駆は、間違いなく大人の男だった。
  いや。それを言えば、普段の駆は大体において大人なのだ。ただ一点、子供が絡むとなぜか必要以上にイラついてしまうことを除けば。
  ふと見ると、いつの間にか駆の姿がダイニングから消えている。ひょっとして部屋に戻ったのかと思い、廊下に向かうと、案の定キーボードを叩く音が駆の部屋から響いている。
  駆のタイピング速度は尋常でなく、まるで機関銃か、さもなければトタンの庇を叩く雷雨の音を思わせる。それだけ脳内の情報処理速度が速いということだろう。
  こんな時、駆は仕事の邪魔をされるのをひどく嫌う。さすがに雪也相手に怒りをぶつけることはしないが、たとえば宅配屋が鳴らす呼び鈴にキレてしまうこともある。
  そんなわけで、声をかけることは躊躇われたが、それでも、今回にかぎっては言わずにはいられなかった。
 
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