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路地裏乃猫

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初恋に帰る日

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 空港ビルの屋上で、直生の乗った飛行機を見送ろうと言い出したのは、意外にも、あれほど直生を嫌っていた駆だった。
  小さな地方空港なので、ビルから滑走路までの距離が近く、屋上ではかなりダイナミックな離陸シーンを拝むことができる。とりわけ飛行機が加速する直前の、一気に数オクターブ高くなるエンジン音は、聞く者の心を高揚させずにはいられない。
 「へぇ、こんなところがあったんだ」
 「ああ。俺も初めて来た」
  ちょっとしたガーデニングが施され、なかなか小奇麗に整えられている。片隅には弁当も広げられそうなテーブル席などもあって、行楽にはいい場所かもしれない。
  今度は直生くんと三人で――そう無意識に思ったところで、そういえば、もう直生はいないのだと雪也は寂しさを噛みしめる。
  もちろん、駆がそばにいてくれさえすればそれだけでも十分幸せだ。それでも、やはり直生の欠けた穴を埋めることはできないのだ。なぜなら直生は雪也にとって、もはや欠かすことのできない大事な心のピースと化しているのだから。
 「風が気持ちいいね。こんなところでビールとか飲んだら最高かも」
 「……だな」
  おや、と雪也は怪訝に思う。さっきからどうも駆の口が重い。その横顔も、何かを思いつめているかのように強張って、見る者を妙に落ち着かなくさせる。
  何だろう。一体、駆は何を思って……?
 「話がある」
 「え?」
 「ずっと、お前が聞きたがってたこと……結構溜まってたよな。ええと、何であの場所が分かったのか、とか、どうしてお前を好きなのか、とか……」
 「え……」
  だしぬけな展開に、雪也は何と答るべきか戸惑う。これが、駆の言っていた〝時期〟なのか。――だとしても、なぜ、よりにもよって今?
 「あとは何だっけ、ええと、」
 「ちょ、ちょっと待って!」
  自分を置いてどんどん先に進もうとする駆を、雪也は慌てて引き止める。理解というより感情が彼の言葉に追いつかなかったのだ。
  確かに、打ち明けてくれることは嬉しい、が、それ以上に、打ち明けられることで何かが変わってしまうことの方が雪也は怖かった。
 「待ってよ。僕にも心の準備が……」
 「待たない」
 「えっ?」
 「十六年待ったんだ。もう、これ以上は待てない」
 「……」
  ふわりと風が吹いて、一瞬、乱れた髪が駆の横顔を隠す。
  ふたたびその横顔が現れた時、それは、常坂駆ではない、別の人間の横顔として雪也の目に映った。
  と同時に、これまでの謎が一気に氷解する。
  なぜ、誰よりも深く直生の気持ちを理解できたのかも。
  なぜ、絶妙なタイミングであの場に助けに現れることができたのかも。
  なぜ駆が、雪也を好きになった理由を明かしてくれなかったかも…………
 「直生、くん」
  返事の代わりに、その横顔が振り返る。
  改めて見ると、どうして今まで気付かずにいたのかと思うぐらいその顔は直生とよく似ていた。彼が大人になれば、きっとこんな顔になるだろうという、駆――いや〝直生〟は、まさにそういう顔立ちをしていた。
  理性では拒みながら、それでも雪也の感情は確信する。
  間違いない。この人は――
  その手から、ふと何かが投げられ、反射的に雪也は受け取る。
  見ると、それはつい先日、遊園地で直生に買ってあげたばかりのキーホルダーだった。が、それにしては色や形がすっかり擦り切れ、ひどく古びて見える。
 「悪かった」
 「えっ?」
 「今まで、つまらない演技につき合わせちまって……でも、あれぐらい煽らなきゃ……俺って本当はどうしようもないヘタレだから、ちゃんと作ってくれないんだよな、アレ」
  アレというのは――つまりは。
 「じゃあ、直生くん――ええと、あの直生くんを怒らせたり、からかったり……いじめたりしてたのは……」
 「まぁ、半分は不可抗力かな。実際、誰だってガキの頃の自分なんてのが近くにいたら、ムカついて仕方ないと思うぜ」
 「うん……そ、だね」
  直生のことを執拗にガキ呼ばわりしていたのも、おそらくは同じ理由だ。同じ空間にもう一人の自分がいるという奇妙な状況の中で、どうにか自己の同一性を保つには、相手を別の名前で呼ぶしかなかったのだろう。同じ立場なら、きっと雪也もそうする。
  本当なのだ。
  本当に、帰ってきたのだ。
 「やっぱ引く?」
  ふと〝直生〟が訊く。その表情は、どことなく怯えているようにも見えた。
 「え? どうして」
 「いや、だって気持ち悪いだろ。こんな……初恋の人に告白するために、わざわざタイムマシンなんてモノまで作って……いや、自分で言うのも何だけど、ほんと、大変だったんだぜ。いろんなトコから人材かき集めて、頭下げて出資受けて……まぁそれはいいんだけどさ別に。でも……普通は重いよな。こんなの……」
  言いながら〝直生〟は、ばつが悪そうに頭を掻く。どうやら本気で照れているらしいその顔は、雪也も初めて目にする表情で、これが本当の〝直生〟かと思えば、引くどころか、むしろ愛しさばかりが雪也の胸に募った。
 「ううん。ありがとう」
 「えっ?」
 「むしろ嬉しい。そこまでして僕に会いに来てくれたなんて……ほんと、すごく嬉しい」
 〝直生〟に歩み寄り、その、大人として成熟した端正な顔を見上げる。
 「……直生くん」
  その頬が、ふ、と優しくほころぶ。
 「ずっと、その名前で呼ばれたかった……先生に」
 「先生じゃないよ、もう」
 「ううん、先生だ。先生で……そして、俺の一番大事な人」
  長い腕が伸びてきて、雪也の背中を抱き寄せる。どちらともなく唇を求め、重ねると、それはすぐに深く、そして濃くなった。
  大人の口づけを恐れる少年は、もうそこにはいなかった。
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