あなたの帰る場所

路地裏乃猫

文字の大きさ
上 下
3 / 21

憧れ

しおりを挟む
 その頃ユーリは、虹口公園近くの里弄――日本で言うアパートのようなもの――の一室を借りて暮らしていた。十九世紀末に建てられたというそこは、すでに壁の漆喰もすっかり剥げ落ち、土台の煉瓦がむき出しになるほどのボロ家と化していた。
 その、ほとんど廃墟のような小部屋に、ユーリは一人で暮らしていた。
 家具らしい家具といえば、せいぜい足の痛みかけた古いベッドと、勉強用の机と椅子のみ。クローゼットはなく、衣服は部屋の隅のかごにまとめて放り込まれている。
 家具に乏しく、また、北向きの小窓が一つ開いているだけの寒々しい部屋だが、まして冬のこの時期は、壁から床から冷気が染みて、部屋の中でも常にコートを羽織っておかなければとても寒さを凌げない。
 一応、ストーブはあるにはあるが、この数日は全く火が入れられていない。今の稼ぎでは食べるのに精いっぱいで、石炭に回す金など一セントも絞り出せないのだ。
 襟を掻き合わせ、骨に沁みこむ寒さを何とか耐え忍ぶ。
 ロシア生まれのユーリの母は、決して丈夫な方ではなかったが、寒さにはだけはやたらと強く、モスクワから逃げる途中に歩いたシベリアの寒さに較べれば、こんなものはむしろ涼しいぐらいだと真冬でも平気な顔をしていた。――が、残念ながらユーリには、そんな母の血は受け継がれなかったらしい。
 かといって、真夏の上海のむしむしした暑さもそれはそれで堪らないのだけど。
「うう、さむい……」
 とにかくこんな日は、早めにベッドに潜り込み、布団の中で日本語の勉強をするに限る。
 店長に書いてもらった見本をもとに、鉛筆でせっせとカタカナの練習をする。日本語はこのほかにも、ひらがなという文字もあるから面倒だ。
 ふと鉛筆を握る指に目を落とす。
 昼間、あの紳士に巻いてもらったハンケチは今もそのまま指に巻かれている。傷を早く治すには、一度ハンケチを解いて消毒するなりした方がいいのだろうが、そうする気にはどうしてもなれなかった。
 唇に傷口を吸われる感触がよみがえり、指先がじわりと温かくなる。
 ――二度とこんな無茶はするんじゃない。
 そっと目を閉じれば、知的で落ち着いたテノールが耳の底によみがえる。
 今日、初めてあの人と言葉を交わした。もちろん今までも何度か注文を取ったことはあるが、店員としてでなく、一人の人間として言葉を交わしたのはこれが初めてだ。
――君は……じゃあロシア人か。
「そう。でも半分は、あなたと同じ日本人」
 指に巻かれたハンケチに、さもそれが彼の分身であるかのようにユーリは囁いた。
しおりを挟む

処理中です...