あなたの帰る場所

路地裏乃猫

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たとえ殺されるとも

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どうした、ユーリ」
「えっ? ……あ、」
 橘の声に慌てて我に返る。そういえばここは店だったと思い出し、慌てて手元のメモに目を落とす。が、たった今、橘から聞き取ったはずの注文はそこに記されておらず、代わりに何だかよくわからない鉛筆の線が白紙の真ん中にのたくっている。
「え、ええと……スミマセン、もう一度……」
 すると橘は、ふ、と呆れたように笑って、改めてコーヒーとパンケーキを注文した。
「ところで君、今日はやけに顔色が悪いが一体どうした?」
「えっ?」
「どこか具合でも悪いのか?」
「い、イエ……」
 どうしたと訊かれても答えられるはずがない。まさか昨晩、家に青幇の一員の旧友が来て、あなたをスパイしろと命じてきたなど。
 あれから冷静さを取り戻したユーリは、考えれば考えるほど文明の命令が無謀なものだと思い知った。
 そもそも、情報を抜き出す以前にどうやって橘に取り入ればいいのか。
 ユーリの見るかぎり、橘には男色の気はまるでない。が、たとえ普通の使用人として取り入るにしても、彼も憲兵なら、むやみやたらに外国人を家に置いたりはしないだろう。
 いずれにしろ、文明の命令は果たせそうにない。
 かといって……裏切り者として青幇に嬲り殺しにされるのは、やはり怖い。
「こ、コーヒーデスね。すぐに――あっ、」
 踵を返しかけたユーリは、しまった、と慌ててその場に踏み留まる。
「す、スミマセン、橘さん。今朝、ストックしていたコーヒー豆がなくなりマシた。今日からは、代用コーヒーになりマス」
 すると橘は、一瞬、気の抜けたような顔になり、それから思い出したように肩をすくめて、
「そうか。それは残念だな……この辺りではもう、この店でしか本物のコーヒーは味わえなくなっていたんだが……」
「……スミマセン」
 しおらしく頭を下げながら、一方でユーリはほっとしてもいた。
 これで、もう、橘も店には来なくなるだろう。もう会えなくなると思うと胸が潰れるほど寂しいが、どのみちいつかはこうなる運命だったと思えば、むしろ早めに別れることができて良かった。
 そう。良かったのだ。これで。
 これ以上橘に惹かれたところで、待っているのは破滅しかない。
「ああ、橘さん」
 横から店長が声を挟んでくる。ユーリの説明だけでは心許ないと、わざわざ店の奥から謝りに来たのだろう。と――
「ちょうどよかった。実は橘さんにお願いがあるんですがね」
「ん、何だ?」
「この坊主に、何かいい仕事を紹介してやってはくれませんかね。一応、昔はどこぞのお屋敷に勤めていたとかで、家事全般なら問題なくこなせるらしいんですが」
 だしぬけな言葉にユーリは「えっ」と声を洩らす。
 どういうことだ? まさか、僕の働きぶりが悪いから馘に……?
 横目で橘を伺うと、こちらは別に驚いた様子もなく、代わりに、厳しいがどこか寂しげな表情で店長を見上げている。
「そうか。あなたもついに……」
「はい……今まで、橘さんやその他の皆さんには本当にお世話になりました。いえ、今だって、必死にこの街を守ってくださっていることは分かっています。ですが……いや私も歳を取りました。どうせ死ぬなら、祖国の土の上で死にたいんです」
 涙ぐみ、ハンカチーフで洟をかむ店長と、それをじっと見守る橘。そんな中、ユーリ一人が何のことか分からず呆然と二人を見守る。
 そんな、ユーリにとっては不可解な沈黙を終わらせたのは、橘のこんな一言だった。
「わかった。そういうことならきみ、うちの家で働きたまえ」
「えっ?」
 うちに来い? それはつまり、橘の家に……? 思いがけない言葉にますます呆然となるユーリの背中を、店長の節くれだった手がぱん、と叩く。
「そりゃいい! 橘さんの家なら万事安心だ! うん。何なら今日からでも通わせてもらうといい、な?」
「え、あの、どういうことでスか店長、」
 振り返る。そこには意外にも、皺に埋もれかけた瞳をじわり潤ませながらじっとユーリを見上げる、店長の優しい笑みがあった。
「お別れだ、ユーリ」
「……えっ?」
「短い間だったが、まぁ、よくこんな小さな店のために頑張ってくれたよ。少し抜けてるところが玉に瑕だが、それを補って余りあるほどお前はよく頑張ってくれた」
「ど、ドウシテ、お別れデスか。僕、よく意味がワカラナイ……」
 が、店長は言葉を詰まらせたきり答えない。そんな店長の代わりに、橘が流暢なロシア語で答える。
「店長はね、この店を閉めて本国に帰ると仰っているんだよ」
「帰る!? 日本にですか!?」
 覚えずユーリもロシア語で答える。と、
「ああ。……だが彼を責めてはいけない。もし、我が国が今後、今の戦争に負けでもするなら、この街に住む日本人は全員、最低でも財産没収――ともすれば収容所に連行されて殺されかねない。君はロシア人だから関係ないのだろうが、我々日本人にとっては、国に帰るかどうかは命運を左右しかねない非常に重大な問題なのだ」
 ふと昨晩の文明の言葉が脳裏によみがえる。
 あの時、確か文明はこう言った――一年もしないうちに日本は降伏する、と。
 だがユーリはそれを、中国を祖国に持つ文明の希望的観測としか捉えていなかった。これまで十年近く大陸で優勢を振るってきた日本軍が、まさか敗北する日が来るとは、ユーリには俄かに想像できなかったのだ。
 が、今度のそれは日本側の、しかも、本来なら弱気な意見など絶対に口にできない軍人の言葉である。ということは、本当に日本は……そして僕は。
「まぁ、厭なら無理にとは言わんがな」
「いえ、行きます!」
 勢いで答えてから、ユーリは深く後悔する。本当に、自分のような混血児が彼の家で働いていいのだろうか。――いや、そんなことより、この期に及んで橘との関わりを強くしてどうする。日本の敗戦の可能性がいよいよ濃くなった今、むしろ橘とは距離を取るのが上海人としての正しい身の振り方だ。さもなければ、文明が心配するとおりユーリは裏切り者として捕えられ、揚句は嬲り殺しにされてしまうだろう……
 わかっている。そんなことは……なのに。
「近いうちに……その、お宅に通わせていただきます」
 人間、どうせいつかは死ぬのだ。ならば、最期ぐらいは好きな人のために生きたい。
 すると橘は、ふ、とほろ苦く笑って、
「随分と悲壮な顔だな。そんなに俺の家に来るのが厭か?」
「え?」
「大方、店長に俺の正体を聞いて怯えているのだろう。まぁ確かに、貴様ら西欧人には俺たちの評判は散々だからな。怯えたくなる気持ちはごもっともだが……」
 違う、と喉元に出かかる言葉をユーリは慌てて飲み込む。が、ここでその理由を話せば、かえって面倒なことになるだろう。それに、たとえユーリが売国奴として殺されることになろうとも、それは橘には何の関係もないことだ。
 正直に言えば怖い。不安もある。けれど……
 そんな、不安げなユーリを心配したのだろう。店長が日本語で励ます。
「大丈夫だユーリ。いくらお前が可愛いからって、別に取って食われたりはしねぇ。――そうですよね橘さん?」
 すると橘は、なぜかにやりと悪戯っぽく笑って、
「それは……保証しかねるな」
 と、言った。
 その後、不味いはずの代用コーヒーを嫌がりもせずに啜り終えると、例によって橘は長居することなく席を立った。彼が去ったテーブルには、コーヒー代とは別に数枚のドル札と、そして、彼の家のものと思しき住所を記したメモが残されていた。


 橘の家は、日本人街でもひときわ大きなアパートメントの中にあった。
 貰ったメモによれば、この街では珍しい鉄筋コンクリート造りの七階建てアパートメントの一室が彼の住まいであるらしい。が、訪れたその時は誰もおらず、仕方なしに隣の住人に訊いてみると、深夜まで帰りませんとのこと。しかも――
「数日戻らないこともざらだからね。まぁ出直すことだね」
 てっきりすぐに会えるものと思っていたユーリは、その、意外な言葉に呆然となるのを禁じ得なかった。ユーリの持つ橘のイメージといえば、カフェの片隅でのんびりとコーヒーを啜る紳士のそれに限られていた。それが、まさかここまで多忙な人間だったとは……
「どうする? 帰るかね?」
 隣人の言葉に、少しばかり心がぐらついたユーリだったが、結局、
「いえ、待ちます」
 と答えた。
 が、時あたかも真冬の折。冷たいコンクリートの廊下に二時間も居座っていると、ロシア人の血を引くユーリもさすがに骨の髄まで寒さが沁みてたまらなくなる。そんな中、嬉しかったのは隣の住人の優しさで、見かねたおばさんが温かいお茶や日本風のスープを分けてくれたのは有難かった。
 そうして、橘の帰りを待つこと半日――
「……ん?」
 こつ、こつと硬い足音がして、三角座りのままついうとうとしかけたユーリはむくり顔を上げた。口元から垂れたよだれを拭い、音のする方を振り返る。と――
「ユーリ?」
 薄暗い廊下の向こうから現れたのは、いつぞやの夜、憲兵本部前で見かけたそれと同じ軍服姿の橘だった。
 間近に見ると、その佇まいの美しさはいよいよ際立っていた。
 身体のラインを美しく描き出す上等な仕立ての軍服に、磨き上げられた軍靴、目にも眩しい白手袋。あたかも夜会服のように洗練された洋装の中にあって、腰に佩かれた黒鞘の日本刀だけがなぜか前近代的で、そのアンバランスさがかえって失われた伝統へのロマンを掻き立てさせる。いや、そんなことより――
 たった今、この男はユーリの名を口にした。
 ということは、やはりこの人が……
「……橘さん、デスか?」
「ああ。で、いつから君はここに?」
「そ、そんなに……待ってないデス。それに僕、ロシア人デスから寒いの平気デス」
 橘はそれには答えず、手袋を脱ぎながら片膝をつくと、素手でユーリの頬をそっと包み込んだ。
 冷たく強張った頬に、手のひらのぬくもりがじわり沁みこんでくる。
 その温かさ、優しい手つきに、いよいよユーリは確信する。
 やっぱり、この人は橘さんだ……
「冷たいな。まるで氷だ」
 そっと手を放すと、橘は詫びるように言った。
「すまなかったな。せめて職場の方に来るよう言っておけば、こんなに待たせることもなかったろうに」
「い、いいデス! そんなコワいこと、僕、できないデス!」
「怖い?」
 怪訝そうに眉を寄せる橘に、ユーリは思わずはっとなる。今の言葉は、橘の属する憲兵が怖いと言っているも同じだった。
 橘の顔がほろ苦く笑う。いよいよユーリは居た堪れなさを感じて顔を伏せた。
「す、すみマセン……でも、橘さんは、怖くない……デス」
「無理するな。そういえば、君にこの姿を見られるのは初めてだったな」
「……ハイ」
 本当は二度目だ、などとは口が裂けても言えなかった。――まして、その後の旧友との邂逅については絶対に。
「とりあえず、入ってくれ」
 腕を取られ、ぐいと引き寄せられる。その絶対的な力強さに、改めてユーリは相手が軍人であることを思い知る。いくら振りほどいても、その手は決して外れそうにない。
 逃げられない――
 が、不思議と不安はなく、むしろ、その力強さに安堵すら覚える自分にユーリは驚いた。
 やがて部屋に通されたユーリは、その広さに思わず声を上げた。
「うわぁ」
 ユーリの部屋なら三つぐらいは入りそうな広々としたリビングには、上等なソファやテーブルなどの家具類が配置よく置かれている。足元に敷かれたカーペットは、爪先が埋まるかと思うほどに毛足が長く、ユーリの部屋にあるベッドよりも柔らかそうだ。
 リビングのほかにもいくつか部屋があるらしく、しかも、キッチンやシャワールームまで完備されている。少なくとも、独身の男が一人で住まう部屋ではない。
 まさか、本当は家族が……恋人が?
 きょろきょろと落ち着きなく部屋を見回すユーリをよそに、橘は手際よくストーブに火を入れる。氷室のようだった部屋の空気が、ほんのりとだが暖かさを増しはじめた。
「何だ? 便所は向こうだぞ」
 どうやらトイレを探していると思われたらしい。何だか子供扱いを受けているようで、ユーリは慌てて首を振った。
「あ……ち、違うデス違うデス! 家族の人探していたデス!」
「家族?」
 またしてもユーリはしまったと口をつぐむ。どうもさっきから余計なことを口にしてばかりだ。多分、初めて橘の家に招かれて舞い上がっているのだろう。
 不意に哄笑が弾けてユーリはびくりとなる。見ると、橘が大口を開いて笑っていた。
「あ、あの僕、何かオカシイこと言いましたデスか?」
「ああ。こんな、いかにも男寡な部屋を見て家族だと? ――ふふっ、面白い奴だとは思っていたが……」
「男……ヤモメ?」
「独り身という意味だ。まぁ、さいわいというか、残念ながらというべきか……な」
「そう、デスか……」
 ふっと肩の力が抜ける。男にしてみれば寂しい話だろうに、安堵を感じてしまっている自分がユーリは恥ずかしかった。
 やがて橘は、リビングにあるドアの一つに消えると、ほどなく紺色の着物姿でリビングに戻ってきた。多分、ドアの向こうは橘の寝室で、軍服をしまうクローゼットが置かれているのだろう。
 着物姿の橘は初めて見る。軍服やスーツの時は襟やネクタイに隠れていまいち分からなかったが、襟から覗く逞しい胸板と大きな喉仏が、いかにも男性的でうっかりすると見惚れてしまう。
「どうした。そんなに着物が珍しいか?」
 可笑しそうに訊ねる橘の声に、我に返ったユーリは慌てて顔を伏せた。
「い、いえ……あ、ハイ、そうデス……」
 言えなかった。あなたの着物姿に見惚れていました、などとは。
 とりあえず飲め、とグラスを渡され、酒を注がれる。上品でスモーキーな香りはウイスキーのそれだろう。一気に飲み干すと、喉を灼くアルコールの感覚につい陶然としてしまう。
 その飲みっぷりが良かったのだろう、橘はくすっと軽く笑うと、
「また随分と来るのが遅かったな。てっきり俺は、君にフラれたんじゃないかと思って心配していたんだが」
「……すみマセン」
 実はこの時、メモを貰ってからすでに一週間以上が経っていた。
 あの後もユーリは、店長が遠慮するのも構わず店に居残り、通訳として中国人相手に家具や家、店を売り払うのを手伝っていたのだ。おかげで、本来なら二束三文で買い叩かれていたところ、ちょっとした財産を持たせて日本に見送ることができた。
 そんな数日間の出来事をかいつまんで話すと、
「それは良いことをしたな。店長もさぞ助かっただろう」
「ハイ。……と、思いマス」
 が、ユーリは言えなかった。ここに来るのが遅れた本当の理由を。
 本当は、橘の家に行くのが怖かったのだ。
 店長の手前リップサービスでああ言ったものの、本当はその気などなかった、などと拒まれるのを密かに恐れていた。
 もし、橘に面と向かって拒まれた日には、ユーリは心の拠り所を全て失ってしまう……
「あ、あの……本当に僕でいいんデスか?」
「どういう意味だ?」
「だ、だって僕、見た目は白人デスし、そういう人が憲兵さんの家にいたら、ヘンだ思われないデスか?」
「まぁ、思われないこともないだろうな」
「じゃあ、どうして、」
 すると橘は、さぁな、とおどけたように広い肩をすくめて、
「それより、風呂で身体を温めてきたらどうだ? でもって今日は早く寝ろ。部屋はそこの客室が空いているから、まぁ好きに使ってもらって構わない」
「え?」
「え、って何だ。仕事は明日からで構わないと言っているんだ。今夜はもう遅いからな。――ああ、あと書斎の本も好きに読んでもらっていい。空いた時間はそこで日本語の勉強に勤しんでくれ。あと石炭だが、こういうご時世だからできるだけ節約してほしい。それと、必要なものがあれば何でも言ってくれ。可能なかぎり俺の方で工面するから」
「……」
 その口ぶりから察するに、どうやらユーリが住み込みで働くことを前提に考えているらしい。もちろん、こんな豪勢な部屋に、しかも橘と二人で住めることは嬉しい。――が、同時にそれは、いよいよ後戻りのできない状況に自分を追い立てることを意味した。少なくとも、抗日テロリストの目から見ればユーリは立派な売国奴に見えてしまうだろう。
 いいや――毒を食らわば皿までだ。
 黙り込むユーリに、日本語が通じていないと勘違いしたのだろう、橘は困ったように眉を寄せると、今度はロシア語で言い直してきた。
「だから、ここに住んでもいいと言っているんだ。……まぁ、厭なら通いでも構わないがな。こんな男寡と二人暮らしでは、君も何かと息が詰まるだろう」
「だ、大丈夫です。言葉は分かります。――ありがとウございマス、どうか、今後ともヨロシクお願しマス」
 日本式に深々と頭を下げながら、これでいい、これでいいんだとユーリは何度も自分に言い聞かせていた。
 そう。たとえ裏切り者として文明たち中国人に殺されることになろうとも……
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