あなたの帰る場所

路地裏乃猫

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陰謀

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「どうした、ユーリ」
 我に返り、弾かれたように顔を上げる。見ると、テーブルの向かいで怪訝そうな目をした橘がじっとユーリを覗き込んでいる。
 テロを警戒してか、ユーリと外で食事を取る際には必ず私服を身につける橘は、今は中国風の、木綿地の紺の長衫を身につけている。服のデザイン自体はシンプルだが、土台の身体が抜群に良いせいか、そのアウトラインはうっかりすると見惚れるほどに魅惑的だ。
 とりわけ目を惹くのは、きゅっと引き締まった腰と長い脚だ。こうして見ると、橘は軍服やスーツのみならず長衫も似合う見事な体格をしている。それはともかく――
 慌てて辺りを見回し、そこが北四川路近くのいきつけの食堂だったと思い出す。日が明けて間もない時間だが、店内は早くも混み合い、これから一日の仕事に向かう苦力たちが慌ただしく粥を掻き込んでいる。
 そのテーブルの一つに席を占めながら、ユーリもまた朝食用の粥を啜っていたが、どうやら随分長いこと匙が止まっていたらしく、手元の粥は運ばれたその時からほとんど減っていない。
「い、いえ、何でもありません……」
 慌てて粥を口に掻きこむ。すっかり冷めたそれは確かに食べやすかったけれど、肝心の味はせせらも感じられなかった。
「どうも近頃、調子がおかしいな」
 橘の言葉にユーリはぎくりと首を竦める。
 まさか、手帳を盗み見ているのがバレているのか――
 それは充分ありうる。橘の態度に変化はないが、何せ相手は、店長が教えるまで憲兵であることをユーリに悟らせなかった役者だ。たとえ気づいていたとして、ユーリの前で気づかないふりを装うことぐらいは朝飯前だろう。
「まぁ、こんな情勢でへらへら笑っていろという方が無理な話だろうがな」
 その投げやりな口ぶりも、今となってはただ平静を装うための誤魔化しにしか聞こえなくなる。もっとも、いよいよ彼らの情勢が危機的な状況に追い込まれつつあることへの達観のせいかもしれないが……
「やっぱり……苦しいんですか」
 とりあえず追従のつもりで問う。すると橘は、答える代わりに広い肩を力なく竦めて、
「まぁ、その辺りは想像に任せるさ」
 と、気のないふうに答えた。
 食事を終えると、橘は軍服に着替えるべく一度アパートに戻る。橘が着替えのために部屋に消えると、一方のユーリはキッチンに向かい、コーヒーの準備をはじめる。
 豆――といっても大豆を焙煎した代用コーヒーのそれだが――を挽き、沸かしたお湯で蒸らす。蒸らした豆にお湯を注ぎ、コーヒーを淹れる……と、それとタイミングを同じくして軍服姿の橘が部屋から現れる。
 その左胸のポケットに、小さな軍隊手帳が収められているのをユーリは知っている。
 ここ数日、ユーリはふたたび文明から矢の催促を受けていた。
 なんでも近々、国民党系テロリストと重要な取引を控えているらしく、万全を期すためにも新たな捜査予定を把握しておきたいのだという。
 だが、そんなものは出せと言われてすぐに出せる類のものではない。今のユーリには、夜、橘が寝静まったときを見計らってそっと手帳を抜き取り、盗み見ることしかスパイらしいことはできない。近頃は職場で夜を明かすことも多い橘の手帳を覗くのは、だから、日に日に難しくなっている。そのくせ文明は、ユーリが情報を渡せば渡すほど、次はより多くの、精度の高い情報を渡せと迫ってくる。
 そして今日も、ユーリは文明と会うことになっていて、その時に何の成果もないとなれば、今度はどんな目に遭わされるか分かったものではなかった。
 最悪、あの写真を橘のもとに送り付けられることも……
「どうしたユーリ」
 不意に声をかけられ、我に返った――次の瞬間。
「あ!」
 足が絡まったのか、何もないところでユーリは前のめりに躓いてしまった。
「ユーリ!」
 強い力に抱き留められ、それが橘の広い胸板だと気づいてユーリははっとなる。見ると、橘の軍服には、代用コーヒーの黒い染みがべっとりと広がっていた。
「すすす、すみません!」
 慌てて飛び退き、橘の軍服を脱がせにかかる。このまま放っておけば染みになってしまう。急いで洗わなければ――
 そんなユーリの脳裏に、一瞬、不埒な考えがよぎる。
 このまま軍服を洗うふりをして、手帳を盗み見てしまおうか……
「あ、あの、橘さん」
「ん?」
 怪訝そうに見下ろす橘の視線から、それとなくユーリは逃れる。こんなときに相手の瞳を直視できるほど、ユーリは大胆な性格の持ち主ではない。
「服を……洗わせてください。今すぐ……」
「あ、ああ、わかった」
 橘は大人しく上着を脱ぐと、それをユーリに手渡した。
 その上着を手に、急ぎバスルームに駆け込む。洗面台に水を張りながら、いつものように左胸のポケットを探ると――
 あった。手帳が。
 バスタブの縁に腰を下ろし、さっそく手帳を開く。今まで何度もそうしたように、今後の捜査日時と場所が書かれたページを探り出すと、ポケットから取り出したメモ帳に急ぎ鉛筆で書きつけはじめた。
 ここで奪った情報が、いずれ橘の仕事を阻むことになるのをユーリは知っている。仕事の話は基本的に家に持ち込まない橘だが、ここ最近、その顔に徒労感が募っていることから、ユーリの裏切りによって深刻なダメージを与えられているのは明らかだった。
 それでもユーリは、鉛筆を持つ手を止められなかった。
 ここで密告をやめれば、いずれ、ユーリは橘を失ってしまうだろう。最も浅ましい姿を知られた揚句、軽蔑と嫌悪の眼差しでごみくずのように棄てられてしまうだろう。
 いやだ。それだけは絶対に。
 今となっては橘だけが、ユーリにぬくもりを与えてくれる唯一の存在なのだ。その橘を失えば、あるいは人として生きることの喜びをユーリは永遠に失ってしまうだろう。
 彼に迷惑をかけているのは分かる。手酷く裏切っていることも。そして、彼を裏切り苦しめている以上、ユーリの橘に対する気持ちは到底愛などとは呼べないことも。むしろそれは、エゴイズムと評されるものに違いなく、そしてそれは、同胞のために身を削って戦う橘が、最も軽蔑する類の感情に違いなかった。
 自分には、彼のそばで生きる資格すらない……それでも鉛筆を持つ手を止められない自分の罪深さを、ユーリは恥じた。
 彼のそばにいたい。たとえ、人としての良心さえかなぐり捨ててでも。
「……ごめんなさい。橘さん……本当に、ごめんなさい……」
「何の話だ」
 思いがけない声にはっと顔を上げる。
 目の前に、いつの間にバスルームに現われたのだろう、精悍な顔を仮面のように強張らせた橘が、腕を組んだままじっとユーリを見下ろしていた。
 その黒い瞳が宿す強い憤りにユーリは息を呑む。
 こんなふうに強い感情を秘めた橘の目を、この時、ユーリは初めて目にした気がした。
 呆然となるユーリに、今一度、言い聞かすように橘は繰り返した。
「聞こえなかったのか。何の話だ、と訊いている」
「……あ……」
 が、ユーリは何も答えられない。舌が喉の奥に貼りついたまま、まともに声を発することさえできなかった。
 一方、橘は無言のままユーリの手元に目を落とすと、それからユーリの顔に目を戻し、冷やかに言った。
「誰に命じられた」
 いつになく硬い声は、多分、彼が容疑者を尋問する際に発するそれで、今更のようにユーリは自分が敵として見做されたことに愕然となった。
 何を今更。今まで散々彼を裏切っておいて……
 いっそ正直に答えようとするが、やはり言葉が出てこない。もどかしさばかりが募って、ついにユーリは溢れさせたくない涙を零した。
 身勝手なのは分かっている。
 だが、この瞬間、ユーリは猛烈に橘の体温を欲した。橘のぬくもりを、優しさを、理解を――この絶望的な状況を終わらせる救いの手を。
「……助けて、くだサイ」
 ようやく口をついて出た言葉はそれだった。が、当然だが橘には、ただの見苦しい命乞いにしか聞こえなかったらしく、
「生憎だがスパイは全て銃殺刑だ」
 その、有無を言わさない冷酷な返答にユーリは悟る。
 駄目だ。全ては壊れてしまった。
 橘との関係も、その間にあったはずの信頼も……何もかも全て。
 そんなユーリの視界に、ふと、あるものが映る。
 それは、洗面台の棚に置かれている橘の剃刀だった。丁寧に研がれた刃は、今は取っ手の中に畳んでしまわれている。が、その切れ味の素晴らしさは、毎日清潔に髭を剃られた橘の白い顎を見れば一目瞭然だった。
 ふ、とユーリは場違いな笑みをこぼす。
 不思議なもので、覚悟を決めた途端、嘘のように震えが止まってしまった。
「命じたのは、趙文明という人です」
 それは、自分でも驚くほど静かな口調だった。
「趙? ……青幇のか?」
「はい。彼とは昔、路上で暮らしていた頃からの知り合いでした。その彼に、あなたをスパイするよう命じられたのです。断れば……命より大切なものを奪うと脅されました」
 そして、それはすでに失われた。
 今のユーリに、守るべきものはもう何も残されていなかった。
「趙はあなたの捜査情報を、あなた方の捜査の手をかいくぐることに使っていたそうです。具体的にどのように使われていたかは僕には分かりません。僕はただ、あなたをスパイすることだけを命じられていましたから」
 ユーリは一つ大きく溜息をつくと、最期に、その姿を焼き付けるように橘を見た。
 そのすらりとした長身を。端正な造りの顔を。いつも優しい眼差しを投げかけてくれた、その黒い双眸を。
 大好きでした。ずっと。
 そしてユーリは、洗面台に置かれた橘の剃刀に手を伸ばした――

 かん……っ。

 硬いものの転がる澄んだ音が部屋に響く。
 気づいた時には、もうユーリの身体は橘の力強い腕に抱き留められていた。
 苦しいほど深く橘の肩に顔を埋めながら、ユーリは何が起こったのかを確かめる。背中に回された橘の片腕。もう一方の腕は、剃刀に伸ばされたユーリの腕を潰れるほど強く握りしめている。
 そんなユーリの手は、剃刀ではなく虚しく空を掴んでいる。握られるはずだった剃刀は、今は水を張った洗面台の中に静かに沈んでいた。
 止められた? 
 でも何故。必要な情報はすべて伝えたはず……
「……最低だな、俺は」
「えっ?」
 そっと腕を解かれ、改めて真正面に向き合う。その橘が浮かべる意外な表情に、ユーリはますます呆然となった。
 表情は相変わらず硬く厳しい。が、その眼差しは――黒い瞳に浮かぶ感情は。
 えっ、と思った時には、もうユーリの唇は橘のそれに塞がれていた。
 反射的に逃れようとするも、いつの間にか腕から後頭部に移った橘の手がそれを阻む。その間も、意外なほど貪欲な舌がユーリの唇を割り、強引に歯列の隙間にすべり込んでくるのをユーリは止められなかった。
 さらに橘は角度を変え、最も密着する形に唇を合わせる。
「……ん、ふぅっ」
 無理やり絡まされた舌が、口腔の中でいやらしい音を立て、それが厭というほど耳の奥で響けば、いよいよユーリは自分の身に降りかかった事態を理解せずにはいられなくなる。
「ど、うして……」
 ようやく唇を解かれ、荒く息をつきながらそれだけを訊ねる。二人の唇の間につつと引いた唾液の糸がいやらしく、恥ずかしさと驚きで危うく胸を破裂させかけながら。
「それだけは俺が許さない」
 ユーリの弱い首筋に唇を寄せながら、冷やかに橘は囁く。
「今後、貴様の命は俺が預かる。……言っておくがこれは命令だ。貴様に拒否権はない」
「ど……どういうことですか……んっ!」
 思わず甘い声を洩らしてユーリは赤面する。首筋に強く吸いつかれるだけでこんな声を出してしまう自分は、文明の言うとおり本当に〝素質がある〟のかもしれない。
 じりじりと壁に追いやられ、やがて背後の壁に押しつけられる。ユーリを拘束する役目を終えた橘の腕が、今度はユーリの襟に回り、シャツのボタンを一つ一つ、ゆっくりと焦らすように解きはじめた。
「預ける……というのは、どういう意味ですか」
「何だ貴様、ロシア語も分からないのか」
 くすくすと揶揄を含む笑いに、ますますユーリは羞恥の焔に胸を焦がす。いくら何でも、今の侮辱には口答えせずにはいられない。
「こ……今度は、あなたのスパイになれと……そういうことですか」
「まぁ、概ねそういうことだな」
 端正な面が皮肉な笑みに歪む。こんな醜悪な表情を浮かべてもなお気品と美しさを失わない橘の秀麗な貌に、不本意だがユーリは見惚れることしかできない。
「安心しろ。敵地に忍び込んで情報を奪って来いなどと無茶なことは言わんさ」
 言いながら橘は、ユーリのシャツを開き、膝をつきながら目の前のはだけた胸に顔を沈める。上背のある橘の頭は、膝をつくとちょうどユーリの肩ほどの高さに来る。
 そして、その唇は――
「ひ、んっ!?」
 ざらりとしたものに胸の突起を舐られ、思わずユーリは細い喉を反らす。それが橘の舌先と気づいた次の瞬間には、今度は強く吸いつかれ、またしてもユーリの喉から不本意な嬌声が溢れた。
「やっ……や、です、ぁんっ」
 が、橘は止めない。どころか、もう一方の突起を唾液で濡らした指先でくりくりと虐めはじめる。
「やめ……た、ちばな、さん……」
 せめてもの抵抗に、橘の肩を掴んで押し返す。が、いくら力を込めても橘の身体は牡蠣のように貼りついて微動だにしない。
 腰の後ろに腕を回され、いよいよ拘束は強くなる。
 膨らんだ突起を前歯で噛まれ、ユーリはひときわ高い声を上げた。
「あ、ああ、っ!」
「ベッドに移るか?」
 膝を上げた橘に再び耳元で囁かれる。さっきのそれに比べて声が上擦っているのは、橘の方も昂奮を覚えはじめているせいかもしれない。
「……もっとも、今の貴様に俺を拒む権利はないがな」
 その声は何故か、わざと露悪的に装っているかのようにユーリには聞こえた。
 すでに半ば腰を崩しかけていたユーリは、橘の腕に抱き上げられるようにして寝室へと移った。
 てっきり乱暴にされるかと思ったユーリは、橘が意外にも労わるような手つきでユーリの衣服を剥くのを不思議な気持ちで眺めた。シャツの袖からそっと腕を抜き、露わになった首筋や肩甲骨に柔らかなキスを刻まれると、それだけで背筋がじんと痺れるような、甘い愉悦をユーリは感じた。
 どうして。僕の裏切りに怒っているはずでは……
「ん……っ」
 背後から回された手が、そっとユーリの身体を抱きすくめる。が、やはりユーリは合点がいかない。自分のような裏切り者に、どうして橘はこんなに優しくできるのか……
 かりっと耳朶を食まれ、思わず甘い声を洩らす。
 耳元で、満足そうに笑う橘の声がした。
「どうした。こんなところでも感じるのか」
「は、はい、すみません……ひっ!?」
 回された二つの手が、膨らんだユーリの乳首をそれぞれ捉え、強く抓む。強引に引き伸ばされ捻られると、痛いはずなのに悲鳴ではなく嬌声ばかりが次々と溢れてくる。
「やぁ、もう、やめて、くださ……っっ」
 一方の手が乳首から離れ、ほっとしたのも束の間、今度はさらに下の弱い場所を布越しにまさぐられ、ユーリは初めて本気で抗う声を上げた。
「や、やです、そこはっ!」
「そうか? だが」
 さらに橘の手は、ユーリのパンツに忍び込み、直接そこに指を這わせる。早くも溢れはじめた蜜を絡めて扱くと、中からくちゅくちゅといやらしい音が立った。
「これでもまだ厭だというのか?」
「う、ううっ」
 橘の言う通りだった。恥じらうユーリとは裏腹に、その身体は貪欲に刺激を求めて早くも妖しく揺らめきはじめている。今となっては、もはや動いているのは橘の手なのか、それともユーリの腰なのかさえも分からない。
「や、やめてっ……ください……」
 乳首から離れた残りの手が、だらしなく開いたユーリの口に指を捩じ込む。人差し指と中指で口腔をまさぐられ、さらに親指と人差し指で舌を引き出されると、溢れた唾液が飢えた野良犬のようにだらだらと胸元に垂れた。
 ただでさえ危機に立たされたユーリの人間性を、さらに追い詰め、奪う行為に、しかし屈辱も何も感じられないのは、すでにそれらを明け渡しているせいかもしれない。
 いっそ、もっと壊されてみたい。
 どのみち長くはない命なのだから。
 自分を破壊される感覚が気持ちよく、今度は自ら橘の指に舌を絡めれば、応じるように掻き回す指が忙しなくなる。
 無我夢中で男の指を舐め回すうち、気づくとユーリは自身を弾けさせていた。
「はぁっ、はぁ……っっ」
 だが、身内に溜まった熱は収まらない。もっと、もっと熱くて深い何か――この身体をばらばらにするほどの激しい何かが欲しい。
 そして、その何かをユーリは知識の上でだが知っていた……
「た、ちばな……さん」
 パンツに手をかけ、身を捩りながら自らそれを脱ぎ捨てる。熱に浮かされた瞳のまま肩越しに振り返り、ねだるような眼差しで背後の橘の黒い瞳を見た。
「く……ください……橘さんの……」
 一瞬、驚いたように橘は切れ長の瞼を見開くと、なぜかほろ苦く笑い、そして、目だけでユーリに俯せになるよう命じた。
 指示に従い、大人しくシーツに俯せになる。挑発するように軽く尻を上げ、肩越しに振り返ると、怜悧な中に滾るような欲望を秘めた瞳と視線が合った。
 大きな掌が汗ばんだ双丘を撫で、やがて、おもむろにその隙間に指を滑り込ませる。
 初めてカフェでその姿を目にした時から、綺麗な指先だと思っていた。
 清潔に爪を研がれた細くしなやかな指先は、繊細なデザインのカップの把手によく映えた。その印象は、彼が軍人だと知った後も壊れることはなく、むしろ、こんな綺麗な指で無骨な銃の引き鉄を引き、刀を振るわなければいけない橘の境遇を痛々しく感じさえした。
 その指が、今はユーリの最も弱い場所を撫で、探っている。
 先ほどユーリが放ったぬめりを塗り込むような優しい愛撫は、想像よりも不快でなく、むしろ心地よい。ただ、大人しくできたのもそこまでで、いざ指が中に侵入する段になると、途端に未知の刺激に対する恐怖が頭をもたげてきて、抗うようにユーリは身を捩った。
 そんなユーリの臆病な身体を、のしかかるように橘の胸板が封じる。
「動くな。中に傷がつく」
「……っ」
 傷がつくと言われては、ユーリも大人しくするしかなかった。
 その間も、橘の指は奥へと進み続ける。やがて、その指先がある一点を捉えた瞬間――
「あ……うんっ」
 感じたことのない愉悦にユーリは覚えず背筋を反らした。
 さらに橘の指は、その一点をしつこく攻めつづける。蕩けるような愉悦が腰から背中、四肢へと広がり、ユーリはあられもなく全身を悶えさせた。
「や……ぁ、あ、そこっ、いや……ぁ!」
 そういえば以前、阿片を盛られた時もこんな感覚を覚えたなとユーリは思い出す。が、あれは、所詮は麻薬によって与えられた偽りの愉悦でしかなかった。
 が、今度のそれは――
「あ、あふっ、あ……あぅ」
 下腹とベッドに挟まれた自身が、いつの間にか体積を取り戻している。ついさっき橘の手で放たれたばかりだというのに、下腹部には早くも吐精感が募りはじめていた。
 初めてでここまで乱れてしまうのは、本当に〝素質〟があるのか。
 それとも、相手が橘だったからか……
「……いいか?」
 耳元でそう訊ねる橘に、ユーリは躊躇うことなく頷いた。
 指を抜かれ、腰を掴まれぐっと後ろに引き寄せられる。四つん這いのかたちで股を割られ、露わになったそこに、さっきまでそこをまさぐっていた指とは比べ物にならないほど巨きく熱い塊が、ぐりっと抉るように押し当てられた。
「力を抜け。息を吐け」
 いかにも人に命令することに慣れた、ぴしり叩きつけるような言葉。
 が、今は、むしろその方が耳に心地よい。余計なことを考えず、真っ白のまま身を委ねることができるから。
 命じられるまま息を吐く。
 巨大な質量が、ユーリの中を埋めたのはその時だった。
「う、ああ、っ!?」
 一瞬、何が起こったのか分からず、ただ奥を埋める途方もない熱にユーリは狼狽する。
 文字通り身体が裂けるかと思うほどの痛みと圧迫感に、慌てて腕をばたつかせ、這うように逃げを打つ。が、そんなユーリの努力も虚しく、腰を掴む手が強引にユーリを引き戻し、さらに塊を奥へと進めた。
「……もっと、力を抜け」
「む、無理、です、ぅっ」
 つい先程までの、バラバラに壊してほしいと願う気持ちはどこかに消え失せ、今はただ苦痛から逃れたくて無我夢中でシーツに爪を立てる。その間も、灼けるような熱が奥を掻き乱し、一度といわずユーリは意識を飛ばしかけた。
「い、いやだ、もう、や、ぁ」
 許しを求めて啜り泣く、が、そんな願いとは裏腹に橘は背後からユーリを抱きすくめ、さらに荒々しく奥を穿つ。叩きつけられる腰の硬さと重みに抗うようにいやいやと首を振りながら、しかしユーリは、身体の芯に生まれつつある未知の感覚の存在に早くも気がついていた。
 腰の抽挿がいよいよ忙しなくなる。橘も橘で昂ぶっているのか、耳元に吹き付けられる吐息で耳朶が灼かれそうだ。最初は苦痛でしかなかった接続部も、今となっては苦痛よりも愉悦が勝り、腰全体が蕩けるようで堪らない。
 不意に昂ぶった前を握られ、弾みで後ろの肉を絞めると、耳元で橘が「ああ」と熱い溜息を洩らすのが聞こえた。
 繋がっているのだ。今。この瞬間。この人と――
「あああっ!」
 ユーリが橘の手の中で二度目の絶頂を迎えるのと、橘がユーリの中で果てるのはほぼ同時だった。ユーリが射精と同時に後ろを絞め、その弾みで橘も達してしまったらしい。
「ユーリ。お前は俺が、必ず……」
 疲れ果て、ベッドに突っ伏したユーリの耳元で橘が何かを囁く。が、その最後の言葉は、ほとんどユーリの耳には届かなかった。この時すでに、気力を使い果たしたユーリの意識が深い闇へと沈みはじめていたからだ。
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