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不穏な予感

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「だーかーらぁ、ハートマークはマジでやめろって何度も言ってるだろ!?」
 「いいじゃないですかハートマーク! 愛妻弁当みたいで!」
 「その〝愛妻弁当みたい〟ってのがイヤなんだよ! んなこともわかんねーのかバカ!」
 「でもっ、でもでも、僕は優人さんの恋人でしょ? だったら別にいいじゃないですか。何か問題でもあるんですか!?」
 「大アリなんだよ! 今時どこの新婚夫婦も相方にンな弁当持たせねぇぞ!」
 「じゃあどういう弁当ならいいんですか」
 「ふつーの作れふつーの! のり弁でも日の丸弁当でもいいから、とにかくふつーの弁当を作ってくれ!」
  ほとんど息継ぎなしで言い切ったあとで、ぜいぜいと肩で息をつく。どうも近頃は、家に帰るたびに同じ問答を繰り返している気がする。
 「あーもういい! 風呂っ! 風呂入るっ!」
 「あっ待ってください、すぐにお湯を足しますから」
  慌てて風呂場に駆け込もうとする朝比奈を、「いい」と優人は引き止める。
 「夏だし、多少ぬるくても構わねーよ」
 「でも……もし風邪を引いたら……夏風邪は長引くと言いますし」
 「ははっ、ほとんど毎晩、布団で俺を裸にひん剥いてくる奴が一体どの口で言うんだ」
 「そ、それはっ」
  朝比奈の白皙の顔が、さっと朱を差したように赤くなる。うう、と涙を滲ませながら呻くその顔は先生に叱られる子供のようで、優人は吹き出したいのを懸命に堪えた。
 「だ、だって……あのときの優人さん、すごく、可愛いから……つい」
  が、その言葉にはさすがの優人も笑えなくなって、
 「何が可愛いだよ、俺は男だぞ!」
  ごん、と床を踏みつけた。
 「いだいっ! んもう、暴力は反対ですよぉ」
 「うるせぇ。お、お前が変なこと言うから……」
  ネクタイと背広を脱ぎ捨て、ぽいと放る。が、途中でほどけて広がった背広は、朝比奈の顔をばさりと覆い――
  そのまま朝比奈は動かなくなってしまった。
 「おいっ」
  呼びつけると、はっとなった朝比奈はなぜか慌てて居住まいを整えて、
 「は、はい大丈夫ですっ。これ幸いに優人さんの匂いを堪能とか、そういう変態的で不届きな真似は全然してませんからっっ!」
  返事の代わりに、優人は今一度ごつんと強く床を踏みつけた。 
  とりあえず風呂に入り、一日仕事で疲れた身体を湯船に浮かべる。
  今日は久しぶりに契約が取れた。優人の商品説明に顧客も納得してくれ、かなりスムーズなかたちで契約に漕ぎつけられたと思う。
  宮野と別れてから、それまで妙な具合に入っていた肩の力がいい感じに取れてきたように思う。多分、他人に理解してもらわなければといった強迫観念が抜けて、押しつけがましくない程度にきちんと説明ができているのだろう。
  社会人になって三か月。仕事の本当の醍醐味を感じるにはまだまだ早いが、それでも、波に乗れてきたという感覚はあって、自分自身にもそれなりに自信がつきはじめている。
  怖いぐらいに何もかもが上手くいきすぎていた。
  強いて不満を挙げるとすれば、朝比奈がなかなか最後までしてくれないことだ。いや、優人のことは充たしてくれるし、充分すぎるほど優しくしてくれる。が、苦痛を与えることを恐れているのか、最後の――要は繋がるところまではなかなか踏み込んでくれない。
  とはいえ優人も優人で、奥を無遠慮にまさぐられる感覚はあまり好きではなく、挿入をせずに済むならその方が楽でいいのだけど、自分ばかり気持ちよくなるのは何だか不公平な気もする。が、たまにお返しのつもりで朝比奈のものを口淫するだけで、それこそ殿様に平伏する平民よろしく畏まる朝比奈に、そこまでの行為を求めるのはさすがに無理があるだろう。
  まぁ冷静に考えれば、部屋と抱き合うこと自体どうかしているのだが。
 「優人さん」
  水面からにゅっと頭が現れる。また一緒に入りに来たのか――
 「電話が鳴っているのですが」
 「は? 電話?」
  どうやら呼び出すつもりで現れたらしい。が、単に電話が鳴っているというだけなら、わざわざ風呂場に現れてまで優人を呼びには来ない。
 「はい。さっきから何度も……それで、表示には、母、と」
 「あいつが?」
  優人は思わず眉根を寄せる。――あいつが? 今頃何の用だ……?
  以前メールにあった祖父の傘寿の記念パーティーは、つい先月、実家で優人抜きで行われたはずだ。いつまでも予定を知らせる気配のない優人に痺れを切らし、とうとう自分たちだけで開いたらしい。
  その事後報告がメールで送られてきたのはつい先日のこと。楽しかったわよという皮肉交じりの文面がやけに目に障ったのを覚えている。
 「放っとけ。どうせ大した用事じゃない」
 「でも……もう五度目ですよ? 大した用じゃなければ、こんな時間に何度もかけてこないと思うんですけど……」
  言われてみれば。
  すでに時刻は午前零時を回っていて、常識的な人間なら電話は控える時間帯だ。そんな時間に、しかも五度も連続して掛けてくるのはおかしい。よしんば相手が、そういう遠慮の欠けた人間だと仮定しても。
 「……まさか」
  優人は言い知れない胸騒ぎを覚えた。
  そして、その胸騒ぎは不幸にも的中することになる。
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