幼馴染は最強設定!

路地裏乃猫

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もやつく胸

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「……くそっ」
  起き抜けにボクサーパンツの中を覗き、案の定な惨状に舌打ちを洩らす。
  そして、お決まりの自己嫌悪。
  例の夢を見た翌朝の、もはや日課と化した感のある俺のルーティーンだが、今日という今日は、あんなことがあった翌日ということもあって自己嫌悪のレベルは軽々とMAX水準を叩き出していた。
 「マジで何やってんだよ、俺……」
  この期に及んで、性懲りもなくああいう夢を見てしまう自分につくづく呆れるしかない。
  あれきり、結には一度も会っていない。
  保健室を見舞わずに帰った俺には、だからあの時、どうして結があんな場所にいたのか分からないままだった。
  一つ確かなのは、あの時、結が隣の資料室にいたのは偶然ではなかったことだ。
  そして翔兄は、結が隣の部屋にいることを最初から知っていた。ただの物音に、反射的に「結くん!」と反応したことがその何よりの証拠だ。
  くそっ……余計な世話を。
  ベッドを降り、とりあえずシャワーを浴びるべく一階に降りる。脱衣所で汗まみれの服を脱ぎ捨て、浴室で目覚まし代わりに熱いシャワーを浴びながら、ふと俺は、何を今更な疑問に思い至った。
  ひょっとして、あれは結が仕組んだことなのか?
  あの時、隣の部屋から漏れ聞こえた会話の様子では、その可能性も十分に考えられた。あるいは演武が噛み合わないことを気に病んだ挙句、その理由を探るべく俺の内心を測ろうと、翔兄に俺への聞き取りを頼んだのかもしれない。
  ただ――そうだとしても、あれほど打ちのめされる必要はないはずだ。
  俺の知る結は、年がら年中武道のことしか考えられない、いわゆる武道バカだ。
  朝起きたらまず朝稽古。昼は学校で勉強して、夕方にはまた道場で夕稽古。そんでもって夜は、過去の演武大会の映像や、ほかの流派の映像、揚句はほかの武道の映像を夜中までこってり鑑賞するのである。
  あいつの部屋には、それこそあらゆる流派、あらゆる武道の書籍やDVDが揃えられていて、中には聞いたこともないような、中央アジアの何とかスタンとかいう国に伝わる幻の武術を収めたDVDまで並んでいる。
  将来はアメリカに渡って、世界のあらゆる格闘技の看板をぶち破ってみたいと目を輝かせてのたまうバカである。その結が、たかが幼馴染に「世話が面倒」と言われたぐらいでヘコむとは思えない。
  大体、あいつにとって俺は、単なる演武の相手でしかないわけで。
  ――これ以上、遼に迷惑かけたくない。
 「ったく……何を今更なことを」
  シャワーを終えて制服に着替える。道着をひっ掴んで道場に向かうと、すでに道場には数人の門下生が顔を出していた。
  六時開始の朝練にわざわざ参加するような熱心な門下生は、そのほとんどが古くからの常連だ。職業も年齢もまちまちな大人たちに混じっての稽古は、技術的にはもちろん、人間的な刺激も多く、俺のような若造には貴重な社会勉強の場にもなっている。
  そんな大人たちの中に、しかし、本日指導に当たるはずの師範代の姿はなかった。
  代わりに道場の中ほどに居住まいを正して座っていたのは、古武士のような威厳に充ちた人物だった。
  頭に白いものが混じりはじめてはいるものの、その顔は、五十代という実年齢を考えるなら随分と若々しく、せいぜい四十代そこいらにしか見えない。ただ、尖った顎に細い鼻、切れ長の眉目に一文字の唇と、いちいちナイフで削り出したかのように峻厳な顔立ちは、長らく一つの道で研鑽を積んできた者だけが持つ豊かな威厳を湛えている。
  現在の柳沢流師範にして柳沢流二代目当主。言うまでもなく結の親父さんだが、涼やかな目元以外は息子とは似ても似つかない。体格も、結のそれが人並みに比べて小柄なのに対し、二代目はどちらかと言えば長身で、体格もかなり骨太な印象がある。
  にもかかわらず、全体的な印象があくまでも柔和なのは、いかにも合気道をたしなむ人間らしい。
 「あれ? 今日は結……師範代の日じゃありませんでしたっけ」
  道場に上がり、近くで着替えに勤しむ顔馴染みの門下生に声をかける。普段は市役所に勤め、朝稽古には出勤前の貴重な時間を使って参加しているこの中年男性は、昔から結を子供のように可愛がっており、その成長を何よりの楽しみにしている。
  そんなわけもあって、結が師範代に立つ日には必ず稽古に参加している彼だが、その彼が心配顔で言うには、
 「ああ、何でも足を捻挫したとかでね、今日は大事を取って休むんだそうだよ」
 「休む? あいつが……ですか?」
  そんな馬鹿な――
  多少の熱や風邪なら、当たり前のように稽古に顔を出す(そして当然のように病気を悪化させて寝込む)結が、単なる捻挫で稽古を、まして自分が指導に当たる稽古を休むなど考えられない。
  が、考えてみれば、あれきり結には会っていないわけで、当然だが怪我の程度もはっきりとは分からない。
  もちろん、翔兄に訊けば気前よく答えてくれるだろう。が、あんな物言いをした次の日にそれを訊くのも……
 「やぁ遼くん」
  聞き覚えのある声に振り返る。
  案の定、道場の玄関先に立っていたのは翔兄だった。
 「しょ、翔兄……ってか、何で?」
  おかしい。平日は、日中眠くなるからといって朝練にほとんど顔を出さないのに。
 「何でって、門下生なんだし、別に朝稽古に出ちゃいけないなんて規則はないだろ?」
  確かに、この道場では門下生なら週に何度でも、自由に稽古に参加することができる。だから、翔兄が朝稽古に顔を出すのも何ら不自然なことではないのだが……
 「そ、そりゃ……そうっすけど」
  あんなことがあった翌日でもあり、俺としてはどうも釈然としない。
  確かに、昨日のことは俺が悪かった。たとえ隣に結が隠れていることを知らなかったとはいえ、本人のいない場所で陰口を叩くなんて最低の人間のすることだ。
  それでも、どうしてあんな場所に俺を呼びつけ、揚句、意地悪な質問を投げかけてきたのかと恨めしく感じてしまうことも事実で……
 「いろいろと訊きたいことがあるって顔だね」
  唐突に図星を突かれ、さすがに返す言葉に困る。その翔兄は、だが、相変わらず端正な唇をニマニマと緩めるばかりで、その真意はどうも掴みづらい。
 「べ、別に、ないっすよ……何も」
  それとなく目を逸らすと、俺はさっさと着替えに移った。
  稽古は、神棚への礼拝とともに始まる。
  稽古は約一時間。まずは準備運動で入念に身体をほぐし、続いて、体捌きと基礎的な技の稽古へと移る。
  その後の流れは、参加者の顔ぶれによって指導者が柔軟に組み立てていく。参加者の中に初心者が多ければそのまま基礎連中に終始し、逆に高段者や熟練者が多い場合、難易度の高い技を集中的に鍛錬するメニューが組まれる。日によっては、木製の短剣を使った実用的な技を教えることもある。
  技の稽古は、基本的に二人一組で行われる。
  まず、指導者が神棚の前で門下生の一人を相手に技の実演を行なう。その間、ほかの門下生は横一列に正座しこれを視る。実演が終わると、門下生たちは近くの人間とペアを組み、たったいま実演された技を互いに掛け合う。
  このペアの組み方だが、一度組んだ相手とは立て続けに組まない、なるべく組んだことのない相手と組むというルールが、この道場では暗黙のうちに徹底されている。できるだけ多くの人間と研鑽し合い、互いに刺激を与えてほしいという道場主の方針によるものだが、今日に限っては、少なくとも俺にとっては逆効果だった。
  翔兄と組むと、考えたくないことばかりがどんどん頭に浮かんでしまう。
  どうしてあんな場所に俺を呼んだのか。
  あれは、誰の仕込みだったのか。
  あれから結は、どうなっているのか……
 「結くんのことを考えてるのかい?」
 「は?」
  気付いた時には、俺の背中は固い琉球畳に叩きつけられていた。
 「ふふっ。さすが、毎年結くんの受けを担当するだけあって受け身は一流だ」
  見上げると、翔兄がニヤニヤと揶揄うように俺を見下ろしている。どうやら、翔兄の仕掛けた腰投げをまともに喰らってしまったらしい。
 「でも、稽古中に気を抜いちゃいけないよ」
 「わ……ぁってますよ、っ!」
  起き上がり、あらためて翔兄と向かい合う。さっきは翔兄が技をかけたから、今度は俺がかける番だ。
  突っ込んできた相手の懐に腰を落としつつ滑り込み、さらに腰のひねりを使って相手を投げ飛ばす――この腰投げという技は、しかし、よほど上手く相手と呼吸を合わせないかぎり成功しない技で、稽古で模擬的にやる場合はともかく、実戦の場では、よほどの高段者でもこれを用いるのは難しい。
  ところが、こんな高難易度の技を実戦で、しかも瞬時に使えてしまう天才がこの道場にはいる――結だ。
  以前、駅のホームで結が痴漢を投げ飛ばすさいに使ったのもこの技で、改めて俺は、奴に与えられた才能に圧倒され、そして嫉妬した。
  ポテンシャルで言えば、結のそれは現師範の父を軽く超えている。
  これは俺個人の見立てではなく、二代目ご自身も常日頃そうおっしゃっていることで、だからこそ、十六歳にして早くも師範代などという責任ある役目を任せているのだろう。
  その結が、まさか、あんな言葉で傷つくわけが……
 「結くんのことは心配いらない」
 「は?」
 「足の方は、ただの捻挫だからね。ただ――いや、何でもない。これ以上、彼のことであれこれ患うのは君だって面倒だろう?」
  そう言って、にやりと笑う翔兄の笑みをブッとばしてやりたいと思ったのは内緒だ。
  稽古はいつもどおり午前七時に終わった。
  門下生の多くは、稽古が終わるとともに荷物をまとめて道場を後にする。俺のように気楽な学生は別として、社会人の場合、出勤前に一度家に戻ってシャワーを浴びる必要があるからだ。
  ところが翔兄は、稽古を終えても荷物をまとめるどころか着替える様子もなく、師範に技の質問を浴びせている。
  ひょっとして今日は休みなのか? いや、そんなはずはない……
  そうして二十分ほどの居残り稽古を終えると、ようやく翔兄は荷物を纏めはじめた。ところが妙なことに、着替えずに道着のまま道場を出ようとする。
 「あれ? そのまま出勤するんすか?」
 「いや。母屋の方でシャワーを貸してもらえることになっていてね」
 「……は?」
 「ああ言い忘れていたね。今日は、このまま結くんを車に乗せて出勤する予定なんだよ。何せ、あの足じゃ自転車通学は辛いだろうからね」
 「……」
  その後、着替えを終えて道場を出た俺は、庭の隅の駐車場に翔兄の愛車であるオレンジのミニを見つけた。この車が置かれているということは、どうやら翔兄はまだ結の家を出ていないらしい。
  ――このまま結くんを車に乗せて出勤する予定なんだよ。
  ――これ以上、彼のことであれこれ患うのは君だって面倒だろう?
 「そりゃ……そうだけどさ……」
  その時、不意に母屋の玄関から声がして、見ると今まさに引き戸が開くところだった。
  なぜか気まずくなって、慌てて近くの植え込みに身を隠す。そのまま、植え込みから顔を覗かせつつ玄関の方を伺う……と。
  最初に現われたのは、ほっそりした体躯の小柄な女性だ。
  全体的に線の細い身体つきに、人形のように小さな顔。実年齢はすでに三十五を超えているはずなのに、老けにくい顔立ちのせいか、高校生の息子がいるとは思えないほど若々しく、見た目だけで言えば二十代でも充分に通るだろう。
  はっきり言って相当の美人だと思う。人形のように整った目鼻立ちは、上品でありながら愛らしく、好みで言えば、まぁどストライクの部類に入る。
  ちなみに――
  息子の結とは瓜二つと言っていいほどよく似ていて、以前見せてもらった若い頃のおばさんの写真は、それこそ今の結と見分けがつかないほどよく似ていた。
  そのおばさんが、玄関の奥を振り返りながら軽く頭を下げる。
 「じゃあ亥口さん、結のことお願いしますね」
  亥口? ……翔兄か?
 「はい。お任せください。ほら結くん、行こうか」
 「……はい」
  翔兄の返事に続いて結の声が聞こえてくる。何となく声に張りがないのは、稽古に出られず調子を狂わせているのだろう。まぁ、三度の飯よりも稽古が好きな奴だからな……
  ややあって、戸口から、スーツ姿の翔兄とともに結が現れた。
  その予想外の痛々しい姿に俺は面食らう。結の右足は湿布と包帯でぐるぐる巻きにされ、しかも、自力では歩けないのか松葉杖さえ突いている。その松葉杖さえうまく使いこなせないのか、どうも歩き方がぎこちなく、見ているこちらが冷や冷やしてしまう。
  何やってんだよバカ。
  そんな使い方じゃすぐにコケちまうだろ?
  案の定、結はダックスフンドでも跨げそうな小さな段差に躓くと、杖ごと前のめりに倒れ込んだ。
  危ない―――
  反射的に植え込みから飛び出しかけた俺は、だが次の瞬間、思いがけない展開に足を止めた。翔兄の腕が、あわや石畳に激突しかけた結の身体を器用に掬い上げたのだ。
  細い腰にぴたり巻きつく、翔兄の長くしなやかな腕……
 「大丈夫?」
 「は、はい……」
  そのまま結は、翔兄の腕に支えられつつオレンジのミニに乗り込んだ。
 「あの、ありがとうございます……」
 「なに。これぐらいお安い御用だよ」
  そして翔兄は、座席に収まる結の頭をくしゃっと撫でると、車を回り込み、運転席の側から車に乗り込んだ。
  そして二人は、俺の存在に気づくことなくそのまま車で走り去っていった。
 
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