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ブラブラ歩くアパート迷宮
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90年代にイギリスのロックバンドで「blur」って奴らがいて、僕は最近車に乗っている時にカーステで頻繁にそいつらの音楽を聴いてるんだけど、ほんとどーでもいいような事ばっか歌っててチャラチャラしてキャッチーで本当に最高だ。
僕のお気に入りは3枚目のアルバム「park life」。
まずもってCDジャケットのデザインからして最高で、疾走する犬の写真、イギリスらしいドッグレースの様子を写したやつがドカンと正面を飾ってて、裏表紙はドッグレース場にいるメンバーの写真、セットリストが出走表のデザインになっていて非常にポップでキュートだ。
僕は車が赤信号で止まるたびにそのジャケットをニヤニヤしながら眺めたり撫でたりする。それくらい愛おしいんだ。
そんな「park life」に収められている曲はどれも最高で、全体的にポップ。でも結構短いパンクみたいな曲も多いからコロコロ曲が変わってバンバン進む感じが僕は好きだ。
一番お気に入りの曲は「bank holiday」ってやつ。
短くてパンキッシュで激しくて、歌詞みると休日のイギリスの人々の様子を韻を踏みながらジャカジャカ歌ってて最高にアガるのだ。
「bankholiday」を聴いていると、僕はずっとこの瞬間が続けばいいのになと思ってしまう。
ジャカジャカ、ジャカジャカ。ボーカルのデーモンの歌。どうでもいい歌詞。脳裏に浮かぶ浮かれた休日のイギリス人たち。
イギリスなんて、行った事もないのに。
でも現実はそうはならない。「bank holiday」は1分半くらいの短い歌だし、アルバム「park life」も僕が目的の場所まで車を運転して、到着するまでにはいつの間にか終わってしまっている。
楽しい時間はずっとは続かない。
「blur」がブリットポップなんて呼ばれてチャラチャラやってたのも4枚目のアルバムまでだった。
当時、ライバルみたいに言われてた「oasis」との対立に疲れちゃった「blur」は5枚目のアルバムから曲調をガラリと変えてしまう。
オルタナっぽいサウンドの曲が多くなって、まぁそれはそれで好きなんだけど、僕はバンドが音楽性をガラッと方向転換しちゃうのってなんだか気持ち悪く感じちゃうのだ。別に珍しいことでもなんでもないんだけど。
そしてまぁ僕の人生にもそういう転換期みたいなものが来る。唐突に。
僕の街にある日突然一軒のアパートが生える。
生えるっていうのは一種の比喩表現だが、そのアパートは本当に「生える」としか形容できないほど唐突に、僕の暮らす街の住宅街の一角に突然建てられていた。
最初、僕がこのアパートに気づいた時には「こんな所にアパートなんて建っていたっけ?」という細やかな疑問が脳裏をよぎったものの、特に気にする事なく退屈な毎日をブラブラ過ごしていた。
けれど、よく考えてみれば僕はそのアパートが佇む通りの道を毎日通勤で使用していて(だからこそそのアパートの存在に気づいたわけだが)アパートが工事を経て建設されたのだとしたら目撃していないはずがないのだ。
周りの人間にそのアパートがいつ建てられていたのかを聞いても満足がいく回答は得られず、不思議に思った僕は直接アパートを調べる事にしたのだった。
気づくと、僕はアパートの中に侵入していて、螺旋に続く階段を永遠に登り続けていた。
僕はいつからこの階段を登っているのだろうか?なぜ僕はこの階段をあてもなく歩き続けているのだろうか?僕の脳裏に幾つかの疑問が浮かぶが、どうやってアパートの内部に入ったのかすら、思い出すことができなかった。
取り敢えず、歩を進めることにして僕は階段を登り続けた。
階段は学校の内部にある階段のような作りになっていた。廊下に面したフロアから数段登ると踊り場があり、そこで折り返すようになっていて、また数段登ると再び廊下に面するフロアに出るような構造だ。
歩き続けた疲れからか、僕は自然に頭が下がっていき、自分の足元ばかりを見ていた。
床は、病院で見るようなテカテカした素材で(リノリウムだっけ?)壁や天井と同じクリーム色で統一されている。
僕の履いている、「ナイキエアマックスサンダー」のビビットな黄色のシルエットが僕の足元でぴょこぴょこ見え隠れしていて可愛らしい。
アパート全体は古い建物特有の、湿ったような埃っぽい空気で満たされている。
換気がなされていないのか、じんわりと暖かい空気が自分の周りをまとわりついてくるみたいで気持ち悪かった。
どれほど歩き続けただろうか?僕は無限に続く階段に辟易して、一旦廊下に面するフロアまで階段を登り終えるとそこを調べることにした。
廊下は20mほどの長さがあり、天井に等間隔で設置された細長い蛍光灯の光でぼんやりと照らされていた。
廊下の両端には、はめ殺しの窓がそれぞれ設置されていて側面の壁には居住のための部屋のドアが交互に合計で15扉並んでいる。
それぞれのドアの正面には、部屋番号を表すナンバープレートが設置されてあった。
そこで、僕はその情報から自分が何階にいるのかを判断しようとした。
そして、僕がこのアパートの奇妙な仕組みに気がついたのは、まさにその時だったのだ。
結論から言うと、僕はこの不思議なアパートの3階と4階の狭間に閉じ込められてしまったらしい。
僕が最初に調べたフロアの部屋番号は301~315までだった。そしてそこから階段を1セット登り終えたフロアの部屋番号は401~415までとなっていた。
つまり僕はこのアパートの3階から4階に移動したという事になる。
ここまでであれば、何ら奇妙なことはないのだが(ずっと階段を登り続けたにも関わらず階数が低すぎるという大きな疑問点はあるけれど)
問題は、4階からまた階段を1セット登って調べたフロアの部屋番号が301~315に戻っていた事だった。
僕は最初訳も分からず、またその3階(?)から1セット階段を駆け上り部屋番号を調べたところ、そこはまたしても401~415までのドアが並んでいる4階(?)であったのだ。
この奇妙な現象に気がついてから、何度も階段を駆け上り、また時には駆け降りる事もして部屋番号を調べたが、どれだけ行こうとも3階(301~315までの部屋があるフロア)と4階(401~415までの部屋があるフロア)を交互に訪れる結果となるだけだった。
これだけであれば画一的なフロアのデザインに惑わされているだけで 、3階の上階が4階、その上階が3’階、その上階が4'階、その上階が3"階…
というように「交互に部屋番号が繰り返されているだけであり、実際には別々の階数のフロアである」という可能性もあった。
そこで僕は3階と4階に僕の「ナイキエアマックスサンダー」を片方ずつ置いて、階段を登ったり降りたりしてみる事にした。
結果として、どれだけ階段を登ろうと、またどれだけ階段を降ろうとも僕の「ナイキエアマックスサンダー」が片方ずつフロアに置かれている状況は変化しなかったのだ。
つまり、僕はこのアパートの3階と4階を永遠にループしているという事だった。
にわかには信じがたい話だが、それであれば僕が長時間階段を登り続ける事ができた現象の説明がつく。
まったくやれやれって感じのシチュエーションだ。せめて暇つぶしになるものでも、持ってくれば良かったか。
さて僕が不思議なアパートに閉じ込められてから体感で約1時間ほど経った頃、僕はこのアパートに僕以外の人間が閉じ込められている事に気がついた。
アパートの脱出方法を探る為、フロアの隅から隅まで(といっても廊下は10数メートルしかなく、部屋にも鍵がかかっているので入れなかったが)探索していたところ、ふと4階の廊下の隅に彼女は立っていた。
白いワンピースに黒のショートヘアーの彼女は名前を名乗る代わりに自らを「4階の神」と名乗った。
「4階の神ってのはどういう事なんだい?」
僕が聞くと、彼女は貫くような視線をこちらに飛ばしながら、鋭く答えた。
「私はこの4階であればなんでもできるってことよ。」
「なんでも?じゃあ僕をここから出してよ。明日も仕事だ。」
「それは無理ね。」彼女は首を小さく横に振ると、「だって、外は4階じゃないもの。」と答えた。
僕にはその言葉の意味がよく分からなかった。その様子に気づいた彼女はすぐに補足してくれた。
「きっとね、このアパートの4階には神様が不在なのよ。だから代理を立てたんだわ。」
「代理?それが君ってこと?」
「そう。だからこそ、私は4階にいる間であればなんでもする事ができるの。神様の特権ね。でも、外に出ることはできない。そこでは私は神ではないもの、自由に振る舞うことは出来ないんだわ。」
彼女はそういうと、廊下の端に設置された窓から外を眺めた。赤く染まっていた空の色に、夜の暗闇が混ざりゆくような時間だった。
その夕暮れを認識した瞬間から、僕は自分の空腹を感じ出した。定時的に食事をする人間らしい反応だった。
「君の言う事が本当なら、僕はお腹が空いたから何か食べたいんだけどそういうの用意できたりしないかい?例えば…カレーとかさ。」
「カレー?」
4階の神様はカレーを知らないらしかった。
神様がカレーを知らないなんて、所詮は代理という事か?
しかし、その直後に彼女が見せた奇跡は僕を大いに驚かせた。
彼女が空中に右手を翳すと、まるで生えてきたみたいにパンが出現し、いつの間にか左手には赤ワインの入ったグラス存在していたのだ。僕はその現象がまるで信じられなかったが、何かトリックがあるようには見えなかった。
人間を閉じ込める無限ループのアパートがあるのだ。奇跡を起こす「4階の神」くらいいてもおかしくないという事だろうか?
「どうぞ。」
「ありがとう。」
パンとワインを受け取った僕は彼女にお礼を言うと、パンを食べワインを飲んだ。
パンは所謂黒パンというやつで、パンを心の底から憎んでいる職人が作ったのかと疑うくらいに固く、ワインはコンビニやファミレスで売っているレベルだったが、空腹だった僕はがっつくように食べてしまった。
得体の知らない女の子から渡された、得体の知らない食物を食べるなんてどうかしているとしか思えないし、実際その頃には僕はとっくにどうにかしてしまっていたのだと思う。
「だったらさ、君の力で…そうだなバットでも出してくれないか?」
僕と彼女は4階の廊下をブラブラと往復しながら話す。狭いアパートメントの廊下でただじっと会話するのは窮屈に思えたからだ。僕は少し身体を動かしたかった。
「バット…?」
「野球のさ。まぁバットを知らないなら野球も知らないか。じゃあ長くて硬いものなら何でもいいよ。木の棒とか金属の棒とか。」
「何に使うの?」
「決まってるじゃないか。あの窓を叩き壊すんだよ。」
僕はまだこのアパートからの脱出を諦めていなかった。幸い、物資は無限だ。得ることのできる種類には限りがあるが。
「それは無理。」
彼女は首を振る。
「ここの窓は壊れないの。ドアもね。そういうふうに出来ているみたいよ。」
彼女の言葉がうまく飲み込めなかった僕は、彼女に金属の棒を出してもらって(それは、所謂火かき棒と呼ばれるものだった。彼女は野球とカレーを知らないのに暖炉は使ったことのあるようだ。)窓や、ドア、ドアノブを何度も叩いてみたが、狭いアパートに酷い音が響くばかりで破壊する事は出来なかった。
僕はこの事実に少し驚いたが、すぐに納得した。
この場所に理屈は存在しないのだ。
永遠にループするアパートのように、神を名乗る少女の不思議な力のように、この場所の窓やドアは破壊できない。
そういう「ルール」がこの場所にはあるのだろう。
全くやれやれだ。
「言ったでしょ?」彼女は呆れたように僕を見つめ、水の入ったグラスを差し出していた。
「そうだね。」僕は彼女からグラスを受け取り、一気に飲み干した。
神様の忠告は聞いておくべきだった。というわけだ。
「これ、3階の窓も同じなのかな?」僕は彼女に聞く。
「さぁ、試した事ないわ。でも、それは無理よ。3階では私は神様ではないもの。」
「それはつまり、3階では不思議な力は使えないって事かい?」
「そうね、そういう『ルール』があるの。3階ではモノは創れないし、4階で創ったモノを持ち込むことも出来ないの。消えちゃうから。」
「全く、このアパートは『ルール』だらけだな。」
まるで社会のように、なんていうアイロニーは臭すぎるか?
「別に脱出なんてしなくてもいいんじゃない?」
途方に暮れた僕に、彼女は言った。
「ここは狭いけれど良いところよ。窓から見える空は綺麗だし、私の力があれば生活には困らない。貴方は明日も仕事があると言ったけれど、ここにいれば一生働かなくたっていいのよ。」
「確かにね。」突然の彼女の提案はとても魅力的だった。
ここは少し退屈だ、彼女の出す食事のレパートリーには不安がある。しかし、労働からの解放は人生の命題だった。
このアパートは、まさに理想郷だ。
彼女と僕、2人だけの閉じられた完璧な世界。
降って湧いたような選択肢に、僕の心は揺らいでいた。
「君はずっとここに1人だったの?」僕は聞く。
「そうね、ここに来てからはずっと」
「来てからは?つまり来る前があったの?」
「そう。ここに来るまでは私は普通の人間だったわ。もうどれくらい前かも分からない…1週間前と言われればそのようにも感じるし、何百年前と言われても納得できるほど昔に、私はここに来たの。」
彼女は遠い遠い昔を思い出すかのように空中をじっと見つめながら答えた。
「ここに来る前の、普通の女の子だった頃はどんなことをしていたんだい?」
「さぁ、忘れちゃった。でも、お母さんと一緒に暮らしていたのは覚えているの。優しいお母さんだったわ、顔は…もうほとんど思い出せないけど。」そう答えると、彼女は空中から一つの髪飾りを取り出した。それは手のひらくらいの大きさの銀色で細かい薔薇のデザインが入ったものだった。
「これはお母さんの形見なの。本物は、すっかり前に壊れちゃったんだけど。4階でなら何度でも作り直せるわ。」
「ふぅん…だから君はここから出ようとしないわけ?お母さんの髪飾りを、つまりはお母さんとの思い出をずっと記憶していたいから…。」
「そういうメロゥな言い方をされると恥ずかしいわね。」彼女はそう言うと、少し照れたように笑った。
僕はその時、「神様」の人間的な部分を初めて垣間見た気がした。
「ヘアピンって分かるかい?針金が二つ折りになったような、髪を留めるものだよ。君の髪飾りを見て思いついたんだ。2つもあれば十分なんだけど。」
僕が彼女にそう言うと、彼女は不思議な顔をしながらも空中から小さなヘアピンを2つ取り出してくれた。
「それ、何に使うの?」
「ここから出るのさ。」僕はそのヘアピンをまっすぐに伸ばしながら言う。
「出る?貴方まだそんな事言ってるの?ここで暮らせば良いじゃない。それにヘアピンごときで何が出来るって…。」
彼女は僕の顔を覗き込むようにしてそう言うが、僕はそんな彼女の顔をできるだけ見ないようにしながら2つのヘアピンを解きにかかる。
髪を留めるもの。「神」を留めるもの。
僕はそれを解く。
そして、このアパートから出るのだ。
僕は真っ直ぐにしたヘアピンを加工しながら、401号室のドアに向かって進んだ。
この4階の窓やドアは破壊する事ができない。
それがここでのルールだ。
では、破壊しなければ?
僕は加工した2つのヘアピンをノブの鍵穴に突っ込むと、ピックの役割をしたヘアピンでピンを押し上げ、レバーを回した。
カチャリと小さな音が4階の廊下に響く。
「嘘でしょ?」彼女は信じられないというような顔でこっちを見てくる。
僕もこう上手くいくとは思っていなかったが、古いアパートで助かった。僕には不思議な力なんて持ち合わせていないが、古いアパートの部屋の鍵くらい開けれるのだ。
でも、これで終わりではない。部屋のドアが開いたからといって、脱出できるわけではないのだ。
しかし、何か役に立つものがあるかもしれない。
401になければ、402に。402になければ403に。
僕は脱出の為の手掛かりを得るまで、全てのドアを開放するつもりだ。
僕がノブを捻ると、401のドアがギギイと音を立てて開く。
そこにあるはずの居住のための部屋は無く、4階と同じ廊下の景色が広がっていた。
「何よ。ここもループしているだけじゃない。」後ろから覗く彼女の、呆れたような声が僕に降ってきた。
僕は落胆しかけたが、すぐに異変に気づく。
正面のドアにあるルームナンバーを示すプレートには「302」と数字がふってあるからだ。
僕はドアを通り、自分が出てきた部屋のナンバープレートを見た。すると、そこには「301」と数字が刻印されていた。
そう。「401」のドアを通った先は「301」号室の入り口、つまりはこのアパートの3階だったのだ。
「これで脱出の為の準備は整った。」
僕は呟くように言う。
「え?」彼女は困惑したように僕の顔を覗く。「どうやって?」
「またさっきの火かき棒を出してよ。」
「どうして?」
「君は神様なのに、疑問ばっかりだな。簡単な話だろ。3階の窓を破るのさ。」
「それは…無理よ。だって3階では私の力は使えないって…。」
「3階はね。でも現在、このドアを通して3階と4階は繋がっている、つまり3階は…4階でもあるって事だ。」
そして4階では彼女は「神様」だ。
「そんな屁理屈…。無理よ。」
「やってみないと分からないじゃないか。」
「無理よ!」彼女の口調が強くなる。「それに3階に火かき棒を持ち込めたからって3階の窓が破壊できるかどうかなんて分からないでしょ?」
「まぁね。でも、それもやってみないと分からない。そしてもし窓が割れたら、僕はこのアパートを脱出する。それだけだ。」
「そんなの…無茶苦茶じゃない…無理に決まってる…。」
彼女はぶつぶつと僕を否定する言葉を呟いている。だけど僕には何故か確信があった。
3階は今4階になっているし、3階の窓は4階と違ってぶっ壊す事ができるってそんな確信だ。
「君はどうする?」取り乱している彼女に僕は言う。「このアパートを出るかい?」
「…いいえ。私はここにいる。4階から出てしまったら私は『神様』では無くなってしまうもの。」
彼女は震える声で言った。
「それはお母さんの形見の為?それとも、このユートピアから出るのが怖いのかい?」
「分からない…でも、これだけははっきりと言えるわ。私は『変化』が怖いの。」そう答える彼女目の端には涙が溜まっていたが、その眼差しは真っ直ぐだった。
「ここを脱出すれば、私は変わってしまう。神様では無くなるし、環境もまた変わる。それが怖いのよ。」
「変化は悪い事じゃないよ。人生には必ず転機が訪れるものだ。」僕はそう言うと、彼女に手を差し出した。
「無理よ。」彼女は僕の手に空中から取り出した火かき棒を渡すと「さようなら。」と言った。
僕はその火かき棒を無言で受け取り、401のドアを通る。301のドアから出て、3階の廊下に出ても火かき棒は消えていない。
僕は真っ直ぐに廊下の端へと歩いていくと窓に火かき棒を叩きつける。
窓は大きな音と共に砕け散った。
僕は窓枠に足を掛け、外を覗く。
アパートの外はもう夜だ。街灯の灯りはなく、窓の外は何も見渡す事が出来ない。
でも、僕は飛ぶ。
踏み出す先がどうなっているかなんて分からなくても、飛ばなくてはならない時がある。
人生と同じだ。なんて言い回しはやっぱり臭すぎるかもしれないが。
人生には必ず転機が訪れる。
blurはブリットポップと呼ばれる、イギリスらしいサウンドをある日突然辞めた。
ボーカルのデーモン曰く「ブリットポップは死んだ。」らしい。
僕はアパートから飛び降りて、気を失っていたところを発見された。
打ちどころが悪かったのか、僕の足は動かなくなってしまう。脊髄がどうたらこうたら、まぁそんな感じだ。
だから僕は以前のように働けなくなってしまう。以前のように、車に乗ってお気に入りのCDを聴くことも出来なくなってしまう。
僕はベッドの上でアルバムをチョイスする。
blur5枚目のアルバム「blur」。
彼らがブリットポップを辞めて、暗く激しいオルタナ的な曲調にスタイルを変えた後にリリースされた始めてのアルバムだ。
「blur」を再生すると、1曲目の「Beetlebum」が流れだす。サイケな曲調に、blurの今までのポップな印象はどこにも無い。
彼らは何故このアルバムに「blur」なんてタイトルをつけたんだろう?
自分たちのスタイルが大きく変わったこのアルバムに、バンド自身と同じタイトルを付けるなんて…。
でも、今の僕なら少し分かる気がする。
「まぁこれはこれで、いいよな。」
blurはブリットポップを辞めてしまったけど、僕の足は動かなくなってしまったけど、これはこれでいいのだ。
変化は必ず起こる。それは恐ろしくて嫌なモノで、必ずしも良い変化とは限らない。
でも、変化した後も自分は自分だし、僕らはそれを受け入れて生きていかないとダメなのだ。
あの「4階の神様」にも、いつか変化が起こる日が必ずくると思う。
「神様」じゃない彼女は、物知らずのただの女の子になってしまうだろう。アパートから飛び出した時に大きな怪我もしてしまうかもしれない。
それでも彼女は彼女だし、僕はそんな彼女とまた会える日を待っている。
それまでblurの曲を聴きながら、僕はブラブラ時間を潰そうと思う。
僕のお気に入りは3枚目のアルバム「park life」。
まずもってCDジャケットのデザインからして最高で、疾走する犬の写真、イギリスらしいドッグレースの様子を写したやつがドカンと正面を飾ってて、裏表紙はドッグレース場にいるメンバーの写真、セットリストが出走表のデザインになっていて非常にポップでキュートだ。
僕は車が赤信号で止まるたびにそのジャケットをニヤニヤしながら眺めたり撫でたりする。それくらい愛おしいんだ。
そんな「park life」に収められている曲はどれも最高で、全体的にポップ。でも結構短いパンクみたいな曲も多いからコロコロ曲が変わってバンバン進む感じが僕は好きだ。
一番お気に入りの曲は「bank holiday」ってやつ。
短くてパンキッシュで激しくて、歌詞みると休日のイギリスの人々の様子を韻を踏みながらジャカジャカ歌ってて最高にアガるのだ。
「bankholiday」を聴いていると、僕はずっとこの瞬間が続けばいいのになと思ってしまう。
ジャカジャカ、ジャカジャカ。ボーカルのデーモンの歌。どうでもいい歌詞。脳裏に浮かぶ浮かれた休日のイギリス人たち。
イギリスなんて、行った事もないのに。
でも現実はそうはならない。「bank holiday」は1分半くらいの短い歌だし、アルバム「park life」も僕が目的の場所まで車を運転して、到着するまでにはいつの間にか終わってしまっている。
楽しい時間はずっとは続かない。
「blur」がブリットポップなんて呼ばれてチャラチャラやってたのも4枚目のアルバムまでだった。
当時、ライバルみたいに言われてた「oasis」との対立に疲れちゃった「blur」は5枚目のアルバムから曲調をガラリと変えてしまう。
オルタナっぽいサウンドの曲が多くなって、まぁそれはそれで好きなんだけど、僕はバンドが音楽性をガラッと方向転換しちゃうのってなんだか気持ち悪く感じちゃうのだ。別に珍しいことでもなんでもないんだけど。
そしてまぁ僕の人生にもそういう転換期みたいなものが来る。唐突に。
僕の街にある日突然一軒のアパートが生える。
生えるっていうのは一種の比喩表現だが、そのアパートは本当に「生える」としか形容できないほど唐突に、僕の暮らす街の住宅街の一角に突然建てられていた。
最初、僕がこのアパートに気づいた時には「こんな所にアパートなんて建っていたっけ?」という細やかな疑問が脳裏をよぎったものの、特に気にする事なく退屈な毎日をブラブラ過ごしていた。
けれど、よく考えてみれば僕はそのアパートが佇む通りの道を毎日通勤で使用していて(だからこそそのアパートの存在に気づいたわけだが)アパートが工事を経て建設されたのだとしたら目撃していないはずがないのだ。
周りの人間にそのアパートがいつ建てられていたのかを聞いても満足がいく回答は得られず、不思議に思った僕は直接アパートを調べる事にしたのだった。
気づくと、僕はアパートの中に侵入していて、螺旋に続く階段を永遠に登り続けていた。
僕はいつからこの階段を登っているのだろうか?なぜ僕はこの階段をあてもなく歩き続けているのだろうか?僕の脳裏に幾つかの疑問が浮かぶが、どうやってアパートの内部に入ったのかすら、思い出すことができなかった。
取り敢えず、歩を進めることにして僕は階段を登り続けた。
階段は学校の内部にある階段のような作りになっていた。廊下に面したフロアから数段登ると踊り場があり、そこで折り返すようになっていて、また数段登ると再び廊下に面するフロアに出るような構造だ。
歩き続けた疲れからか、僕は自然に頭が下がっていき、自分の足元ばかりを見ていた。
床は、病院で見るようなテカテカした素材で(リノリウムだっけ?)壁や天井と同じクリーム色で統一されている。
僕の履いている、「ナイキエアマックスサンダー」のビビットな黄色のシルエットが僕の足元でぴょこぴょこ見え隠れしていて可愛らしい。
アパート全体は古い建物特有の、湿ったような埃っぽい空気で満たされている。
換気がなされていないのか、じんわりと暖かい空気が自分の周りをまとわりついてくるみたいで気持ち悪かった。
どれほど歩き続けただろうか?僕は無限に続く階段に辟易して、一旦廊下に面するフロアまで階段を登り終えるとそこを調べることにした。
廊下は20mほどの長さがあり、天井に等間隔で設置された細長い蛍光灯の光でぼんやりと照らされていた。
廊下の両端には、はめ殺しの窓がそれぞれ設置されていて側面の壁には居住のための部屋のドアが交互に合計で15扉並んでいる。
それぞれのドアの正面には、部屋番号を表すナンバープレートが設置されてあった。
そこで、僕はその情報から自分が何階にいるのかを判断しようとした。
そして、僕がこのアパートの奇妙な仕組みに気がついたのは、まさにその時だったのだ。
結論から言うと、僕はこの不思議なアパートの3階と4階の狭間に閉じ込められてしまったらしい。
僕が最初に調べたフロアの部屋番号は301~315までだった。そしてそこから階段を1セット登り終えたフロアの部屋番号は401~415までとなっていた。
つまり僕はこのアパートの3階から4階に移動したという事になる。
ここまでであれば、何ら奇妙なことはないのだが(ずっと階段を登り続けたにも関わらず階数が低すぎるという大きな疑問点はあるけれど)
問題は、4階からまた階段を1セット登って調べたフロアの部屋番号が301~315に戻っていた事だった。
僕は最初訳も分からず、またその3階(?)から1セット階段を駆け上り部屋番号を調べたところ、そこはまたしても401~415までのドアが並んでいる4階(?)であったのだ。
この奇妙な現象に気がついてから、何度も階段を駆け上り、また時には駆け降りる事もして部屋番号を調べたが、どれだけ行こうとも3階(301~315までの部屋があるフロア)と4階(401~415までの部屋があるフロア)を交互に訪れる結果となるだけだった。
これだけであれば画一的なフロアのデザインに惑わされているだけで 、3階の上階が4階、その上階が3’階、その上階が4'階、その上階が3"階…
というように「交互に部屋番号が繰り返されているだけであり、実際には別々の階数のフロアである」という可能性もあった。
そこで僕は3階と4階に僕の「ナイキエアマックスサンダー」を片方ずつ置いて、階段を登ったり降りたりしてみる事にした。
結果として、どれだけ階段を登ろうと、またどれだけ階段を降ろうとも僕の「ナイキエアマックスサンダー」が片方ずつフロアに置かれている状況は変化しなかったのだ。
つまり、僕はこのアパートの3階と4階を永遠にループしているという事だった。
にわかには信じがたい話だが、それであれば僕が長時間階段を登り続ける事ができた現象の説明がつく。
まったくやれやれって感じのシチュエーションだ。せめて暇つぶしになるものでも、持ってくれば良かったか。
さて僕が不思議なアパートに閉じ込められてから体感で約1時間ほど経った頃、僕はこのアパートに僕以外の人間が閉じ込められている事に気がついた。
アパートの脱出方法を探る為、フロアの隅から隅まで(といっても廊下は10数メートルしかなく、部屋にも鍵がかかっているので入れなかったが)探索していたところ、ふと4階の廊下の隅に彼女は立っていた。
白いワンピースに黒のショートヘアーの彼女は名前を名乗る代わりに自らを「4階の神」と名乗った。
「4階の神ってのはどういう事なんだい?」
僕が聞くと、彼女は貫くような視線をこちらに飛ばしながら、鋭く答えた。
「私はこの4階であればなんでもできるってことよ。」
「なんでも?じゃあ僕をここから出してよ。明日も仕事だ。」
「それは無理ね。」彼女は首を小さく横に振ると、「だって、外は4階じゃないもの。」と答えた。
僕にはその言葉の意味がよく分からなかった。その様子に気づいた彼女はすぐに補足してくれた。
「きっとね、このアパートの4階には神様が不在なのよ。だから代理を立てたんだわ。」
「代理?それが君ってこと?」
「そう。だからこそ、私は4階にいる間であればなんでもする事ができるの。神様の特権ね。でも、外に出ることはできない。そこでは私は神ではないもの、自由に振る舞うことは出来ないんだわ。」
彼女はそういうと、廊下の端に設置された窓から外を眺めた。赤く染まっていた空の色に、夜の暗闇が混ざりゆくような時間だった。
その夕暮れを認識した瞬間から、僕は自分の空腹を感じ出した。定時的に食事をする人間らしい反応だった。
「君の言う事が本当なら、僕はお腹が空いたから何か食べたいんだけどそういうの用意できたりしないかい?例えば…カレーとかさ。」
「カレー?」
4階の神様はカレーを知らないらしかった。
神様がカレーを知らないなんて、所詮は代理という事か?
しかし、その直後に彼女が見せた奇跡は僕を大いに驚かせた。
彼女が空中に右手を翳すと、まるで生えてきたみたいにパンが出現し、いつの間にか左手には赤ワインの入ったグラス存在していたのだ。僕はその現象がまるで信じられなかったが、何かトリックがあるようには見えなかった。
人間を閉じ込める無限ループのアパートがあるのだ。奇跡を起こす「4階の神」くらいいてもおかしくないという事だろうか?
「どうぞ。」
「ありがとう。」
パンとワインを受け取った僕は彼女にお礼を言うと、パンを食べワインを飲んだ。
パンは所謂黒パンというやつで、パンを心の底から憎んでいる職人が作ったのかと疑うくらいに固く、ワインはコンビニやファミレスで売っているレベルだったが、空腹だった僕はがっつくように食べてしまった。
得体の知らない女の子から渡された、得体の知らない食物を食べるなんてどうかしているとしか思えないし、実際その頃には僕はとっくにどうにかしてしまっていたのだと思う。
「だったらさ、君の力で…そうだなバットでも出してくれないか?」
僕と彼女は4階の廊下をブラブラと往復しながら話す。狭いアパートメントの廊下でただじっと会話するのは窮屈に思えたからだ。僕は少し身体を動かしたかった。
「バット…?」
「野球のさ。まぁバットを知らないなら野球も知らないか。じゃあ長くて硬いものなら何でもいいよ。木の棒とか金属の棒とか。」
「何に使うの?」
「決まってるじゃないか。あの窓を叩き壊すんだよ。」
僕はまだこのアパートからの脱出を諦めていなかった。幸い、物資は無限だ。得ることのできる種類には限りがあるが。
「それは無理。」
彼女は首を振る。
「ここの窓は壊れないの。ドアもね。そういうふうに出来ているみたいよ。」
彼女の言葉がうまく飲み込めなかった僕は、彼女に金属の棒を出してもらって(それは、所謂火かき棒と呼ばれるものだった。彼女は野球とカレーを知らないのに暖炉は使ったことのあるようだ。)窓や、ドア、ドアノブを何度も叩いてみたが、狭いアパートに酷い音が響くばかりで破壊する事は出来なかった。
僕はこの事実に少し驚いたが、すぐに納得した。
この場所に理屈は存在しないのだ。
永遠にループするアパートのように、神を名乗る少女の不思議な力のように、この場所の窓やドアは破壊できない。
そういう「ルール」がこの場所にはあるのだろう。
全くやれやれだ。
「言ったでしょ?」彼女は呆れたように僕を見つめ、水の入ったグラスを差し出していた。
「そうだね。」僕は彼女からグラスを受け取り、一気に飲み干した。
神様の忠告は聞いておくべきだった。というわけだ。
「これ、3階の窓も同じなのかな?」僕は彼女に聞く。
「さぁ、試した事ないわ。でも、それは無理よ。3階では私は神様ではないもの。」
「それはつまり、3階では不思議な力は使えないって事かい?」
「そうね、そういう『ルール』があるの。3階ではモノは創れないし、4階で創ったモノを持ち込むことも出来ないの。消えちゃうから。」
「全く、このアパートは『ルール』だらけだな。」
まるで社会のように、なんていうアイロニーは臭すぎるか?
「別に脱出なんてしなくてもいいんじゃない?」
途方に暮れた僕に、彼女は言った。
「ここは狭いけれど良いところよ。窓から見える空は綺麗だし、私の力があれば生活には困らない。貴方は明日も仕事があると言ったけれど、ここにいれば一生働かなくたっていいのよ。」
「確かにね。」突然の彼女の提案はとても魅力的だった。
ここは少し退屈だ、彼女の出す食事のレパートリーには不安がある。しかし、労働からの解放は人生の命題だった。
このアパートは、まさに理想郷だ。
彼女と僕、2人だけの閉じられた完璧な世界。
降って湧いたような選択肢に、僕の心は揺らいでいた。
「君はずっとここに1人だったの?」僕は聞く。
「そうね、ここに来てからはずっと」
「来てからは?つまり来る前があったの?」
「そう。ここに来るまでは私は普通の人間だったわ。もうどれくらい前かも分からない…1週間前と言われればそのようにも感じるし、何百年前と言われても納得できるほど昔に、私はここに来たの。」
彼女は遠い遠い昔を思い出すかのように空中をじっと見つめながら答えた。
「ここに来る前の、普通の女の子だった頃はどんなことをしていたんだい?」
「さぁ、忘れちゃった。でも、お母さんと一緒に暮らしていたのは覚えているの。優しいお母さんだったわ、顔は…もうほとんど思い出せないけど。」そう答えると、彼女は空中から一つの髪飾りを取り出した。それは手のひらくらいの大きさの銀色で細かい薔薇のデザインが入ったものだった。
「これはお母さんの形見なの。本物は、すっかり前に壊れちゃったんだけど。4階でなら何度でも作り直せるわ。」
「ふぅん…だから君はここから出ようとしないわけ?お母さんの髪飾りを、つまりはお母さんとの思い出をずっと記憶していたいから…。」
「そういうメロゥな言い方をされると恥ずかしいわね。」彼女はそう言うと、少し照れたように笑った。
僕はその時、「神様」の人間的な部分を初めて垣間見た気がした。
「ヘアピンって分かるかい?針金が二つ折りになったような、髪を留めるものだよ。君の髪飾りを見て思いついたんだ。2つもあれば十分なんだけど。」
僕が彼女にそう言うと、彼女は不思議な顔をしながらも空中から小さなヘアピンを2つ取り出してくれた。
「それ、何に使うの?」
「ここから出るのさ。」僕はそのヘアピンをまっすぐに伸ばしながら言う。
「出る?貴方まだそんな事言ってるの?ここで暮らせば良いじゃない。それにヘアピンごときで何が出来るって…。」
彼女は僕の顔を覗き込むようにしてそう言うが、僕はそんな彼女の顔をできるだけ見ないようにしながら2つのヘアピンを解きにかかる。
髪を留めるもの。「神」を留めるもの。
僕はそれを解く。
そして、このアパートから出るのだ。
僕は真っ直ぐにしたヘアピンを加工しながら、401号室のドアに向かって進んだ。
この4階の窓やドアは破壊する事ができない。
それがここでのルールだ。
では、破壊しなければ?
僕は加工した2つのヘアピンをノブの鍵穴に突っ込むと、ピックの役割をしたヘアピンでピンを押し上げ、レバーを回した。
カチャリと小さな音が4階の廊下に響く。
「嘘でしょ?」彼女は信じられないというような顔でこっちを見てくる。
僕もこう上手くいくとは思っていなかったが、古いアパートで助かった。僕には不思議な力なんて持ち合わせていないが、古いアパートの部屋の鍵くらい開けれるのだ。
でも、これで終わりではない。部屋のドアが開いたからといって、脱出できるわけではないのだ。
しかし、何か役に立つものがあるかもしれない。
401になければ、402に。402になければ403に。
僕は脱出の為の手掛かりを得るまで、全てのドアを開放するつもりだ。
僕がノブを捻ると、401のドアがギギイと音を立てて開く。
そこにあるはずの居住のための部屋は無く、4階と同じ廊下の景色が広がっていた。
「何よ。ここもループしているだけじゃない。」後ろから覗く彼女の、呆れたような声が僕に降ってきた。
僕は落胆しかけたが、すぐに異変に気づく。
正面のドアにあるルームナンバーを示すプレートには「302」と数字がふってあるからだ。
僕はドアを通り、自分が出てきた部屋のナンバープレートを見た。すると、そこには「301」と数字が刻印されていた。
そう。「401」のドアを通った先は「301」号室の入り口、つまりはこのアパートの3階だったのだ。
「これで脱出の為の準備は整った。」
僕は呟くように言う。
「え?」彼女は困惑したように僕の顔を覗く。「どうやって?」
「またさっきの火かき棒を出してよ。」
「どうして?」
「君は神様なのに、疑問ばっかりだな。簡単な話だろ。3階の窓を破るのさ。」
「それは…無理よ。だって3階では私の力は使えないって…。」
「3階はね。でも現在、このドアを通して3階と4階は繋がっている、つまり3階は…4階でもあるって事だ。」
そして4階では彼女は「神様」だ。
「そんな屁理屈…。無理よ。」
「やってみないと分からないじゃないか。」
「無理よ!」彼女の口調が強くなる。「それに3階に火かき棒を持ち込めたからって3階の窓が破壊できるかどうかなんて分からないでしょ?」
「まぁね。でも、それもやってみないと分からない。そしてもし窓が割れたら、僕はこのアパートを脱出する。それだけだ。」
「そんなの…無茶苦茶じゃない…無理に決まってる…。」
彼女はぶつぶつと僕を否定する言葉を呟いている。だけど僕には何故か確信があった。
3階は今4階になっているし、3階の窓は4階と違ってぶっ壊す事ができるってそんな確信だ。
「君はどうする?」取り乱している彼女に僕は言う。「このアパートを出るかい?」
「…いいえ。私はここにいる。4階から出てしまったら私は『神様』では無くなってしまうもの。」
彼女は震える声で言った。
「それはお母さんの形見の為?それとも、このユートピアから出るのが怖いのかい?」
「分からない…でも、これだけははっきりと言えるわ。私は『変化』が怖いの。」そう答える彼女目の端には涙が溜まっていたが、その眼差しは真っ直ぐだった。
「ここを脱出すれば、私は変わってしまう。神様では無くなるし、環境もまた変わる。それが怖いのよ。」
「変化は悪い事じゃないよ。人生には必ず転機が訪れるものだ。」僕はそう言うと、彼女に手を差し出した。
「無理よ。」彼女は僕の手に空中から取り出した火かき棒を渡すと「さようなら。」と言った。
僕はその火かき棒を無言で受け取り、401のドアを通る。301のドアから出て、3階の廊下に出ても火かき棒は消えていない。
僕は真っ直ぐに廊下の端へと歩いていくと窓に火かき棒を叩きつける。
窓は大きな音と共に砕け散った。
僕は窓枠に足を掛け、外を覗く。
アパートの外はもう夜だ。街灯の灯りはなく、窓の外は何も見渡す事が出来ない。
でも、僕は飛ぶ。
踏み出す先がどうなっているかなんて分からなくても、飛ばなくてはならない時がある。
人生と同じだ。なんて言い回しはやっぱり臭すぎるかもしれないが。
人生には必ず転機が訪れる。
blurはブリットポップと呼ばれる、イギリスらしいサウンドをある日突然辞めた。
ボーカルのデーモン曰く「ブリットポップは死んだ。」らしい。
僕はアパートから飛び降りて、気を失っていたところを発見された。
打ちどころが悪かったのか、僕の足は動かなくなってしまう。脊髄がどうたらこうたら、まぁそんな感じだ。
だから僕は以前のように働けなくなってしまう。以前のように、車に乗ってお気に入りのCDを聴くことも出来なくなってしまう。
僕はベッドの上でアルバムをチョイスする。
blur5枚目のアルバム「blur」。
彼らがブリットポップを辞めて、暗く激しいオルタナ的な曲調にスタイルを変えた後にリリースされた始めてのアルバムだ。
「blur」を再生すると、1曲目の「Beetlebum」が流れだす。サイケな曲調に、blurの今までのポップな印象はどこにも無い。
彼らは何故このアルバムに「blur」なんてタイトルをつけたんだろう?
自分たちのスタイルが大きく変わったこのアルバムに、バンド自身と同じタイトルを付けるなんて…。
でも、今の僕なら少し分かる気がする。
「まぁこれはこれで、いいよな。」
blurはブリットポップを辞めてしまったけど、僕の足は動かなくなってしまったけど、これはこれでいいのだ。
変化は必ず起こる。それは恐ろしくて嫌なモノで、必ずしも良い変化とは限らない。
でも、変化した後も自分は自分だし、僕らはそれを受け入れて生きていかないとダメなのだ。
あの「4階の神様」にも、いつか変化が起こる日が必ずくると思う。
「神様」じゃない彼女は、物知らずのただの女の子になってしまうだろう。アパートから飛び出した時に大きな怪我もしてしまうかもしれない。
それでも彼女は彼女だし、僕はそんな彼女とまた会える日を待っている。
それまでblurの曲を聴きながら、僕はブラブラ時間を潰そうと思う。
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