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Episode4 歩き出した命
第26話
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薄暗い空間の中を、リヴェルはひたすら歩き続けていた。
ここ数日、眠りに就いてから必ず来てしまう空間だ。見慣れた薄闇に、自然と視線が下がっていく。
――ああ、またか。
思って、この先に待ち構える悪夢に憂鬱になる。恐怖で足が情けないほど震え、恥も外聞もかなぐり捨てて蹲りたかった。
この先に行きたくない。
眠りから覚めるのを待ち続けていたい。
もう、――何も見たくない。
それなのに、気持ちに反して足は何故か止まらなかった。己の意思を無視する様にひたすら足を動かし続ける。
――いや、違うな。
ゆるりと否定し、リヴェルは知らず自嘲した。
本当は分かっている。何と浅はかなと思いながらも、走る心は止まらない。
――この先を。何も見えない暗闇を、どうか一筋の光で裂いてくれないか。
そう、強く願ってしまう。
何て馬鹿なのだろうか。
この先で、何度も底の見えない闇へと突き落とされているのにまだ願うのか。諦めの悪さに、自分で自分を踏み付けたくなる。
失望しながら、それでも愚かな心は歩みを止めない。
だから、また絶望を繰り返す。とうとう視界の隅に、一人の見慣れた影が入り込んできた。
――ああ、同じだ。
散々繰り返されてきた始まりに、絶望が笑って背中を押した。
「……、エルスター?」
声がみっともなく掠れる。背後からじわじわと纏わり付く黒い影に、頭を振って引き返したくなった。
それなのに、体は思う様に動かない。口も、己の意志を無視して言葉を紡ぎ始めた。
「こんなところにいたのか。探したぞ」
――嫌だ。やめろっ。
勝手に動く口に悲鳴を上げているのに、リヴェルの顔は無理矢理笑う。
エルスターも、遂にこちらの声に気付いて振り返ってきてしまった。リヴェル、と声はしないのに、何故か唇がそう動いたのだけは分かる。
そして、彼が近付こうとした、その瞬間。
「――――――――っ! 嫌だっ!」
ようやっと自由になった口が絶叫すると同時に。
ぼんっと。彼は、盛大に目の前で爆発した。
びちゃっと、真っ向からまともに不吉な液体を浴びる。真っ白なブレザーは瞬く間に赤く染まり、ところどころに肉片が斑の模様を作って服を彩った。
彼がいた場所にはもう、何もない。ただ水たまりの様な真っ赤な液体と、千切れ飛んだ服の破片だけが、かつて彼がそこにいたのだと辛うじて教えてくれた。
「あ、ああ……っ。え、る……いや、だ」
ずるりと足を引きずり、リヴェルは否定する様に頭を振る。
だが、手を伸ばしても答えはない。
ただ惨たらしい残骸だけが、己の悲鳴をせせら笑って突き飛ばした。
「……、ど、……ぐ……っ」
目の前の惨劇を否定しながら口元を押さえ、救いを求める様に瞳が別の影を探す。
「マリア、は。クラ、リス、は」
そろっと視界をゆっくり動かせば、彼女達はいつの間にか少し離れた場所にいた。仲良く寄り添う様に座って、楽しそうに話しながら微笑んでいる。
マリア、クラリス。
名を呼ぼうとして、しかし止まる。
視界の中で、ひらりと黒い影が鮮烈に翻った。
「――、す……」
はくっと、酸素を求める様に喘ぐ。
いつの間に現れたのか。マリアやクラリスのすぐ傍には、真っ黒なコートをはためかせ、凛と背筋を伸ばす一人の女性が佇んでいた。
舞い降りる様に羽ばたく黒い翼は、いつもリヴェルが強く焦がれた姿だ。
なのに。
「……ステラ……」
その名を呼んだ瞬間。
ごろん、と。唐突に、マリアとクラリスが目の前で転がった。
「……っ、ひ……っ!」
ステラの足元で、崩れ落ちた二人が揃ってリヴェルの方へと顔を向ける。
エルスターと違って人の形をしているが、彼女達の瞳にすでに生気は無かった。瞬きをすることも無いまま、ただがらんどうなガラス球の様にこちらをじっと見つめてくる。
口元から零れ伝う真っ赤な筋は、彼女達がもう生きていないと如実に物語っていた。唇も半開きのまま泡を吹き、二人の綺麗な顔が見る影もない。
「……、ど、して」
どうして、彼女達が死んでいるのか。
どうして、彼女達の傍にステラがいるのか。
分からないまま、リヴェルは一歩を踏み出した。ふらりと、導かれる様に彼女の方へと距離を詰めていく。
だが。
「――ごめんなさい」
謝罪だけを残し、ステラはあっという間に身を翻した。決して早くはないはずなのに、乱れぬ足音は綺麗な影を引いて瞬く間に遠ざかっていく。
「……っ、まっ、て。……待ってくれ!」
がくがくと震える足を叱咤しながら、リヴェルは彼女を追いかけた。途中で何度も足同士を引っ掛けて転んでしまったが、その度に起き上がって必死に彼女の足跡を追う。
なのに、全く縮まらない。彼女との距離は開いていくばかりで、背中も徐々に、だが確実に小さくなっていく。
「どうして! ステラ、頼む! 止まってくれ! ステラ!」
追いかけて、追いかけて。
けれど、結局追い付けないまま。
「――ステラ……っ!」
闇よりも濃い影の向こうへと霧の様に消えていく彼女を、リヴェルは絶望の中で見送った。
「――リヴェル!」
「――――――――っ」
鋭く名前を呼ばれ、リヴェルは一気に覚醒した。は、と荒く息を吐いて、思わず手を伸ばす。
「すて、ら!」
「リヴェル! しっかりしたまえ! ここはお前さんの部屋だ!」
「――っ」
荒々しく指摘され、リヴェルは手を伸ばしたまま固まった。
どくどくと、心臓が飛び跳ねる様にうるさい。耳元で乱打する鼓動が、まるで追いかけてくる様な恐怖を覚え、喘ぐ様に酸素を求めた。
「は……っ」
「目が、覚めたかね。うなされていたので、起こしたのだよ」
「……ゆ、め……」
聞こえてきた穏やかな声に、暴れ回っていた鼓動が少しずつ落ち着きを取り戻していく。
はあっと深く息を吐き出し、手を下ろす。何度か瞬きをしてから、ゆったりと周りに意識を向けた。
視界に映るのは、あの薄暗い残酷な空間ではない。
染み一つ無い白い天井に、少し視線をずらせばリヴェルやエルスターがいつも使っている勉強机が目に入ってきた。壁際には、二人で共有している木製のクローゼットと本棚が、綺麗に並んでいる。
そして最後に緩々と隣を見れば、険しい顔をして己を見下ろすエルスターが佇んでいた。
「――君、……」
眉間に皺を寄せて、美形が台無しだ。
そう茶化したかったのに、声が出ない。
真剣に見下ろしてくる彼の翡翠の瞳は、揺れていた。心配してくれているのが痛いほど伝わってきて、喉が情けなく鳴る。
「……、エルスター」
声に出して、ホッとしたのもつかの間。
目の前で、彼の顔があっという間に崩れ落ちていった。
「――っ! エ……っ!」
すぐに影がぶれ、エルスターは元の形を結び取ったが、恐怖はまるで消えない。悪夢の続きに突き動かされ、リヴェルは喘ぐ様に喉を掻きむしった。
「リヴェル? どうしたのだね。顔色が」
「……っ! エル、スター……!」
声に誘われ、勢い良く彼の腕を掴んだ。彼が驚いた様に目を見開いたが、気にしてなどいられない。
急いで掴んだ手の平からは、彼の腕の感触がしっかり感じられた。
ぎゅっと握っても、先程の様に崩れることはない。静かに、熱がじんわりと手の平に広がっていった。
そうだ。エルスターは、ここにいる。
――決して夢の中の様に、爆発なんて、しない。
「……、いる」
「……、ああ。いるのだよ」
ここ数日、ずっと同じやり取りをしている。だから、エルスターもリヴェルが何を言い出したのか正しく理解した様だ。
彼には、迷惑をかけっぱなしだ。同室でなければ、こんな風に自分の悪夢で叩き起こされることもなかっただろうに。
だが。
「……、ありがとな」
「……馬鹿だね。お礼を言われる様なことはしていないのだよ」
彼が傍にいてくれて、安堵している自分がいた。
一人ではない。そう実感出来て泣きそうになる。
迷惑をかけているのが分かっているのに、どうしようもなく人の気配が恋しい。この手に伝わる温度が欲しい。
大切な人達が、目の前で生きている。そう実感できる証が欲しくて堪らない。
「……っ、エルスター、俺」
「無理して起きることはないのだよ。まだ夜明け前だからね。寝たまえ」
無理矢理身を起こそうとすると、エルスターがやんわり押し返してきた。
確かに、朝日と言うにはやけに眩しい気がする。
もう一度天井を見上げれば、ぶら下がっている明かりが煌々と部屋の中を照らしていた。闇を消すほどの明かりの強さが、先程の夢の暗さを塗り変えていく様で安堵する。
惨劇があったあの日から、リヴェルは度々悪夢にうなされる様になった。
うなされ、悲鳴を上げ、その度にエルスターに叩き起こされて。飛び起きて周りが真っ暗だと、あの夜を思い出し、しばらく恐慌状態に陥る様になってしまった。
そんなリヴェルを見かねてか、エルスターは起こす時に明かりを点けてくれる様になったのだ。適切な処置をしてくれる彼の気遣いには頭が上がらない。
「……ごめんな、また起こした」
「回数は減っているのだよ」
「でも」
「それに、……この程度ですんでいる。お前さんは僕が思った以上に強い。少しは自信を持ちたまえ」
ぐしゃぐしゃと乱暴に頭を撫でられた。
慰めてくれているのだろうか。腕だって、いつまでも強く掴まれて痛いだろうに、文句ひとつ言わない。
どんどん己の不甲斐なさを露呈してしまっているが、今は甘えることにした。
「……、また、同じ夢だ」
「……」
「俺の大切な人たちはみんな死んで、……ステラも、消える」
追いかけても、呼んでも、彼女は止まらない。
何の弁解もせず、ただ悲しそうに背を向けて、あっという間に消えてしまう。
どうして、何も言ってはくれないのか。友人の死が彼女の仕業ではないことなど、分かり切っているのに。
〝……リヴェル〟
あの時。
自分が、彼女の手を振り払ったからか。
だから。
「……っ。ステラは、あんなこと、しない。……絶対、しないっ! それなのに、俺、……」
「……、リヴェルよ」
「……。……なんてな」
エルスターが何か言いかけたので、無理矢理話を切った。
ただでさえ心配をかけているのに、これ以上愚痴に突き合わせるわけにはいかない。
自分の過ちは、自分で解決しなければならないのだから。
「現実には、みんないる。エルスターだってこうして生きているし、マリアもクラリスも、学院に行けば会える」
「……うむ」
「彼女には、会え――、……」
無意識に零れ落ちた言葉に自嘲する。結局話を切れなかった己を踏み付けたくなった。
そう。
彼女には、未だ会えてはいない。
裏庭に行っても気配は無く、学院内ですれ違うこともない。
リヴェルが手を振り払ってしまったから、彼女は姿を消してしまった。
当然だ。拒絶したのだから。会ってもらえなくても仕方がない。
それなのに、エルスターに八つ当たりをしてしまった。自分で自分を制御出来ない。その事実にまた気落ちした。
いっそ。
〝死ぬのは――〟
谷底に蹴落としてくれれば、そのまま――。
「リヴェルよ」
「――」
沈みかけていた思考を、エルスターの声が引き上げてくれる。闇の底よりも強い自暴自棄を、緩々と頭を振って追い払った。
駄目だ。今、自分は死ねない。
死んだら、本当に会えなくなる。エルスターにも、マリアにも、クラリスにも。
そして。
〝……ごめんなさい〟
彼女にも。
「……っ」
浮かんだ言葉に、己を嘲る。
一度彼女の手を振り払ったのに、まださもしく願うのか。
突き飛ばしておきながら、拒絶しておきながら、傷付けておきながら。
――俺は、まだ彼女を求めるのか。
何と愚かな。
己の身勝手さに絶望しながら、左手で顔を覆って目を瞑る。今はもう、何も考えたくなかった。
「……ごめん。俺、もう少し寝るな」
「ああ。……学院には」
「行く。裏庭にも。起きそうになかったら、起こしてくれ」
「わかったのだよ。……おやすみ、リヴェル」
「ああ、……」
おやすみ。
奇妙なことに、その言葉を口にした途端、深い睡魔に襲われる。先程まで冴えきっていた意識がゆるりと落ちていった。
不思議だ。人間は、残酷な衝撃を受けても、貪欲に生を渇望する。どれだけ心が疲弊しきっていてもお腹は減るし、眠くなる。本能と言うべきか。
だが、今はその本能が生を求めること自体に感謝した。
そうでなければ、リヴェルはとっくに生きることを放棄していただろう。
「……、……馬鹿だな」
今でも迷う。
金魚の死。父の死。母の失踪。祖母の否定。周りの悪意。
〝死んだら、―――――――――〟
ずっと封じ込めていた、葛藤。
このままで良いのかと、迷ってばかりだ。
だけど。
〝僕は、お前さんとの仲を、学院生活だけで終わらせるつもりはないのだよ〟
〝また一人で抱え込もうとしてたわけー。いけない子ねー。お仕置きしなくっちゃ〟
〝この前、先生に頼まれた資料とか地球儀とか、運んでくれたでしょ! だから、お礼だよ!〟
自分のことを、大切に思ってくれる人がいる。
そのことに気付いた。――気付いて、しまった。
だから。
〝あなた、――死ぬのは、恐い?〟
例え、もう二度と彼女に会えなかったとしても。
――俺は、生きていかなければならない。
「……、ああ」
だけど。
会――い、な。
まだ迷い、混乱する思考に溺れながら。
リヴェルは疲れ果てた底で、抱いた願いと一緒に意識を手放した。
ここ数日、眠りに就いてから必ず来てしまう空間だ。見慣れた薄闇に、自然と視線が下がっていく。
――ああ、またか。
思って、この先に待ち構える悪夢に憂鬱になる。恐怖で足が情けないほど震え、恥も外聞もかなぐり捨てて蹲りたかった。
この先に行きたくない。
眠りから覚めるのを待ち続けていたい。
もう、――何も見たくない。
それなのに、気持ちに反して足は何故か止まらなかった。己の意思を無視する様にひたすら足を動かし続ける。
――いや、違うな。
ゆるりと否定し、リヴェルは知らず自嘲した。
本当は分かっている。何と浅はかなと思いながらも、走る心は止まらない。
――この先を。何も見えない暗闇を、どうか一筋の光で裂いてくれないか。
そう、強く願ってしまう。
何て馬鹿なのだろうか。
この先で、何度も底の見えない闇へと突き落とされているのにまだ願うのか。諦めの悪さに、自分で自分を踏み付けたくなる。
失望しながら、それでも愚かな心は歩みを止めない。
だから、また絶望を繰り返す。とうとう視界の隅に、一人の見慣れた影が入り込んできた。
――ああ、同じだ。
散々繰り返されてきた始まりに、絶望が笑って背中を押した。
「……、エルスター?」
声がみっともなく掠れる。背後からじわじわと纏わり付く黒い影に、頭を振って引き返したくなった。
それなのに、体は思う様に動かない。口も、己の意志を無視して言葉を紡ぎ始めた。
「こんなところにいたのか。探したぞ」
――嫌だ。やめろっ。
勝手に動く口に悲鳴を上げているのに、リヴェルの顔は無理矢理笑う。
エルスターも、遂にこちらの声に気付いて振り返ってきてしまった。リヴェル、と声はしないのに、何故か唇がそう動いたのだけは分かる。
そして、彼が近付こうとした、その瞬間。
「――――――――っ! 嫌だっ!」
ようやっと自由になった口が絶叫すると同時に。
ぼんっと。彼は、盛大に目の前で爆発した。
びちゃっと、真っ向からまともに不吉な液体を浴びる。真っ白なブレザーは瞬く間に赤く染まり、ところどころに肉片が斑の模様を作って服を彩った。
彼がいた場所にはもう、何もない。ただ水たまりの様な真っ赤な液体と、千切れ飛んだ服の破片だけが、かつて彼がそこにいたのだと辛うじて教えてくれた。
「あ、ああ……っ。え、る……いや、だ」
ずるりと足を引きずり、リヴェルは否定する様に頭を振る。
だが、手を伸ばしても答えはない。
ただ惨たらしい残骸だけが、己の悲鳴をせせら笑って突き飛ばした。
「……、ど、……ぐ……っ」
目の前の惨劇を否定しながら口元を押さえ、救いを求める様に瞳が別の影を探す。
「マリア、は。クラ、リス、は」
そろっと視界をゆっくり動かせば、彼女達はいつの間にか少し離れた場所にいた。仲良く寄り添う様に座って、楽しそうに話しながら微笑んでいる。
マリア、クラリス。
名を呼ぼうとして、しかし止まる。
視界の中で、ひらりと黒い影が鮮烈に翻った。
「――、す……」
はくっと、酸素を求める様に喘ぐ。
いつの間に現れたのか。マリアやクラリスのすぐ傍には、真っ黒なコートをはためかせ、凛と背筋を伸ばす一人の女性が佇んでいた。
舞い降りる様に羽ばたく黒い翼は、いつもリヴェルが強く焦がれた姿だ。
なのに。
「……ステラ……」
その名を呼んだ瞬間。
ごろん、と。唐突に、マリアとクラリスが目の前で転がった。
「……っ、ひ……っ!」
ステラの足元で、崩れ落ちた二人が揃ってリヴェルの方へと顔を向ける。
エルスターと違って人の形をしているが、彼女達の瞳にすでに生気は無かった。瞬きをすることも無いまま、ただがらんどうなガラス球の様にこちらをじっと見つめてくる。
口元から零れ伝う真っ赤な筋は、彼女達がもう生きていないと如実に物語っていた。唇も半開きのまま泡を吹き、二人の綺麗な顔が見る影もない。
「……、ど、して」
どうして、彼女達が死んでいるのか。
どうして、彼女達の傍にステラがいるのか。
分からないまま、リヴェルは一歩を踏み出した。ふらりと、導かれる様に彼女の方へと距離を詰めていく。
だが。
「――ごめんなさい」
謝罪だけを残し、ステラはあっという間に身を翻した。決して早くはないはずなのに、乱れぬ足音は綺麗な影を引いて瞬く間に遠ざかっていく。
「……っ、まっ、て。……待ってくれ!」
がくがくと震える足を叱咤しながら、リヴェルは彼女を追いかけた。途中で何度も足同士を引っ掛けて転んでしまったが、その度に起き上がって必死に彼女の足跡を追う。
なのに、全く縮まらない。彼女との距離は開いていくばかりで、背中も徐々に、だが確実に小さくなっていく。
「どうして! ステラ、頼む! 止まってくれ! ステラ!」
追いかけて、追いかけて。
けれど、結局追い付けないまま。
「――ステラ……っ!」
闇よりも濃い影の向こうへと霧の様に消えていく彼女を、リヴェルは絶望の中で見送った。
「――リヴェル!」
「――――――――っ」
鋭く名前を呼ばれ、リヴェルは一気に覚醒した。は、と荒く息を吐いて、思わず手を伸ばす。
「すて、ら!」
「リヴェル! しっかりしたまえ! ここはお前さんの部屋だ!」
「――っ」
荒々しく指摘され、リヴェルは手を伸ばしたまま固まった。
どくどくと、心臓が飛び跳ねる様にうるさい。耳元で乱打する鼓動が、まるで追いかけてくる様な恐怖を覚え、喘ぐ様に酸素を求めた。
「は……っ」
「目が、覚めたかね。うなされていたので、起こしたのだよ」
「……ゆ、め……」
聞こえてきた穏やかな声に、暴れ回っていた鼓動が少しずつ落ち着きを取り戻していく。
はあっと深く息を吐き出し、手を下ろす。何度か瞬きをしてから、ゆったりと周りに意識を向けた。
視界に映るのは、あの薄暗い残酷な空間ではない。
染み一つ無い白い天井に、少し視線をずらせばリヴェルやエルスターがいつも使っている勉強机が目に入ってきた。壁際には、二人で共有している木製のクローゼットと本棚が、綺麗に並んでいる。
そして最後に緩々と隣を見れば、険しい顔をして己を見下ろすエルスターが佇んでいた。
「――君、……」
眉間に皺を寄せて、美形が台無しだ。
そう茶化したかったのに、声が出ない。
真剣に見下ろしてくる彼の翡翠の瞳は、揺れていた。心配してくれているのが痛いほど伝わってきて、喉が情けなく鳴る。
「……、エルスター」
声に出して、ホッとしたのもつかの間。
目の前で、彼の顔があっという間に崩れ落ちていった。
「――っ! エ……っ!」
すぐに影がぶれ、エルスターは元の形を結び取ったが、恐怖はまるで消えない。悪夢の続きに突き動かされ、リヴェルは喘ぐ様に喉を掻きむしった。
「リヴェル? どうしたのだね。顔色が」
「……っ! エル、スター……!」
声に誘われ、勢い良く彼の腕を掴んだ。彼が驚いた様に目を見開いたが、気にしてなどいられない。
急いで掴んだ手の平からは、彼の腕の感触がしっかり感じられた。
ぎゅっと握っても、先程の様に崩れることはない。静かに、熱がじんわりと手の平に広がっていった。
そうだ。エルスターは、ここにいる。
――決して夢の中の様に、爆発なんて、しない。
「……、いる」
「……、ああ。いるのだよ」
ここ数日、ずっと同じやり取りをしている。だから、エルスターもリヴェルが何を言い出したのか正しく理解した様だ。
彼には、迷惑をかけっぱなしだ。同室でなければ、こんな風に自分の悪夢で叩き起こされることもなかっただろうに。
だが。
「……、ありがとな」
「……馬鹿だね。お礼を言われる様なことはしていないのだよ」
彼が傍にいてくれて、安堵している自分がいた。
一人ではない。そう実感出来て泣きそうになる。
迷惑をかけているのが分かっているのに、どうしようもなく人の気配が恋しい。この手に伝わる温度が欲しい。
大切な人達が、目の前で生きている。そう実感できる証が欲しくて堪らない。
「……っ、エルスター、俺」
「無理して起きることはないのだよ。まだ夜明け前だからね。寝たまえ」
無理矢理身を起こそうとすると、エルスターがやんわり押し返してきた。
確かに、朝日と言うにはやけに眩しい気がする。
もう一度天井を見上げれば、ぶら下がっている明かりが煌々と部屋の中を照らしていた。闇を消すほどの明かりの強さが、先程の夢の暗さを塗り変えていく様で安堵する。
惨劇があったあの日から、リヴェルは度々悪夢にうなされる様になった。
うなされ、悲鳴を上げ、その度にエルスターに叩き起こされて。飛び起きて周りが真っ暗だと、あの夜を思い出し、しばらく恐慌状態に陥る様になってしまった。
そんなリヴェルを見かねてか、エルスターは起こす時に明かりを点けてくれる様になったのだ。適切な処置をしてくれる彼の気遣いには頭が上がらない。
「……ごめんな、また起こした」
「回数は減っているのだよ」
「でも」
「それに、……この程度ですんでいる。お前さんは僕が思った以上に強い。少しは自信を持ちたまえ」
ぐしゃぐしゃと乱暴に頭を撫でられた。
慰めてくれているのだろうか。腕だって、いつまでも強く掴まれて痛いだろうに、文句ひとつ言わない。
どんどん己の不甲斐なさを露呈してしまっているが、今は甘えることにした。
「……、また、同じ夢だ」
「……」
「俺の大切な人たちはみんな死んで、……ステラも、消える」
追いかけても、呼んでも、彼女は止まらない。
何の弁解もせず、ただ悲しそうに背を向けて、あっという間に消えてしまう。
どうして、何も言ってはくれないのか。友人の死が彼女の仕業ではないことなど、分かり切っているのに。
〝……リヴェル〟
あの時。
自分が、彼女の手を振り払ったからか。
だから。
「……っ。ステラは、あんなこと、しない。……絶対、しないっ! それなのに、俺、……」
「……、リヴェルよ」
「……。……なんてな」
エルスターが何か言いかけたので、無理矢理話を切った。
ただでさえ心配をかけているのに、これ以上愚痴に突き合わせるわけにはいかない。
自分の過ちは、自分で解決しなければならないのだから。
「現実には、みんないる。エルスターだってこうして生きているし、マリアもクラリスも、学院に行けば会える」
「……うむ」
「彼女には、会え――、……」
無意識に零れ落ちた言葉に自嘲する。結局話を切れなかった己を踏み付けたくなった。
そう。
彼女には、未だ会えてはいない。
裏庭に行っても気配は無く、学院内ですれ違うこともない。
リヴェルが手を振り払ってしまったから、彼女は姿を消してしまった。
当然だ。拒絶したのだから。会ってもらえなくても仕方がない。
それなのに、エルスターに八つ当たりをしてしまった。自分で自分を制御出来ない。その事実にまた気落ちした。
いっそ。
〝死ぬのは――〟
谷底に蹴落としてくれれば、そのまま――。
「リヴェルよ」
「――」
沈みかけていた思考を、エルスターの声が引き上げてくれる。闇の底よりも強い自暴自棄を、緩々と頭を振って追い払った。
駄目だ。今、自分は死ねない。
死んだら、本当に会えなくなる。エルスターにも、マリアにも、クラリスにも。
そして。
〝……ごめんなさい〟
彼女にも。
「……っ」
浮かんだ言葉に、己を嘲る。
一度彼女の手を振り払ったのに、まださもしく願うのか。
突き飛ばしておきながら、拒絶しておきながら、傷付けておきながら。
――俺は、まだ彼女を求めるのか。
何と愚かな。
己の身勝手さに絶望しながら、左手で顔を覆って目を瞑る。今はもう、何も考えたくなかった。
「……ごめん。俺、もう少し寝るな」
「ああ。……学院には」
「行く。裏庭にも。起きそうになかったら、起こしてくれ」
「わかったのだよ。……おやすみ、リヴェル」
「ああ、……」
おやすみ。
奇妙なことに、その言葉を口にした途端、深い睡魔に襲われる。先程まで冴えきっていた意識がゆるりと落ちていった。
不思議だ。人間は、残酷な衝撃を受けても、貪欲に生を渇望する。どれだけ心が疲弊しきっていてもお腹は減るし、眠くなる。本能と言うべきか。
だが、今はその本能が生を求めること自体に感謝した。
そうでなければ、リヴェルはとっくに生きることを放棄していただろう。
「……、……馬鹿だな」
今でも迷う。
金魚の死。父の死。母の失踪。祖母の否定。周りの悪意。
〝死んだら、―――――――――〟
ずっと封じ込めていた、葛藤。
このままで良いのかと、迷ってばかりだ。
だけど。
〝僕は、お前さんとの仲を、学院生活だけで終わらせるつもりはないのだよ〟
〝また一人で抱え込もうとしてたわけー。いけない子ねー。お仕置きしなくっちゃ〟
〝この前、先生に頼まれた資料とか地球儀とか、運んでくれたでしょ! だから、お礼だよ!〟
自分のことを、大切に思ってくれる人がいる。
そのことに気付いた。――気付いて、しまった。
だから。
〝あなた、――死ぬのは、恐い?〟
例え、もう二度と彼女に会えなかったとしても。
――俺は、生きていかなければならない。
「……、ああ」
だけど。
会――い、な。
まだ迷い、混乱する思考に溺れながら。
リヴェルは疲れ果てた底で、抱いた願いと一緒に意識を手放した。
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