1 / 1
人生の甘み
しおりを挟む
薄暗い部屋の中、男は、震える手にスプーンを握り、その先に小さく盛られた、白い粉を摂取しようとしていた。
その粉を口内に運び入れると、甘い感覚が身体を包み、脳がとろけるような快感に支配される。
「ああ……ああ……」
一頻り快感を味わうと、男は再び、スプーンの上に白い粉を落とし始めた。
バタン!
唐突にドアが開き、部屋の中に、数人が雪崩込んできた。
何が起きたのか分からない内に、男は捕らえられ、身体の自由を奪われていた。
「糖質取締法違反の容疑で、逮捕する」
数秒の後、男は状況を理解し、観念した。現実は甘くなかった。
2019年、日本で、新たに糖質取締法が施行された。この法律の趣旨は、糖質を含む食物の、所持、譲渡、製造、摂取を禁止する、というものである。
この乱暴な新法が成立に至った理由は、糖質による被害が、いよいよ看過できない状況になってきたからである。
2000年頃、研究者達の手により、糖質には、強力な依存性が有り、また、人体への毒性も高いことが証明された。ここで言う糖質には、砂糖などの糖類はもちろん、米や小麦等の炭水化物も含まれる。人間が農業を習得してからというもの、糖質を多分に含む穀物が、比較的容易に、大量生産できるようになり、人類は長い間、糖質の毒に晒されてきた。糖質の摂取により、多くの人間が肥満になり、心疾患、脳血管疾患等を患うようになった。過去数年の、死因トップ10の多くの、真の要因は、実は糖質の摂取過多であったことが判明した。
しかし、唐突にそれらの事実を発表しては大きな混乱が起きる、と危惧した政府は、情報を小出しにすることで、日本国民が自発的に糖質の摂取を制限するよう画策した。
様々なメディアを駆使し、糖質の摂取過多は良くない、血糖値を上げないように、と啓蒙をした。糖質制限ダイエットなるダイエット法を喧伝し、糖質を摂取しないことで、魅力的な人間になれることを謳った。
しかし、そんな努力も虚しく、日本人の多くは、欲望のままに糖質を貪り続けた。「米は、日本人の心だ」などと宣いながら、毎日毎日、致死量すれすれの丼飯を喰い、「仕事の後はラーメンだ」などと叫びながら、毎夜毎夜、致死量オーバーの麺の塊を酒で流し込んだ挙げ句、身体が拒絶した糖質を道端や駅のホームにぶちまけ続けた。何年経っても、日本人は糖質を制限することができなかった。
政府は、日本人の、食べ物に対する執着を甘く見ていた。日本人は、大抵のことは笑って許すが、食べ物が絡むと途端に狭量になり、自律が利かなくなる。この現実を目の当たりにした政府は、もはや国民の自発性をあてにはできないと判断し、問答無用で、糖質を厳しく取り締まる法律を施行した、という経緯である。
なお、人工甘味料の類も取締の対象となった。実質的な糖質が0であっても、その甘味が、人間に、糖質への渇望を思い出させてしまうためである。
「下田! 今日は、帰りに寿司食ってくか」
上司である上田に、そう言われて、下田は、皮肉な笑いを浮かべながら応えた。
「もう、寿司は食えないですけどね」
「ああ、そうだったな」
上田は、若干、鼻白んだ様子だったが、すぐに笑顔を繕って言った。
「それでもまあ、寿司屋は寿司屋だ。行くだろ」
「おごりですよね」
上田は大袈裟に舌打ちをして、おどけてみせた。下田は、軽く息を吐いて、笑みを浮かべた。こうして、上司にたかるのが、下田の常套手段であった。
18時を回ったところで、上田と下田は、タイムカードに打刻をし、オフィスを出た。オフィスの入ったビルを出て、歩道沿いに10分ほど歩くと、店が見えてきた。『彩時記』――二人が、仕事帰りに、よく来ている寿司屋である。
上田が店のドアを開け、暖簾をくぐると、下田もそれに続いた。
「いらっしゃいませーい」
威勢の良いかけ声が、店内に響く。
二人が、案内されたカウンターに着くと、板前が言った。
「らっしゃい。いつもの感じで良いですか?」
上田が応える。
「ああ。それでお願い」
「はいよー!」
板前は、両の掌を打ち合わせ、小気味の良い音を立てながら、準備に取り掛かった。間もなく、二人の前に、幅広の笹の葉が置かれた。カウンターの客に対しては、笹の葉の上に寿司を置いていくのが、この店のスタイルだ。
二人の笹の葉の、向かって右の端に、黄色いものが乗せられた。ガリだ。上田が、早速、ガリの一枚を箸でつまみ上げ、口に放り投げる。
数回咀嚼した後、上田が言った。
「不味いな」
情けない表情で、板前が応える。
「そう言わないでくださいよ。なんせ、砂糖が使えないんでね。ガリにも甘みが付けられないんです。ただの酢生姜ですよ」
「そうは言っても、不味い。ああ、もう二度と、あの美味いガリを食べられないのかねえ」
少しうんざりしながら、下田が嗜めた。
「わざわざお店に来て、不味い不味い言うの、やめてくださいよ」
「しかし、不味いぞ。お前も、これ喰ってみろ」
言われて、下田は、喰いたくもないガリを口に運び、咀嚼した。
「うわ……不味い。今日のは格別に不味いですね」
二人のやりとりを聞いていた板前が、顔に諦観を浮かべながら言った。
「やっぱり、駄目ですか。実は、酢が変わったんですよ」
二人は声を揃えて、聞き直した。
「酢?」
「ええ。なんせ、豆類を除く、ほぼ全ての穀物の所持が禁止されてしまったので、今までと同じ酢は作れないんですわ。店に残っていた酢を、だましだまし使ってたんですがね、いよいよそれも底を突きまして、2日前からリンゴ酢を使うようになりました」
それを受けて、下田が応える。
「今のところ、果物はセーフなんですよね。もはや、甘い物はみな、悪魔の食べ物だと言わんばかりに、人工甘味料すら規制した割には、果物が規制対象外というのはよく分かりません」
つまらなそうな顔で、ガリを咀嚼し続けていた上田が言った。
「理屈が分かったところで、不味いものは不味い。いっそのこと、リンゴの果汁をそのまま入れたほうが、美味くなるんじゃないか」
「なるほど。今度、試してみますわ」
と、少し虚ろに返事をしてから、板前は急に元気を取り戻して言った。
「はい! まずはイワシから!」
二人の笹の上に、イワシの握りが置かれた。上田が、待ちきれないとばかりに、それを右手で掴むと、醤油を付けて、口に放り込んだ。シャリシャリという咀嚼音が、下田の耳まで届く。
「イワシは美味いけど、やっぱりシャリがなあ」
上田は、心底残念そうに呟いた。下田は、目の前のイワシの握りをつまみ上げて、まじまじと眺めた。当然ながら、シャリは酢飯ではない。大根である。ツマのように細く切られた大根が、シャリの代わりに、ネタの下に居座っている。
下田も、その風変わりな、しかし今となっては一般的な握りを口に放り込んだ。
シャリシャリと音を立てる、無駄に歯応えが良いシャリを咀嚼し、口の中のものを飲み込んでから、下田は言った。
「そう言えば、醤油は大丈夫なんですか?」
「お、よくぞ聞いてくれました。米麹が使えなくなってしまったので、豆麹でなんとか作ってるんですよ。あと、幸い、うちの醤油は、昔っから小麦を使ってないんです。一般的な濃い口醤油は、小麦を使ってるものが多いんで、今じゃ製造不可能みたいですが」
辛うじて小さな自信を保っている板前を見ながら、下田は考えた。刺し身と醤油で、美味く喰えるだけ、寿司屋はまだましだ、と。
他の外食店は、糖質取締法により、壊滅的な打撃を受けていた。特に、ラーメン屋の惨劇などは、正視に堪えないものであった。小麦が使えない以上、麺を作ることができないのだ。さらに、砂糖も料理酒もみりんも使えないため、スープはただただ塩辛いだけの脂汁になってしまい、あっという間に客足は遠のいた。一部の店は、麺の代わりにこんにゃくやしらたきを使ったが、悲しいかな、スープが全然美味しくないので、流行らなかった。一部の店は、チャーシュー専門店へと鞍替えをして、特大のチャーシューを塩辛い汁に浸して食べるという新しい食べ物を作り、こちらは少しだけ人気を得た。そば屋とうどん屋は早々に店を畳んだ。インド人の振りをしたパキスタン人が営む、インドカレー屋もほぼ全滅であった。ライスも、ナンも、チャパティも、カレーも、全て穀物ベースである。カレー屋は、店で出すものが無くなってしまった。一部の店はラッシー専門店となって生き残りを図ったが、砂糖の入っていないラッシーは日本人の口に合わず、惨敗を喫した。焼肉屋は、タレが使えなくなったものの、塩胡椒とワサビで食べるスタイルは、規制に関係なく継続できたため、他の飲食店よりはマシな状況であった。
ここ数ヶ月の間に、外食店を襲った未曾有の惨劇を振り返っていた下田が、ふと我に返った時、上田はワインを飲んでいた。
酒も、大半のものが規制された。米をベースにした日本酒は全滅。麦が原料のビール、ウィスキーなども禁止され、サトウキビを原料としたラム酒などは以ての外であった。選択肢として残されたのは、ワインやシードルなど、果実を原料にした酒と、芋焼酎など、分類上、野菜に属する原料を使用した酒のみであった。
ワインが回り、早くもほろ酔い状態の上田が言う。
「寿司にワインってのもなあ! ああ、日本酒が飲みてえなあ」
その時、店のドアがガラガラと開けられ、制服を着た警察官が入ってきた。彼は、店の中まで入ってきて、銘々の客が口にしているものを、丹念に見回した。規制された食品を食べている客が居ないか、店がそのような料理を提供してないかを確認しているのだ。
酔っ払った上田が、カウンターに向いたまま、警察官に聞こえるよう、大きな声で言った。
「あーあ。ガリは酸っぱいだけだし、酢飯は喰えねえし、日本酒も飲めねえ。なんで俺は、寿司屋に来て、ワイン飲みながら刺し身大根喰ってるのかねえ!」
店内の空気が一気に張り詰めた。周囲の客らも黙り込み、皆、視線は向けずとも、上田と警察官のやり取りに意識を傾けている。
上田は、椅子に座ったまま、警察官のほうへと向き直り、怒りを露わにした。
「米を喰ったり、日本酒を飲むのが、そんなに悪いことなのかね」
表情を固くしたまま何も言わない警察官に、上田が続けて怒声を浴びせた。
「喰ってみろ! この不味いガリをよ!」
「いちいち、不味いって言わないでくださいよ」
情けない顔で、懇願するように板前が言った。
警察官が、上田にほうへと歩み寄ると、上田は身構えた。
「何だ? やろうってのか?」
警察官は、右手を伸ばすと、素手でガリを一枚つまみ上げて、口へと放り込んだ。数回の咀嚼音の後、警察官の顔が苦痛に歪む。
「無言で不味そうな顔をしないでくださいよ」
情けない顔で、懇願するように板前が言った。
上田は、さらに続けて、怒りをぶちまけた。
「俺らは、この先、一生こんなもんしか喰えないのかよ! 糖質を摂るってのは、そんなに悪いことなのか?」
「知っての通り、糖質摂取は違法になったんだ。ご理解願いたい」
「あんたらだって、去年の今頃は、寿司やラーメンを喰って、日本酒で一杯やっていただろう? それが今じゃ、糖質摂取者を麻薬ジャンキーみたいに扱いやがって」
「糖質は、身体に害が有ると、科学的に立証されたんだ。あなたの健康の為にも、摂らないに越したことは無い」
「この先、また違う喰い物も、実は身体に悪かったとか言い出して、俺らが喰うものは、その内、全部規制されちまうんじゃないのか?」
「それを、私に言われても困る」
「喰いたいものも喰えずに、ただ長く生きることが、そんなに素晴らしいことなのか?」
政府が、糖質取締法の施行に踏み切った理由は、確かに、国民の健康を促進するためではあったが、それは、国民の幸福を考慮してのことではなかった。糖質の被害により、働き盛りの国民が病気になり、生産性が落ちる、あるいは働けなくなるといった、労働力の低下を防ぐことが主目的であった。
しかし、数年後、政府は糖質取締法の撤回を余儀無くされる。自殺率が急増し、糖質取締法の施行前よりも、労働力の減少が懸念される事態に陥ったためである。規制の前後で、労働環境は変化しておらず、日々、新たに発生するストレスの量は変わらないにも関わらず、ストレスを発散する手段だけを減らされてしまったからだ。また、この先、生涯を通じて、ろくに美味いものが喰えないことに、多くの日本人は絶望し、生きる意味を見失った。
政府は、日本人の、食べ物に対する執着を甘く見ていた。
その粉を口内に運び入れると、甘い感覚が身体を包み、脳がとろけるような快感に支配される。
「ああ……ああ……」
一頻り快感を味わうと、男は再び、スプーンの上に白い粉を落とし始めた。
バタン!
唐突にドアが開き、部屋の中に、数人が雪崩込んできた。
何が起きたのか分からない内に、男は捕らえられ、身体の自由を奪われていた。
「糖質取締法違反の容疑で、逮捕する」
数秒の後、男は状況を理解し、観念した。現実は甘くなかった。
2019年、日本で、新たに糖質取締法が施行された。この法律の趣旨は、糖質を含む食物の、所持、譲渡、製造、摂取を禁止する、というものである。
この乱暴な新法が成立に至った理由は、糖質による被害が、いよいよ看過できない状況になってきたからである。
2000年頃、研究者達の手により、糖質には、強力な依存性が有り、また、人体への毒性も高いことが証明された。ここで言う糖質には、砂糖などの糖類はもちろん、米や小麦等の炭水化物も含まれる。人間が農業を習得してからというもの、糖質を多分に含む穀物が、比較的容易に、大量生産できるようになり、人類は長い間、糖質の毒に晒されてきた。糖質の摂取により、多くの人間が肥満になり、心疾患、脳血管疾患等を患うようになった。過去数年の、死因トップ10の多くの、真の要因は、実は糖質の摂取過多であったことが判明した。
しかし、唐突にそれらの事実を発表しては大きな混乱が起きる、と危惧した政府は、情報を小出しにすることで、日本国民が自発的に糖質の摂取を制限するよう画策した。
様々なメディアを駆使し、糖質の摂取過多は良くない、血糖値を上げないように、と啓蒙をした。糖質制限ダイエットなるダイエット法を喧伝し、糖質を摂取しないことで、魅力的な人間になれることを謳った。
しかし、そんな努力も虚しく、日本人の多くは、欲望のままに糖質を貪り続けた。「米は、日本人の心だ」などと宣いながら、毎日毎日、致死量すれすれの丼飯を喰い、「仕事の後はラーメンだ」などと叫びながら、毎夜毎夜、致死量オーバーの麺の塊を酒で流し込んだ挙げ句、身体が拒絶した糖質を道端や駅のホームにぶちまけ続けた。何年経っても、日本人は糖質を制限することができなかった。
政府は、日本人の、食べ物に対する執着を甘く見ていた。日本人は、大抵のことは笑って許すが、食べ物が絡むと途端に狭量になり、自律が利かなくなる。この現実を目の当たりにした政府は、もはや国民の自発性をあてにはできないと判断し、問答無用で、糖質を厳しく取り締まる法律を施行した、という経緯である。
なお、人工甘味料の類も取締の対象となった。実質的な糖質が0であっても、その甘味が、人間に、糖質への渇望を思い出させてしまうためである。
「下田! 今日は、帰りに寿司食ってくか」
上司である上田に、そう言われて、下田は、皮肉な笑いを浮かべながら応えた。
「もう、寿司は食えないですけどね」
「ああ、そうだったな」
上田は、若干、鼻白んだ様子だったが、すぐに笑顔を繕って言った。
「それでもまあ、寿司屋は寿司屋だ。行くだろ」
「おごりですよね」
上田は大袈裟に舌打ちをして、おどけてみせた。下田は、軽く息を吐いて、笑みを浮かべた。こうして、上司にたかるのが、下田の常套手段であった。
18時を回ったところで、上田と下田は、タイムカードに打刻をし、オフィスを出た。オフィスの入ったビルを出て、歩道沿いに10分ほど歩くと、店が見えてきた。『彩時記』――二人が、仕事帰りに、よく来ている寿司屋である。
上田が店のドアを開け、暖簾をくぐると、下田もそれに続いた。
「いらっしゃいませーい」
威勢の良いかけ声が、店内に響く。
二人が、案内されたカウンターに着くと、板前が言った。
「らっしゃい。いつもの感じで良いですか?」
上田が応える。
「ああ。それでお願い」
「はいよー!」
板前は、両の掌を打ち合わせ、小気味の良い音を立てながら、準備に取り掛かった。間もなく、二人の前に、幅広の笹の葉が置かれた。カウンターの客に対しては、笹の葉の上に寿司を置いていくのが、この店のスタイルだ。
二人の笹の葉の、向かって右の端に、黄色いものが乗せられた。ガリだ。上田が、早速、ガリの一枚を箸でつまみ上げ、口に放り投げる。
数回咀嚼した後、上田が言った。
「不味いな」
情けない表情で、板前が応える。
「そう言わないでくださいよ。なんせ、砂糖が使えないんでね。ガリにも甘みが付けられないんです。ただの酢生姜ですよ」
「そうは言っても、不味い。ああ、もう二度と、あの美味いガリを食べられないのかねえ」
少しうんざりしながら、下田が嗜めた。
「わざわざお店に来て、不味い不味い言うの、やめてくださいよ」
「しかし、不味いぞ。お前も、これ喰ってみろ」
言われて、下田は、喰いたくもないガリを口に運び、咀嚼した。
「うわ……不味い。今日のは格別に不味いですね」
二人のやりとりを聞いていた板前が、顔に諦観を浮かべながら言った。
「やっぱり、駄目ですか。実は、酢が変わったんですよ」
二人は声を揃えて、聞き直した。
「酢?」
「ええ。なんせ、豆類を除く、ほぼ全ての穀物の所持が禁止されてしまったので、今までと同じ酢は作れないんですわ。店に残っていた酢を、だましだまし使ってたんですがね、いよいよそれも底を突きまして、2日前からリンゴ酢を使うようになりました」
それを受けて、下田が応える。
「今のところ、果物はセーフなんですよね。もはや、甘い物はみな、悪魔の食べ物だと言わんばかりに、人工甘味料すら規制した割には、果物が規制対象外というのはよく分かりません」
つまらなそうな顔で、ガリを咀嚼し続けていた上田が言った。
「理屈が分かったところで、不味いものは不味い。いっそのこと、リンゴの果汁をそのまま入れたほうが、美味くなるんじゃないか」
「なるほど。今度、試してみますわ」
と、少し虚ろに返事をしてから、板前は急に元気を取り戻して言った。
「はい! まずはイワシから!」
二人の笹の上に、イワシの握りが置かれた。上田が、待ちきれないとばかりに、それを右手で掴むと、醤油を付けて、口に放り込んだ。シャリシャリという咀嚼音が、下田の耳まで届く。
「イワシは美味いけど、やっぱりシャリがなあ」
上田は、心底残念そうに呟いた。下田は、目の前のイワシの握りをつまみ上げて、まじまじと眺めた。当然ながら、シャリは酢飯ではない。大根である。ツマのように細く切られた大根が、シャリの代わりに、ネタの下に居座っている。
下田も、その風変わりな、しかし今となっては一般的な握りを口に放り込んだ。
シャリシャリと音を立てる、無駄に歯応えが良いシャリを咀嚼し、口の中のものを飲み込んでから、下田は言った。
「そう言えば、醤油は大丈夫なんですか?」
「お、よくぞ聞いてくれました。米麹が使えなくなってしまったので、豆麹でなんとか作ってるんですよ。あと、幸い、うちの醤油は、昔っから小麦を使ってないんです。一般的な濃い口醤油は、小麦を使ってるものが多いんで、今じゃ製造不可能みたいですが」
辛うじて小さな自信を保っている板前を見ながら、下田は考えた。刺し身と醤油で、美味く喰えるだけ、寿司屋はまだましだ、と。
他の外食店は、糖質取締法により、壊滅的な打撃を受けていた。特に、ラーメン屋の惨劇などは、正視に堪えないものであった。小麦が使えない以上、麺を作ることができないのだ。さらに、砂糖も料理酒もみりんも使えないため、スープはただただ塩辛いだけの脂汁になってしまい、あっという間に客足は遠のいた。一部の店は、麺の代わりにこんにゃくやしらたきを使ったが、悲しいかな、スープが全然美味しくないので、流行らなかった。一部の店は、チャーシュー専門店へと鞍替えをして、特大のチャーシューを塩辛い汁に浸して食べるという新しい食べ物を作り、こちらは少しだけ人気を得た。そば屋とうどん屋は早々に店を畳んだ。インド人の振りをしたパキスタン人が営む、インドカレー屋もほぼ全滅であった。ライスも、ナンも、チャパティも、カレーも、全て穀物ベースである。カレー屋は、店で出すものが無くなってしまった。一部の店はラッシー専門店となって生き残りを図ったが、砂糖の入っていないラッシーは日本人の口に合わず、惨敗を喫した。焼肉屋は、タレが使えなくなったものの、塩胡椒とワサビで食べるスタイルは、規制に関係なく継続できたため、他の飲食店よりはマシな状況であった。
ここ数ヶ月の間に、外食店を襲った未曾有の惨劇を振り返っていた下田が、ふと我に返った時、上田はワインを飲んでいた。
酒も、大半のものが規制された。米をベースにした日本酒は全滅。麦が原料のビール、ウィスキーなども禁止され、サトウキビを原料としたラム酒などは以ての外であった。選択肢として残されたのは、ワインやシードルなど、果実を原料にした酒と、芋焼酎など、分類上、野菜に属する原料を使用した酒のみであった。
ワインが回り、早くもほろ酔い状態の上田が言う。
「寿司にワインってのもなあ! ああ、日本酒が飲みてえなあ」
その時、店のドアがガラガラと開けられ、制服を着た警察官が入ってきた。彼は、店の中まで入ってきて、銘々の客が口にしているものを、丹念に見回した。規制された食品を食べている客が居ないか、店がそのような料理を提供してないかを確認しているのだ。
酔っ払った上田が、カウンターに向いたまま、警察官に聞こえるよう、大きな声で言った。
「あーあ。ガリは酸っぱいだけだし、酢飯は喰えねえし、日本酒も飲めねえ。なんで俺は、寿司屋に来て、ワイン飲みながら刺し身大根喰ってるのかねえ!」
店内の空気が一気に張り詰めた。周囲の客らも黙り込み、皆、視線は向けずとも、上田と警察官のやり取りに意識を傾けている。
上田は、椅子に座ったまま、警察官のほうへと向き直り、怒りを露わにした。
「米を喰ったり、日本酒を飲むのが、そんなに悪いことなのかね」
表情を固くしたまま何も言わない警察官に、上田が続けて怒声を浴びせた。
「喰ってみろ! この不味いガリをよ!」
「いちいち、不味いって言わないでくださいよ」
情けない顔で、懇願するように板前が言った。
警察官が、上田にほうへと歩み寄ると、上田は身構えた。
「何だ? やろうってのか?」
警察官は、右手を伸ばすと、素手でガリを一枚つまみ上げて、口へと放り込んだ。数回の咀嚼音の後、警察官の顔が苦痛に歪む。
「無言で不味そうな顔をしないでくださいよ」
情けない顔で、懇願するように板前が言った。
上田は、さらに続けて、怒りをぶちまけた。
「俺らは、この先、一生こんなもんしか喰えないのかよ! 糖質を摂るってのは、そんなに悪いことなのか?」
「知っての通り、糖質摂取は違法になったんだ。ご理解願いたい」
「あんたらだって、去年の今頃は、寿司やラーメンを喰って、日本酒で一杯やっていただろう? それが今じゃ、糖質摂取者を麻薬ジャンキーみたいに扱いやがって」
「糖質は、身体に害が有ると、科学的に立証されたんだ。あなたの健康の為にも、摂らないに越したことは無い」
「この先、また違う喰い物も、実は身体に悪かったとか言い出して、俺らが喰うものは、その内、全部規制されちまうんじゃないのか?」
「それを、私に言われても困る」
「喰いたいものも喰えずに、ただ長く生きることが、そんなに素晴らしいことなのか?」
政府が、糖質取締法の施行に踏み切った理由は、確かに、国民の健康を促進するためではあったが、それは、国民の幸福を考慮してのことではなかった。糖質の被害により、働き盛りの国民が病気になり、生産性が落ちる、あるいは働けなくなるといった、労働力の低下を防ぐことが主目的であった。
しかし、数年後、政府は糖質取締法の撤回を余儀無くされる。自殺率が急増し、糖質取締法の施行前よりも、労働力の減少が懸念される事態に陥ったためである。規制の前後で、労働環境は変化しておらず、日々、新たに発生するストレスの量は変わらないにも関わらず、ストレスを発散する手段だけを減らされてしまったからだ。また、この先、生涯を通じて、ろくに美味いものが喰えないことに、多くの日本人は絶望し、生きる意味を見失った。
政府は、日本人の、食べ物に対する執着を甘く見ていた。
0
この作品の感想を投稿する
みんなの感想(1件)
あなたにおすすめの小説
わたしの下着 母の私をBBA~と呼ぶことのある息子がまさか...
MisakiNonagase
青春
39才の母・真知子は息子が私の下着を持ち出していることに気づいた。
ネットで同様の事象がないか調べると、案外多いようだ。
さて、真知子は息子を問い詰める? それとも気づかないふりを続けてあげるか?
そのほかに外伝も綴りました。
母の下着 タンスと洗濯籠の秘密
MisakiNonagase
青春
この物語は、思春期という複雑で繊細な時期を生きる少年の内面と、彼を取り巻く家族の静かなる絆を描いた作品です。
颯真(そうま)という一人の高校生の、ある「秘密」を通して、私たちは成長の過程で誰もが抱くかもしれない戸惑い、罪悪感、そしてそれらを包み込む家族の無言の理解に触れます。
物語は、現在の颯真と恋人・彩花との関係から、中学時代にさかのぼる形で展開されます。そこで明らかになるのは、彼がかつて母親の下着に対して抱いた抑えがたい好奇心と、それに伴う一連の行為です。それは彼自身が「歪んだ」と感じる過去の断片であり、深い恥ずかしさと自己嫌悪を伴う記憶です。
しかし、この物語の核心は、単なる過去の告白にはありません。むしろ、その行為に「気づいていたはず」の母親が、なぜ一言も問い詰めず、誰にも告げず、ただ静かに見守り続けたのか——という問いにこそあります。そこには、親子という関係を超えた、深い人間理解と、言葉にされない優しさが横たわっています。
センシティブな題材を、露骨な描写や扇情的な表現に頼ることなく、あくまで颯真の内省的な視点から丁寧に紡ぎ出しています。読者は、主人公の痛みと恥ずかしさを共有しながら、同時に、彼を破綻から救った「沈黙の救済」の重みと温かさを感じ取ることでしょう。
これは、一つの過ちと、その赦しについての物語です。また、成長とは時に恥ずかしい過去を背負いながら、他者の無償の寛容さによって初めて前を向けるようになる過程であること、そして家族の愛が最も深く現れるのは、時に何も言わない瞬間であることを、静かにしかし確かに伝える物語です。
どうか、登場人物たちの静かなる心の襞に寄り添いながら、ページをめくってください。
予言姫は最後に微笑む
あんど もあ
ファンタジー
ラズロ伯爵家の娘リリアは、幼い頃に伯爵家の危機を次々と予言し『ラズロの予言姫』と呼ばれているが、実は一度殺されて死に戻りをしていた。
二度目の人生では無事に家の危機を避けて、リリアも16歳。今宵はデビュタントなのだが、そこには……。
『お前を愛する事はない』なんて言ってないでしょうね?
あんど もあ
ファンタジー
政略結婚で妻を娶った息子に、母親は穏やかに、だが厳しく訊ねる。
「『お前を愛する事は無い』なんて言ってないでしょうね?」
冤罪で辺境に幽閉された第4王子
satomi
ファンタジー
主人公・アンドリュート=ラルラは冤罪で辺境に幽閉されることになったわけだが…。
「辺境に幽閉とは、辺境で生きている人間を何だと思っているんだ!辺境は不要な人間を送る場所じゃない!」と、辺境伯は怒っているし当然のことだろう。元から辺境で暮している方々は決して不要な方ではないし、‘辺境に幽閉’というのはなんとも辺境に暮らしている方々にしてみれば、喧嘩売ってんの?となる。
辺境伯の娘さんと婚約という話だから辺境伯の主人公へのあたりも結構なものだけど、娘さんは美人だから万事OK。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる
本作については削除予定があるため、新規のレンタルはできません。
このユーザをミュートしますか?
※ミュートすると該当ユーザの「小説・投稿漫画・感想・コメント」が非表示になります。ミュートしたことは相手にはわかりません。またいつでもミュート解除できます。
※一部ミュート対象外の箇所がございます。ミュートの対象範囲についての詳細はヘルプにてご確認ください。
※ミュートしてもお気に入りやしおりは解除されません。既にお気に入りやしおりを使用している場合はすべて解除してからミュートを行うようにしてください。
美味いモノは沢山食べたいですよね。
人肉だって、耐性できるんですから、ずっと食ってりゃ問題ないね!
美味いモン、沢山食べたいです。
面白かったです
いろいろ読んでくださってありがとうございます。
最終的には、長生きよりも、
美味いもの食べたいという欲求が勝ちますよね。