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 すぐ傍で土の香りがする。素肌に触れる風が冷たい。
「……んっ」
 リリーは冷えた身体をぶるりと震わせ、眠い目をなんとかこじ開けた。
 その視界に飛び込んできたものは、雑草が生えただけのなんの変哲もない地面。
 どうやら地べたで寝ていたらしい。
「あら、やっとお目覚め? せっかくの綺麗な金髪ブロンドが砂だらけよ、リリー」
 少女たちのくすくす笑いが降ってくる。聞き知った声は嘲笑にも聞こえて、リリーはうんざりしながら起き上がろうとした。
 ところが身動きが取れない。なんとか体を持ち上げようともがいているうちに、後ろ手に縛られ、両足も紐で結びつけられてしまっていることに気づく。
「えっ!? なにこれ。どうして……?」
 リリーは何度か勢いをつけて身体を捻り、ようやく上体だけ起こすことに成功した。ホッとしたのも束の間、己の体を見下ろせば、着ていたはずのドレスはどこかに消えてしまい、フリルとリボンで守られているだけの下着姿になっている。どうりで寒いわけだ。
「ローザ……? イザベル、ダイアナ、これは一体なんなの?」
 リリーは呆気にとられながら、離れたところに立つ顔見知りの貴族令嬢三人の名前を呼んだ。
 ついさっきまで街外れの公園の東屋で、この三人とリリーは退屈な午後のお茶会を催していたはずである。それがなぜ、自分だけ下着一枚で地面に転がっているのか。
「これからあなたを悪魔の生贄にするのよ」
 ローザがふふんと鼻の頭に皺を寄せ意地悪な表情でそう言うと、イザベルとダイアナがわざとらしく「きゃあ、怖ーい」と悲鳴を上げる。
 しかしリリーはなにが怖いのかわからなくて、小首を傾げた。
「……生贄? 悪魔? ……唐突になんの冗談なの?」
 ずいぶんと前近代的な単語がローザの口から出てきたものだ。彼女は神学や宗教学に熱心だったかしら?
 リリーがまじまじと見つめるものだから、ローザは馬鹿にされていると感じのか、顔を朱色に染めて怒りを露わにする。
「まあっ! 自分がどれだけ性悪な女かわからないっていうの!? ディルク様もお兄様も、あんたのことばっかり。男爵家の娘なんてあの方たちには釣り合わないんだから!」
「えぇ?」
 ディルク様って、それ誰だっけ? という言葉はなんとか飲み込んだ。そんなことを言えばローザの怒りに油を注ぐのは目に見えているし、少しだけ聞き覚えのある名前だ。
 たしか……どこかの伯爵家の跡取り息子だったような? ローザのお兄様のお友達だったかしら?
 会った覚えもない。ただ、知る機会があったとすれば、王宮で開かれた先日の舞踏会だろう。
 あの時は国中から貴族が集まり、リリーやローザたちは婚期を迎えた年頃の姫君として社交界にお披露目されたのだ。
 賑やかで豪華絢爛な集いではあったけれど、リリーはダンスを申し込んできたたくさんの男性たちに関心が持てなかった。むしろ、王宮の建築構造とか、ホールに飾られているタペストリーの由来を説明する執事の話にばかり意識が向いていたのだった。
「私が性悪かどうかは置いておいて、男爵家程度の娘である私が釣り合わないのは同意だわ」
 リリーはにっこりと微笑んで言った。
 ローザが向ける敵意は、リリーがディルクや兄の興味をひいたことによる嫉妬なのだろう。そんなちっぽけで子どもっぽい感情をぶつけられるのは勘弁してほしい。
 ローザの『お気に入り』を奪うつもりはないと意思表明したつもりだったが、ローザはそんなリリーの態度にカチンときたようだ。
「なによっ、いつもそうやってお利口ぶって、内心で自分は特別だって思ってるんだわ! 私たちのことも馬鹿にして!」
「心外だわ。私、今までそんなふうに思ったことない。……でも、さすがに今日はあなたたちを見損なったけど」
 嫌いだからって相手の服を脱がして手足を縛って冷たい土の上に寝転がすなど、貴族令嬢のやることではない。
 リリーが軽蔑のこもった視線を向けると、イザベルとダイアナは臆して目を逸らした。
 美しく整った顔立ちのリリーだからこそ、冷ややかな表情になると迫力が生まれる。
 しかし、ローザだけは負けじとリリーに噛みついてきた。
「ふ、ふん。周りをよく見てみなさいよ! 魔法陣が描いてあるでしょ! これからあなたを生贄にして悪魔を呼ぶの。だけど、泣いて謝るなら許してあげないこともないんだから!」
「えぇ……? あなた、本気で言っているの?」
 なぜこんな『生贄ごっこ』に付き合わなければならないのか。仕方なく地面をぐるりと見渡したリリーだったが、次には目を疑った。思わず感嘆の声を上げることになった。
「まあ……! すごい、すごいわ! この地面に描かれた幾何学模様、とても見事だわ! なんて美しいの!」
 リリーの座る場所を中心にして、地面にいくつもの大きな円や図形が白墨かなにかで緻密に描かれている。さらにその周りには文字や記号が等間隔に並び、まるで大聖堂のタイル画のように荘厳な雰囲気を醸し出しているではないか。
 リリーは熱っぽい目で地面をひたすら見つめ、独り言にしては大きな声で呟いた。
「こんなに大きな正円をきっちり描くのは大変な作業よね。でもコンパスの要領ならいけるかしら。そして……これはどこの国の文字? ああ、読めないなんて悔しいっ! これを描いたのは一体どこのどなた!?」
 勢いよく顔を上げ瞳を爛々と輝かせるリリーに、ローザとイザベルが引き攣った表情のまま隣の少女に目を向ける。
「まあ! ダイアナなのね! あなた、素晴らしい才能をお持ちだわ!」
「あ……ありがとう。その魔法陣は、おじい様の図書室にあった本を描き写しただけなんだけど……」
「ああ、なるほど! ダイアナのお家は王家に連なる古い歴史がありますものね。きっと由緒ある本なのでしょう? ぜひ私にも見せてもらえないかしら?」
 初めて見る文様、解読できない文字。リリーが興味を持つには充分だ。彼女の探究心と好奇心は底なし沼なのであった。
 一方のローザは、『生贄ごっこ』で脅すつもりが逆効果だったとようやく悟ったらしい。憤懣やるかたない様子で、人差し指をリリーに突きつけた。
「ふざけないで! あんたみたいなつまらない勉強馬鹿はさっさと消えてよ。もう泣いて謝ったって許してあげないんだから! 悪魔にでもなんにでも攫われなさいよっ!」
 もはや半泣きなのはローザの方である。思いつく限りの悪態の言葉をリリーにぶつけて息巻いた。
 すると――
「やあ、賑やかなお嬢さんたちだね」
 若い男の声がリリーの背後から聞こえてきた。
 慌てて首を捻って振り返ると、知らない青年が柔らかな笑みを湛えてリリーのすぐ後ろに立っている。
 あまりにもひっそりと静かな雰囲気をまとっていたので、今まで彼の存在に気づかなかった。
 黒く艶やかな長い髪と黒水晶を思わせる瞳。目鼻立ちのはっきりした顔は息を呑むほど美しい。
 見上げるほど上背のある男は上質な素材の衣服を纏っている。帽子もコートも靴まで全て黒色で、まるで夜の世界から抜けてきたかのようだ。
 突然に現われた美丈夫を皆は呆気にとられて眺めていたが、最初に口を開いたのはローザだった。
「まあ、あなたは誰? どなた?」
「ひどいなぁ。僕を呼び出したのは君たちだろう?」
 男は軽口を叩きながらニッコリと微笑んだ。それから、足元のリリーを覗き込む。
 つい目がかち合ってしまったリリーは、慌てて身を縮こませた。自分は下着姿のままであり、手足は縛られた状態だ。見ず知らずの男性にそんなみっともない姿を晒す羽目になるとは。
 羞恥心よりも情けなさがいっぱいで焦るリリーだったが、男は屈んで彼女の髪を一房、そっと手に取った。
「これはこれは、なんと美しい仔羊だ。これほどの供物を捧げたのなら、魔法陣で僕を呼び出せたのも納得かな」
 男はそう言って、リリーの髪に優しく口づける。
「なっ!?」
 愛おしむような髪へのキスに、リリーは驚いて思わず声を上げた。こんなふうに男性から触れられるなんて初めてのことで、戸惑うしかない。
 そして、男の声は柔らかで心地がよいくらいなのに、紡いだ言葉はずいぶんと浮世離れしているものだった。
「ひっ……! あ、あなた、悪魔なの!?」
「冗談でしょう? 悪魔なんているはずがない。きっと私たちの話を盗み聞きしていたんだわ」
 ダイアナが悲鳴を上げ、イザベルが男を非難する。
 リリーは、イザベルの意見にまったく同感だった。悪魔なんてものは空想の産物で、本の中にのみ存在するものだ。
「……君たちは面白いね。僕を呼び出しておきながら、悪魔である証拠を見せろと言うのかい?」
 少女たちから疑いの眼差しを一身に受けた男は、やれやれとばかりに肩をすぼめてみせる。
 その瞬間、激しい風が吹いた。轟々と音を立てる空を見上げれば、さっきまで晴天だったはずなのに、今は黒灰色の雲が大きな渦を巻いている。禍々しさすら感じさせる天候だ。
「なに……これ……」
 四人の少女たちは天を仰いだまま唖然とする。
「ほら、これでいいかい?」
 次に男がそう言った時には、頭上には雲一つない青空が広がっていた。小鳥が囀り、穏やかな日差しが降り注いでいる。先ほどとなにも変わらない。
「……嘘」
 ぼんやりと呟くリリーに男は再び笑顔を寄越し、それからローザたちへ向き直った。
「さあ、僕を呼び出したお嬢さん方、さっさと願い事を言いたまえ。この悪魔が対価と引き換えにあらゆる願いを叶えてやろう」
「えっ? 願い……?」
 呆けたような表情でローザが聞き返す。
 すると今度は男が不思議そうな顔になった。その表情には悪魔だなんて想像もつかないくらいの人懐っこさがある。
「おや、悪魔を呼び出すからには、なにか願い事があったんじゃないのかい? 僕の力を借りるためにこうして上等な生贄まで用意して魔法陣を描いたんだろう?」
 男が屈託なくそう言うものだから、ローザはぐっと詰まってしまった。実際のところは、怯えて泣き喚くリリーを眺めてスッキリしたかっただけだ。まさか本物の悪魔が出てくるなんて思わない。
 ローザは一生懸命に考えあぐねながら男に訊ねる。
「ね、願い事ってなんでも叶うの? どんなことでも?」
「もちろんだとも。国中の男が君に求婚したくなるようにだってできるよ。それとも世界中の宝石を独り占めするかい?」
 ローザの目が大きく見開かれた。おそらく彼女はこの悪魔の甘言にかなり魅力を感じているのだろう。
「待って、ローザ。悪魔は願いを叶える代わりに対価を求めるのよ。おかしなことを言ってはだめ」
 さっき悪魔自身が言っていたことをリリーが急いで忠告すると、ローザはムッと言い返した。
「そ……そんなこと、わざわざあんたに教えてもらわなくたって知ってるわよ。それで、対価ってお金ですの? おいくらかしら?」
 つんと上を向いて居丈高に応じるローザに、悪魔が冷笑を浮かべる。
「まさか! 人間の貨幣など悪魔にはなんの価値もないよ、お嬢さん」
「じゃあ……対価ってなんなの?」
「それは君の願い事次第だね。例えば、君の美しい手首とか、その綺麗な緑の目玉とかかな」
 さらりと告げられた不穏な言葉に、ローザもリリーも息を呑む。
 やはり悪魔というべきか。手首も目玉も、寄越せと言われてもそう簡単に渡せるものではないし、恐ろしい提案だ。
 しかし、ローザは頬を膨らませながら、悪魔の足元にいるリリーを指差した。
「なんでよ!? そこにリリーがいるじゃない! リリーを対価にすればいいわ!」
「ちょ、ちょっと。私の名前を勝手に挙げないで!」
 なんでそうなるのか。自分の手首や目玉の代わりに、本気でリリーを引き渡す気なのだろうか。
 ローザの態度には、当のリリーも怒るというより呆れてしまう。
「おやおや、リリーは僕を呼び出すための生贄だったろう? 対価というのは願いを叶えてもらう人間自身が支払うものだ。さて、リリーは君の所有物なのかい?」
「……えっ。所有しているわけじゃないけど……」
「それじゃあ、リリーは対価にならないね」
 悪魔はあっさりローザの意見を退けたので、リリーは胸の内で安堵した。少なくとも、悪魔はリリーを使ってローザの願いを叶える気はないらしい。
「きゃっ!?」
 ホッとしたのも束の間、ふいに男がリリーを抱きあげたのでとっさに叫んでしまう。
 秀麗な顔と距離が近すぎるくらい近い。剥き出しのリリーの肌が男の体温を感じてしまい、居心地の悪さに身を捩るが、彼の腕はがっちりとリリーを閉じ込めて離さない。
「さて。他に願い事がないのなら、僕は生贄を連れて帰るとするよ。じゃあね」
「えっ!? ちょっと待って!」
 リリーは慌てふためいた。連れて帰るとはどういうことか。リリーの意志なく勝手にそんなことを言われても困るのだ。
 どうにかしてこの悪魔の腕から逃れようともがくものの、なぜか少しずつ目線が下がっていく。リリーを抱えたまま、男の身体が魔法陣の中にずぶずぶと沈んでいるからだ。
「やだ、離してっ」
 暴れたくても、手足が縛られたままでは身動きもままならない。
 助けを求めようと三人の令嬢へ目を向けると、腰を抜かした彼女たちは身体を寄せ合い、怯えた表情でリリーを食い入るように見つめている。
「せ、せめて私の服を返して――」
 ささやかな願いは最後まで言うことができずに、リリーの身体は大地の中へ飲み込まれていった。
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