エリス

伏織綾美

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二章

2-2

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「中村ー!」
 
 
万が一他の人が入っていた時のための確認か、クレアが外から呼び掛ける。
 
中村は応えず、便器に両足を乗せようと壁に手をついた。 トイレットペーパーのホルダーに右手を乗せて体重を掛けたが、固定しているネジが緩んでいたのかいとも容易く壁から外れた。 それが床に落下した音を聞いて、女子達が甲高い笑い声を上げる。
 
 
隣の個室に誰か入ってくる気配がした。 今の中村と同じように便器に登り、こちらに入ってくるつもりか。
 
 
恐怖のあまり動けなくなった。 誰かが私を痛め付けにやってくる。 逃げなくてはならないのに逃げられない。
 
 
隣の便器に体重が乗るギシッという音のあとに、個室を仕切る板を一対の手が上から掴む。 手伝っている人間が居るのか、「ごめんね、肩に足乗っけるね」と気遣う優しい声がする。 やはりクレアの声だった。
 
 
いじめているボスが、こんな状況で手下(本人共々自覚はなさそうだが)に「ごめんね」なんて気遣ったりしないような奴だったら、中村はクレアを殺してやりたい程憎んだだろう。
 
 
クレアは誰にも優しい。 夏休み以前は私にだって優しかった。 なのに、今では私にだけ冷たい。
 
中村自身は何も悪いことはしていないのに、クレアがこんなにも自分をいじめるなんて、もしかしたら何か不可ないことでもしたのかとすら思える。 あのクレアにここまでさせるとは、と。 きっと皆も同じことを考えているから協力するのだ。
 
 
足を掛け、「よいしょっ!」と仕切り板をまたいでクレアが現れた。 中村を汚物を見るように見下し、「おい」と低い声を出す。
 
 
「わたしに怪我させる気か?」
 
「…………え?」
 
「壁に手ぇ突いて踏み台になれ」
 
 
意味が解らないまま見上げている中村の顔に向かってクレアの足が伸びる。 届きはしないが、彼女は蹴られると思って仰け反った。
 
 
「早くしろ」
 
 
クレアの大きな瞳の瞳孔が極限にまで広がっているのを見て、中村はゆっくりと便器に向かい合う形で立った。 トイレのタンクの後ろの壁に手を突くと、頭を垂れて腰を曲げ、クレアが降りやすいように踏み台になった。 あまりの屈辱に溢れた涙が、頭の真下にある便器の中に落ちた。
 
 
クレアの足が肩甲骨の間に乗り、彼女の体重が身体にのし掛かる。 仕切り板を跨いだクレアは、中村の踏み台から直ぐに床へと着地した。
 
後ろで結んでいた髪の毛の束を引っ張られる。 抵抗するが逃げることは出来ない。 なんとか後ろを向いてクレアの身体を壁に押し付けながら扉の鍵を開けるが、開かない。
 
 
「てめぇ!」
 
 
押されて怒り狂ったクレアが中村の髪を掴んだまま反対側の仕切り板に突き飛ばす。 彼女は休ませてくれずに、直ぐに髪を引っ張った。
 
 
 
 
 
床に尻餅をついた中村の頭を両手に掴んで、クレアは便器の方へ向かせた。 トイレットペーパーの沈む濃い尿の色に染まった便器の水。 そこ目掛けて頭をグイグイと押し始めた。
 
始めの数秒はなんとか抵抗して逆らえたが、クレアの恐ろしいほどの腕力に負け、どんどんと頭を押され、ついに便器の中に顔が入った。
 
目の前にある黄色い水から漂う自らの尿の臭いにむせ、便座を両手で掴んでなんとかふんばった。 だがクレアは中村の首の骨でも折りたいのか、全体重をもってしてのし掛かってくる。 手に汗が滲んでくる。
 
 
個室の外では他の女子らの声がうるさいが、実行しているクレア自身は非常に寡黙だった。 無表情で中村の頭を便器に突っ込もうとしている。
 
 
しばらくの間攻防が続いたが、ついに勝負がついた。
緊張のためか汗ばんできた中村の左手が滑り、彼女の顔は便器の水に沈められた。 後頭部の髪を鷲掴みにしたクレアが水から顔を上げさせると、また便器に沈めた。 それを何度か繰り返すと、辺りの床に水が飛び散った。
 
 
散々水攻めをされたあと、今度は便器と仕切り板の間に突き飛ばされ、中村の身体がすっぽりと間に収まった。 クレアは彼女の顔を踏みつけ、二度三度と床に叩きつける。
 
 
「お前の汚い小便、溢した本人が舐めて掃除しろよ、クズ」
 
 
衝撃のあまり声が出せなくなった中村の頭を、クレアは強く蹴った。 反動で後頭部が床にぶつかり、中村の意識は遠退いた。
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
うっすらと意識が現に戻っていく中、通学カバンにフェイスタオルを入れていたことを考えていた。 トイレのタイルの上で仰向けに倒れている中村を心配して、顔を覗き込み呼び掛けるような人は居ない。 そうと解っていながらも、目を開いて辺りに誰か居ないかと、身体を起こして見回してしまう。 結局、誰も居ない事実に虚しくなった。
 
 
トイレの個室の扉は開いていた。 個室の前にはモップと水の入ったバケツが放置されており、自分が酷い狼藉をされたことを再確認する。 その水を上から掛ける予定もあったらしいが、中村が気絶した上に休み時間が終わったので、そのままにして教室に帰ったのだろう。
 
 
頭が痛かった。 蹴られて床にぶつけた後頭部に手をやると、腫れ上がっているのが解った。 立ち上がって、トイレのレバーを引いて水を流す。 制服から立ち上るアンモニアの臭いに涙腺が刺激される。
 
 
「もう嫌だ……」
 
 
死んでしまいたい。
本気でそう思った。
 
学校ではいじめに遭って、家では父親に脅かされ。 一体、この世界の何処に中村の居場所があるのだろう?
 
 
 
 
 
 
 
真っ暗なトンネルの、奥の奥にまで入り込んでしまい、右も左も判らない。 目の前にはただ何もない。 闇ばかりで何もない。
 
若く幼い中村には、自分がどうすれば良いのか全く見当が付かなかった。 この苦しいいじめからどう逃れれば良いのか、そのためには誰を頼れば適切か。
はたまた自分は死ねば良いのか。 首でも吊って死ねれば楽だろう。 飛び降りるのも、手首を切るのも、とにかく死ぬなら何でもいい。
 
 
 
 
 
 
 
 
………………………
………………
………
 
 
 
 
 
私達が教室に帰って授業を受けている間、中村はずぶ濡れのままで女子トイレの床に座り込み、放心状態だったようだ。 授業が終わり皆が昼食を始めた頃、中村は戻ってきた。
 
 
「うわっ! ちょっと、汚い!」
 
 
トイレの水を被った彼女の姿を見て、クラスメイトの誰かが叫んだ。 窓際の席で弁当を食べていた私やクレアの所にさえ、その臭いは届いた。
 
教室に居た生徒のほとんどが立ち上がり、中村から逃げるようにして離れて行く。 そんな中彼女は虚ろな表情をして、幽霊のように自分の席まで来ると、横に掛けてあるカバンを取った。
 
 
「…………」
 
 
クレアは何も言わなかったし、言うつもりもなさそうだった。 目をしっかりと見開き、口元がわずかに笑みを作っているのが、なんともおぞましく感じた。 中村の次の動作を心待ちにしていた。 その理由を、私は知っている。
 
 
中村はカバンを右手に持ち、ゆっくりと身体の向きを変え、教室から出て行った。 クレアが「早退する気だよ。 つまんない」舌打ちしながら言った。
 
 
「ま、いっか。 また明日、何をしようかな」
 
 
 
 
 
 
 
 
………
………………
………………………
 
 
 
中村の両親は共働きなので、早退して帰宅した家には誰も居なかった。 濡れた制服を着替えもせず、毎日歩いて通っている距離が幸いだった。 玄関でセーラー服の上を脱ぎ、スカートも脱いだ。 さすがに全裸は無理だったが、靴下も脱いで家に上がった。
 
 
夏服だったので丸洗いが出来る。 脱衣場で制服を洗濯ネットに入れ、洗濯機に放り込んでスタートボタンを押した。
 
白い下着も湿って気持ち悪かったので序でに外し、一緒に入れて蓋を閉める。 ついに素っ裸になった中村は脱衣場から出ると、真っ直ぐに二階の自室へと向かった。
 
 
 
 
 
 
自室で服を着たあと、母親に連絡するためにカバンに入れてある携帯電話を取ろうと、カバンのチャックを開けた。
 
 
「…………っ」
 
 
何かの毛が見えた。 小さな前足が見えた。 目玉が飛び出し、苦痛と血にまみれた顔が見えた。
 
 
それを見て驚きはしたが、すぐに理解した。 ――――クレアの仕業だと。
 
もはやこんな事に一々ショックを受ける程、今の中村の心は健康ではなかった。 ぼろぼろの子猫の轢死体を躊躇無しにカバンから掴み出すと、部屋を出て一階に降りた。 玄関で靴を吐いて、死体を庭へ埋めに行った。
 
 
何を思ったか、中村は安らかな微笑みを浮かべていた。
 
 
 
 
 
 
 
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