エリス

伏織綾美

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八章

8-4

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20××年 10月28日 金曜日
 
 
 
 
午前6時丁度に、携帯の着信音で目が覚めた。 竹山クレアは目を擦りながらベッドの横にあるテーブルを見た。
 
 
アラームとは違う音と共に、彼女の携帯はバイブレータで震えていた。 それは少しずつ動いていき、テーブルから落ちそうになるところで捕まえた。
 
着信は電話で、表示は非通知だった。
 
 
「もしもし?」
 
 
 
 
 
 
『……いいなぁ』
 
 
 
 
 
相手の声を聴いて、クレアの背筋に冷たいものが走った。 眠気が一瞬にして吹き飛び、ベッドの上に起き上がる。
 
 
『万引きしたくせに、自分を守ってやった人間をいじめるなんて』
 
「…………」
 
 
あの日からずっと彼女に付きまとってきた罪悪感が、また渦を巻き始める。 わなわなと唇を震わせながら、脳に酸素を行き渡らせようと必死に呼吸する。
 
 
『こんなに最低なクレアちゃんのこと、皆に知られたらどうなるのかなぁ。
 
 いや、そんなことより、クレアちゃんに「申し訳ない」って気持ちはあるの? 今までわたしがあじわってきた痛みを、クレアちゃんは想像できる?
 ひどいよね。 自分の罪を擦り付けるなんてね。 クレアちゃんはクソ女だよね』
 
「……………」
 
『それなのに、皆はわたしよりもクレアちゃんを信じるんだもん。 いいなぁ、クレアちゃんって』
 
 
静かに自分を責める声に負け、クレアは涙を流し始めた。 本当はあんなことしたくなかった。 しかし自分を守ることしか頭に無かったために加減も忘れた。 「中村」には本当に申し訳ないことをしたと思っている。 その気持ちに偽りは無い。
 
 
ごめんなさいと何度も口に出すクレア。 その耳元で淡々と「中村」が指示をだす。 体育館、トイレ、一番奥の個室、便座の裏に注射器と薬がある―――――…………。
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
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20××年 8月15日
 
 
 
 
 
「大丈夫?」
 
 
中村は死のうと思っていた。 だがなかなか踏ん切りがつかず、そこに座り込んでいた。
 
 
クレアの代わりに万引き犯になった代償は、とても大きかった。 店の事務所で警察が来るのを待ってる間、ずっと逃げ出すことを考えていた。 だが目の前に店員が居るこの状況では、彼女にはどう考えても無理だった。
 
 
やがてやって来た警察官二人にパトカーに乗せられ、観念した。 交番に連れて行かれ、小さな部屋の中で少し話を聞かれた。 両親の連絡先、通っている学校はどこか、どうして万引きをしたのか。
 
 
一通り話すと、警察官は部屋を出ていった。 窓が一枚あるだけの殺風景な部屋の中で、中村は父親という悪魔がここにやって来ることに、死を覚悟した。
 
 
ここでわたしを殴り殺してくれれば、丁度警察も居るわけだし、逮捕してくれるだろう。 そして死ぬまで塀の中で暮らせばいいのに。
 
 
 
 
 
しかし、30分ほどして現れた彼女の父親は、吐き気がするほどに優しかった。 娘がご迷惑をお掛けいたしましたと警察官に丁寧に謝り、今日のところは帰ろうと中村に笑いかけたりもした。
 
 
しかし中村はその目が怒りに満ちていることを、よく知っていた。
 
 
 
 
 
 
 
帰宅してすぐ、彼女は殴られた。 母親が遅れて帰ってくるまで、玄関で靴も脱がずに、父親は中村を足蹴にし続けた。 母親はあまりにも激しい暴力に、驚いて止めに入った。
 
 
自分の部屋へ行けと言われ、中村は一目散に家の中へと走って行った。
 
自室に逃げ込むと、父親と母親の言い争う声が聞こえた。 母親が父親を怒鳴っているのが解る。 中村の知る限りそんなことは生まれて初めてだった。
 
 
痛みに呻きながら汚れた服を脱いで着替えてから、本棚の一番下に置いていた日記を取り出した。
 
 
何があったのかを書いていると、途中で母親が部屋に来た。 しばらく出掛けてこいと言う。
 
 
 
 
 
母親からいくらかの小遣いを受け取り、家を出た中村は駅に向かった。そのお金を全額電子マネーにチャージして、適当に目についた所所を行先に定め、電車に乗った。後で母親が付けている家計簿に書けるよう、きちんと領収書を出した。
 
 
そして辿り着いた街は、中村が全く知らない土地だった。
 
 
 
 
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