極上の女

伏織綾美

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八章

8-1

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「小木さん」

「ぅあい、なんすか」

「今、立ったまま寝てましたよね?」

「そんなことぁ、ないさ」


そう言いつつも小木さんの口元は涎で光っていた。そのまま声を掛けずに静観していたかった気持ちもあったが、さすがに客が来たら不味かろう。


「寝ながらでも作業はちゃんとこなしてましたよ」

「まあね。俺、天才だから。
 あ、寝てないけどね」


レジカウンターに買取りで来た本を並べながら、私は苦笑した。小木さんのような人が近くにいると、こちらのストレスが軽くなる。仕事ぶりも優秀だし、人当たりもいい。脱力した接客態度は玉に瑕とも言えるが、こういう古本屋ならばあまり問題にもならない程度だ。


「小木さん、ここで働けて良かったですか?」

「何さいきなり。盗聴でもしてんの?俺が失言したら店長か社長にチクる気だろ。ぶっとばすぞ」

「いや、なんとなく聞いただけですよ…。
 私、今まで働いてきた中で堀さんみたいな上司はほとんど居なかった___っていうか、初めてだから、ちょっと戸惑うんすよ」

「あれは戸惑わない方がおかしい。お前のそれは正常。
 人語を理解するナメクジだと思え」

「ひどいっすね」


まあ、そんな風に考えて軽く流すのも手、ということか。要は、馬鹿正直に振り回されないようにしろと。


「それにしても、お前堀さんになんかしたの?超嫌われてんじゃん。それはそれでウケる」

「ウケないで下さいよ。私も理不尽すぎて戸惑ってるんですから」


ここの所、堀さんの私への態度は一層悪くなっていた。口は一切利かなくなり、私が彼の身の回りのものを触ったりしたら、それを神経質にウェットティッシュで拭く。私はそれを気にして除菌ジェルを頻繁に使うようになった。だが彼は私が触れたものを拭き続ける。

意味が解らないし、悲しい。そこまでされるようなことをしただろうか?
そりゃあ、1発頬を叩いたり暴言もいくつか吐いた。私ももう少し我慢が必要だったかも知れないが、そうなった原因を作ったのも堀さん自身である。


人に辛く当たられるのは今まででもよくあったが、だからといって慣れてるわけじゃない。生来とくに人間関係に対して、白は白黒は黒とはっきり区切って行かないと気持ちが悪くなる性分なので、この状況は大層しんどい。

というのも、彼は私とは口を利かないし触ったものを拭くが困った時はさり気なくフォローしてきたり、時たまロッカーに差し入れのお菓子を置いていったりする。好意があるのか嫌いなのか、どっちだ。

ここまで理解に苦しむ人の行動は初めてだ。

とりあえず、今は意味が解らないを通り越して、腹が立っている。




先方は今奥の休憩スペースでパソコンに向かって何やらしている。いや、仕事なんだろうけど。


「本人に訊いてみたら?今から」

「え、なんで今なんすか」

「時計見ろよ」


言われるままに腕時計を見ると、既に業務終了の時間から10分も経過していた。「なんで言ってくれないんですか」と咎めるが、肩を竦めただけで流された。




エプロンを外しながら休憩スペースに入ると、ソファーに寝そべる堀さんがそこに居た。サボってんじゃないか。
イラついて、ソファーに蹴りを入れたくなったがぐっと堪え、「お疲れ様です」と近くのスピーカーの爆音に負けないように大声をかけた。どうせ無視されるだろうけど。


案の定返答はなかったが、気にしないことにした。背を向けて帰り支度を始めた。


「あのさ」


低い声が、微かに聞こえた。かなり小さい声なのに、何故かハッキリと聞き取れた。


「……」


相手に腹が立つのと、久々に声をかけられた緊張で、聞こえないフリをして、そのまま早足で店を出て行った。



何故こんなに動揺しているのか、自分でもよくわからない。
店を出てから、私は歩調を緩めて駅に向かった。ゆっくり歩いているのに、息が切れて呼吸が苦しかった。

きっと、久しぶりに話しかけられたから、接し方が解らなくて動揺したんだ。きっとそうだ。何かひどい言葉をかけられるのではないかと、恐れたのだ。


ハァ、ハァ、という自分の息切れが、丸で雲を隔てたように遠く聞こえた。鼻をつく血の臭いに、噎せそうになる。









気づいたら、両手に包丁を握っていた。

私は荒い呼吸で肩を大きく揺らしながら、父親を睨み付けていた。


父親の足元で倒れている母が、衝撃の表情で私を見ていた。やがてゆっくりと起き上がり、私の方へ這って来ると、私の手から包丁を取った。

「なんてことを」両目から大粒の涙をポロポロと零し、私の両手を守るように握り、私の手についた血をものともせず、その胸に抱き締めた。


父親は壁に寄りかかりながら、床に尻餅をついた。左腕に出来た傷を右手で押さえ、ボーッと宙を見ていた。

傷口からは赤い血が流れ、父親の服を濡らしていた。





ああ、思い出した。
あの時、私は父親を刺したのだ。


母が警察を呼び、「父親が包丁を持って暴れて、転倒して包丁が腕に刺さった」と言った。何故か父親もそれを認めた。


そのあと、父親はすんなりと離婚に応じたのだ。

よくわからないが、母はこの件で父親を責めることはしなかった。私が覚えていなかったから、気を使ったのかもしれない。





どうして忘れていたのだろう。








生きる、ということが面倒だと感じる。同時に死ぬことも面倒だ。

簡単なのは死ぬことだ。だが、耐え難い苦痛が伴うのだと、経験したことがなくても解った。死ねば様々なしがらみからの開放、そして残された者達の心を深く傷つける可能性がある。

「死」というものに憧れにも似た感情を抱いた時期がなかったと言えば、嘘になる。死ねば楽になるだけだと思っていた時期だ。

あの日、私は父親に「死」を味わわせた。殺すことは叶わなかったが、確実に、あいつの人生に大きな影を落とすことは出来た。

だが、あのお陰で、私の中での汚い父親の存在を、壊すことに成功したとも言える。あれがなければ、私は前に進もうという気持ちを抱けなかった。

未だ自分の人生に対し無気力なところがあるが、母や周りの人達のことを思いながら、生きている。私ごときが人並みの幸せを追求していいものか、時々怖くなる。だが、子供だったあの時より、確実に前向きになっていると思う。


「おばあちゃん達をよろしくな」そうほざいて私に千円札を渡した父親の、震える手を思い出した。全てを思い出した今じゃ、以前ほどの腹立たしさはなかった。


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