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第1話「車窓」
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通勤電車の窓から見える景色は、時に優しく、時に失望する。
毎日、同じ時間に同じものを一定のリズムで視界に放る作業は、いたって健全そのものだ。それはもっぱら無意識的かつ無目的な行為で、それゆえに調節や弛緩に神経をそそぐ必要もなく、眼に優しい。
良くも悪くも生真面目が個性である私は、毎朝何両目に乗るかはもちろん、どの座席に陣取るか――始発駅なので、時間を見図ればおおむね調節可能だ――ということにまで徹底した一貫性を保っているので、その健全さたるや、常人が聞いてあきれるほどだ。見慣れた景色は、単純に安堵する。
日々の暮らしの中で見慣れない情景に出くわすとどことなく落ち着かないし、不安になる。それはたぶん、眼に良くないことだ。
こういうところは、子どもの頃から何も変わっていない。情景というのは単なる景色そのものだけでなく、新しい環境だとか人間関係だとかを指し、私はそういう「初めて」に対して異様なまでの慎重さと警戒心を抱く子どもだった。それが日常生活に支障をきたす度合いでなかったことが救いだが、大人と言われる年齢に達した今も、その精神は根強く残っている。
今までは、それで良いと思っていた。自分にとって、それこそが安らぎの必要条件であると。
最近、この安らぎが揺らぎはじめている。いつもの電車の窓から見える景色が、恐ろしく退屈で生を帯びていないように見えた。
それまでも別に真剣に見ていたわけでなければ、好きで見ていたわけでもなかった。何となく習慣付いていただけだった。それは言わば無感情という類であったが、そこにあからさまに負の感情が芽生えたことに驚いていた。
まるで、この代わり映えのしない景色そのものが、自分の人生を象徴しているように感じた。
無難に流れゆく日々。耐え難いジレンマが浮き彫りになった。
二年前、由夏と別れた。
学生時代からの付き合いで、六年ほど交際していた。学部やゼミが一緒で次第に意気投合したという、きっかけとしてはありがちなものだ。しかし、充分に満足していた。
私は由夏を、そして由夏は私を、かけがえのない存在として認識していた。先のことは考えられなかったが、その日その日を二人で懸命に生きることに夢中だった。
互いに社会に出ていざ将来のことを考える時機に直面すると、これまでと同じようにはいられなくなった。
由夏に不満があったわけではない。いや、あるはずがない。快活で思い遣りがあり、私にはもったいない位に優れた女性だ。
ここでも、私の「初めて」への警戒心が立ち塞がった。
どうしてこうなのだろう。どうして彼女を幸せにしてあげられなかったのだろう。
何かが変わってしまうことが恐かったのかもしれない。
人の心は予期せぬ局面で、当人の知らない間に形を変え得るものだ。だから、踏み出せなかったのだろう。
それでも私は私であり、由夏は由夏である。この事実だけはこの先も、決して変わるはずはないのに。
由夏と別れてとてつもなく淋しいはずなのに、私は落ち着いていた。
落涙ひとつせず、冷静に周囲を見渡せていた自分に腹が立った。別れてからは、もうほとんど由夏のことは思い出さない。
車窓から見える景色に失望感を抱くようになったのは、でも彼女が去ってからだった。
毎日、同じ時間に同じものを一定のリズムで視界に放る作業は、いたって健全そのものだ。それはもっぱら無意識的かつ無目的な行為で、それゆえに調節や弛緩に神経をそそぐ必要もなく、眼に優しい。
良くも悪くも生真面目が個性である私は、毎朝何両目に乗るかはもちろん、どの座席に陣取るか――始発駅なので、時間を見図ればおおむね調節可能だ――ということにまで徹底した一貫性を保っているので、その健全さたるや、常人が聞いてあきれるほどだ。見慣れた景色は、単純に安堵する。
日々の暮らしの中で見慣れない情景に出くわすとどことなく落ち着かないし、不安になる。それはたぶん、眼に良くないことだ。
こういうところは、子どもの頃から何も変わっていない。情景というのは単なる景色そのものだけでなく、新しい環境だとか人間関係だとかを指し、私はそういう「初めて」に対して異様なまでの慎重さと警戒心を抱く子どもだった。それが日常生活に支障をきたす度合いでなかったことが救いだが、大人と言われる年齢に達した今も、その精神は根強く残っている。
今までは、それで良いと思っていた。自分にとって、それこそが安らぎの必要条件であると。
最近、この安らぎが揺らぎはじめている。いつもの電車の窓から見える景色が、恐ろしく退屈で生を帯びていないように見えた。
それまでも別に真剣に見ていたわけでなければ、好きで見ていたわけでもなかった。何となく習慣付いていただけだった。それは言わば無感情という類であったが、そこにあからさまに負の感情が芽生えたことに驚いていた。
まるで、この代わり映えのしない景色そのものが、自分の人生を象徴しているように感じた。
無難に流れゆく日々。耐え難いジレンマが浮き彫りになった。
二年前、由夏と別れた。
学生時代からの付き合いで、六年ほど交際していた。学部やゼミが一緒で次第に意気投合したという、きっかけとしてはありがちなものだ。しかし、充分に満足していた。
私は由夏を、そして由夏は私を、かけがえのない存在として認識していた。先のことは考えられなかったが、その日その日を二人で懸命に生きることに夢中だった。
互いに社会に出ていざ将来のことを考える時機に直面すると、これまでと同じようにはいられなくなった。
由夏に不満があったわけではない。いや、あるはずがない。快活で思い遣りがあり、私にはもったいない位に優れた女性だ。
ここでも、私の「初めて」への警戒心が立ち塞がった。
どうしてこうなのだろう。どうして彼女を幸せにしてあげられなかったのだろう。
何かが変わってしまうことが恐かったのかもしれない。
人の心は予期せぬ局面で、当人の知らない間に形を変え得るものだ。だから、踏み出せなかったのだろう。
それでも私は私であり、由夏は由夏である。この事実だけはこの先も、決して変わるはずはないのに。
由夏と別れてとてつもなく淋しいはずなのに、私は落ち着いていた。
落涙ひとつせず、冷静に周囲を見渡せていた自分に腹が立った。別れてからは、もうほとんど由夏のことは思い出さない。
車窓から見える景色に失望感を抱くようになったのは、でも彼女が去ってからだった。
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