ヴェルシュトラ 〜スキル経済と魔導石の時代。努力が報われる社会で俺たちは絶望を知りそれでも、歩き出した〜

けんぽう。

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本編

ハイネセン

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書斎のランプが、静かに灯っていた。

机に向かうキールは、指先で封筒をなぞりながら、小さく息を吐いた。

「さて、ロフタの件で……ヴェルシュトラはすっかり防戦一方ですね」

机の上には、市場価格の推移、ロフタにおける死亡・破産者のデータ、そして——
ハイネセンの口座履歴と書かれた、一枚の写し。

「ではこの隙に、“もう一つの種”を蒔きましょうか」

声は誰に向けるでもなく、ただ部屋に漂った。
だがその響きには確かな意志と、冷徹な計算があった。

その夜、街角にまた新しい紙束が撒かれた。
誰が撒いたかは分からない。
ただ、内容は誰にでも読めるように書かれていた。

《ハイネセン——元ヴェルシュトラ幹部。ロフタから流れた資金の一部が、彼の個人口座に入っていたという証拠が存在する》
《一部の孤児院では、子供に戦闘技術を仕込み“民兵化”を図っていたという未確認情報も》
《資産流用、不透明な人事、闇契約——これが“秩序”の正体か?》

翌日、酒場は異様な熱気に包まれていた。

「おい、お前聞いたか?」
テーブルに肘をついた初老の男が、仲間に小声で囁く。

「ヴェルシュトラの幹部だったってやつ……ハイネセン? あいつ、組織の金を私的に使ってたって噂だぞ」

「えぇ? あいつ中枢の人間だったろ? そんなのがやってたのかよ」

「しかもな、ロフタから金を引っ張ってたとか……それも個人口座に。どんだけ溜め込んでたんだか」

「……子供を兵にしようとしてたって話もある。俺、酒飲んでて思わず吐きかけたわ」

「うちの妹、孤児院で働いてんだぞ……」

会話は次第にざわめきへと変わり、噂はまるで炎のように街を走っていった。


ヴェルシュトラ本部。

会議室は、沈黙と怒声が交互に叩きつけられる、崩壊寸前の鍋のようだった。

「……我々は、この情報を、公式に否定すべきだ!」

焦りを隠しきれない男が、椅子から立ち上がる。

「だが否定するにも、肝心のハイネセンが……もういない。証明のしようがないんだ……」

隅にいた一人が、突然椅子を蹴り飛ばすようにして立ち上がった。

「……私は知らんぞ! 本当に知らなかった! 私は関与していないからな!」

書類をかき集め、今にも部屋を飛び出さんとするその姿に、別の男が怒鳴った。

「お前、それでもヴェルシュトラの幹部か!?」

罵声が飛び交い、議論は崩壊寸前だった。

その中心で、広報担当の若者はぽつりと呟いた。

「……もう、終わりかもしれません……」

空気が、静かに崩れた。
それは“制度”という名の壁に入った、小さな亀裂だった。


市場のざわめきが、いつもと違う色を帯びていた。

値札の横に貼られた一枚の紙切れ。それを覗き込む者たちの目は、もはや驚きや疑念ではなく、冷えた諦めと怒りに満ちていた。

「ヴェルシュトラは秩序を守るどころか……結局、自分たちの利益しか考えてなかったってことだな」

痩せた男が、握ったままのリンゴを落としそうになりながら、つぶやいた。
隣の男は、その言葉に噛みつくように続けた。

「“公平な社会”だと? ふざけるな! 専売契約で値を釣り上げて、スキルの使用回数まで管理して……あいつら、最初から“支配”してただけじゃねぇか!」

「俺たち、ずっと我慢してたんだよ。努力すれば報われるって信じてさ。でも、そんなの嘘だったんだ」
「そもそも“専売契約”なんて仕組みが、おかしかったんだよな……」

しかし隣の男が不安げに答えた。

「……瓦解したら誰がこの街を守るんだ。混乱が広がったら……戦争だって、また起きかねない」

しばしの沈黙のあと、別の若者が口を開く。

「でも、黙ってたらずっと支配され続けるだけじゃねえか……。
努力しても報われねぇなんて、そんな世界、おかしいだろ」

「……それでも、無秩序になるのが一番怖ぇんだよ」

その言葉には、怒りではなく、迷いと怯えが混ざっていた。

誰もが、正しい答えなど持っていなかった。

だが、かつて“信じていた秩序”が音もなく崩れた今——
そこに残されたのは、怒号でも歓声でもなく。
ただ、答えのない問いを抱えたまま、立ち尽くす人々の沈黙の群像だった。

一方、ヴェルシュトラ本部では、重たい沈黙が広がっていた。

建物の外ではまだ衛兵が立ち、掲げられた旗も翻っている。
だがその中では、組織が根から崩れはじめていた。

情報を制御できない。命令が通らない。誰も責任を取らず、目を逸らし合うだけ。

秩序は、まだ“保たれているように見える”だけだった。


もし、ハイネセンが今もこの場にいたなら——。
ヴェルシュトラは、ここまで一方的に崩されはしなかっただろう。

彼は狡猾だった。陰湿だった。
敵を欺き、味方すら駒として動かす冷徹さを持ち合わせていた。
その手は決して綺麗ではなかったが、必要とあらば躊躇なく“汚れる”ことを選べる男だった。

孤児を民兵に仕立て上げようとし、資金を私的に流用し、街の片隅で命を数字に置き換えた。
その行為は、間違いなく非人道的だった。
擁護の余地など、本来あってはならない。

けれど、それでもなお。

彼が在任中、ヴェルシュトラは崩れなかった。
彼は正しくはなかった。だが“正しさ”だけでは、社会は保てなかった。歪であっても保たれていた。
強引な力で制度を回し、腐敗すらも制御し、混乱を未然に抑える“機能”として、彼はそこにいた。

それが正しいとは、誰も言えない。
だが、彼の不在が今まさに組織を崩壊へと導いているという現実がある。
暴かれたのは闇だけではない。
“その闇すらも、秩序の土台のひとつだった”という、厳しい事実だった。

理想では到底語れない現実。
善悪の基準では測れない統治のかたち。
あれほど多くの人間が依存していた“安定”が、実は不正義のうえに築かれていたのだとしたら——
何が正しく、何が間違っていたのか。
その問いは、今も答えのないまま、残されている。

そしていま、かつて“秩序”と呼ばれたその看板は、静かに、確実に——
瓦礫へと変わっていく。
どれほど立派に見えた旗印であっても、その下に立つ者が誰であっても。
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