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配管に宿る民主主義
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——翌朝、王都郊外・緩やかな丘陵にて
まだ朝靄の残るその丘は、町並みからわずかに外れただけで、風の質が変わるような静けさに包まれていた。そこに、奇妙な一団の姿があった。
山のような材木を両肩に抱え、微塵の疲労も見せずに進む一人の男。
その名は東雲剛心。
そしてその後ろで、ひいひいと息を切らし、額に汗を浮かべる金髪の少女。
「お……重いですわ……少し、休憩を……」
リゼリア・フォン・グリューエン。
王都の貴族令嬢として育ち、労働という概念とは長らく無縁であった彼女が、ついに地に腰を下ろした。
「そうだな。少し休もう」
剛心は即座に同意しながら、なおも肩に載せたままの材木を気にも留めず、その場に静かに佇んでいた。
その時、脇から一枚の布が差し出された。
「これ、どうぞリゼリアさん」
声の主は、鋭い眼光に不釣り合いなほどの優しさを帯びた男、ハーゲンである。
手には、洗い立てのハンカチ。
「えっ?」
一瞬、リゼリアの表情が凍った。
だが、すぐに彼の慌てた顔が目に入る。
「……あっ、洗ってやすが……もし嫌なら、使わなくても大丈夫でございますんで……」
その様子は、粗野な印象を裏切るような、過剰なまでの配慮に満ちていた。
続いて、今度は別の影がそっと現れた。
「リゼリアさん……こ……これ……飲み物……です……。口に合うか……わかんないです……」
手を震わせながら差し出すのは、痩身の青年・エンケ。
握られた瓶はほんのりと冷たく、果実の香りがほのかに漂っていた。
「あ……ありがとうございます」
受け取った声は、思った以上に素直で、そしてどこか驚きに満ちていた。
──毛がない者たち。
──今まで言葉すら交わしたことのなかった存在。
見下していた。無意識に、当然のように。
だが今、彼らは、自分よりもはるかに自然に“人”であった。
「お、おで、リゼリアの分、持てる。大丈夫……」
横からおずおずと声をかけたのは、丸みを帯びた風貌のウスゲー。
その申し出は、稚拙ながらも、真摯なものであった。
リゼリアはふと、笑みをこぼした。
──その瞬間。
空間の片隅に、ぴたりと浮かぶ光の枠。
聖典のUIが、視界の中に表示された。
推奨行動: キュ力階級に基づき【従属者】へ適切な距離と指導を維持してください
Note: 過度な親密化は社会的威信を損なう恐れがあります
一瞬、リゼリアの顔から表情が消えた。
だが、次の瞬間には、自らの意思で静かに呟いていた。
「シンなら……」
それは祈りではなく、ひとつの確認。
彼ならばどうするか──その思考を導きに。
そして、リゼリアは立ち上がり、覚悟を込めて口を開いた。
「……リゼとお呼びくださいませ!」
満面の笑顔。堂々とした発声。
それは貴族的威厳を捨てるものではなく、“意志”としての選択であった。
一拍の沈黙。
「……リゼ……さん?」
戸惑い気味にエンケが復唱した。
「えぇ、リゼで結構ですわ」
今度は、確かな自信が宿っていた。
「わ、わっかった、りぜ……!」
ウスゲーの顔がぱあっと明るくなり、クロが歓声を上げる。
「うん!リゼリアも面白くなってきたにゃ!」
誰も命じていないのに、誰も支配していないのに、笑いが咲いていた。
風が吹く。
汗ばんだ肌を撫でるその風が、いつもより幾分か優しく感じられた。
──身体も、心も。
ほんの少しだけ、軽くなった気がした。
陽光が斜めに差し込む丘の上。草を踏みしめる音が風にまぎれ、地図の上を指が滑る。
「……よし、この辺りか」
地面にしゃがみ込み、剛心は古びた羊皮紙に描かれた街の地図をじっと見つめていた。目の前には、まだ何もないただの原野。だが彼の瞳は、そこに確かな“未来”を見据えていた。
背後から、不安げな声が届く。
「シン、ここで……何をする気で?」
問いかけたのはハーゲンだった。日焼けした額には、じんわりと汗が浮いている。
剛心は一拍おいて立ち上がると、拳を握ったまま堂々と宣言した。
「道場を建てる。つまり——稽古場だ」
言葉は無駄なく、真っ直ぐだった。
しかしその直後、リゼリアが眉をひそめ、扇子をぱたぱたと煽ぎながら言葉を挟んだ。
「それなら……職人に頼めばよかったのですわ。王都には腕の立つ者が幾人もおりますの。いまからでも、うちのお抱えの職人を呼びましょうか?」
その提案に、剛心は首を横に振る。
「それでは意味がないんだ」
声には、断固たる決意があった。
「ここで鍛えるのは拳だけじゃない。作るところからやらなきゃ、俺たちの場所にはならない」
その一言に、一同はしばし沈黙した。
沈黙の中、エンケが遠慮がちに口を開く。
「じゃ……せめて……設計だけは……職人で……」
「心配するな。俺が設計する」
剛心の表情は、晴れやかだった。少なくとも彼自身にとっては。
すぐさま彼は地面に膝をつき、紙と墨を取り出して設計図を書き始めた。速度は速い。鉛筆が走るというより、拳で語るような勢いで、直線が紙を斬る。
「……なんか嫌な予感がするんで……」
ハーゲンがそっと呟く。
「こうなったら、もう何を言っても聞きませんわ」
リゼリアは溜め息をつき、己の命運を静かに受け入れた。
──五分後。
剛心が誇らしげに差し出した紙面を、リゼリアは手に取った。
視線が設計図に落ちた瞬間、その顔から血の気が引いていく。
「……シン、これは……」
震える声でようやく絞り出す。
剛心は、地面に胡坐をかいたまま、涼しげに答える。
「設計図だが?」
紙に記されたのは、信じがたいほど緻密な構造だった。梁の強度計算に始まり、換気の流路、給排水の傾斜角度、果ては熱伝導を抑える壁材の選定案まで、すべてが理に適っていた。
その異様な完成度に、最初に声を上げたのはエンケだった。
「シンは……職人……だった?」
「いや」
即答であった。
「じゃあなんでこんなことができるんですの?」
リゼリアの問いには、剛心は首を軽く傾け、さらりと答える。
「一応大学で物理を専攻していたからな。簡単な設計くらいなら何とかなる」
その一言は、山頂に雷が落ちたかのような衝撃を一同に与えた。
「だ、大学!? シンは大貴族様だったんで!?」
慌てて叫んだのはハーゲンである。
だが剛心は、まるで“なぜそこで驚くのか”といった面持ちで答えた。
「いや、普通の家庭だぞ。勉強すれば入れる」
「……知識が、誰にでも開かれている……?」
リゼリアの声が震える。彼女の脳裏には、秩序という名の階層がぐらりと揺らぐ幻影が浮かんでいた。
「でも……“知識が誰にでも開かれている”なんて……もし本当にそうだとしても、すべての民がその知識を扱えるわけではありませんわ。
教養には階級が要る。導く者は、生まれながらにその責を負って育つもの」
彼女の瞳には、純粋な疑問と、僅かな恐れが混じっていた。
「……統治者は“導く力”を天賦として持つからこそ、民にとって希望たりえるのではなくて?」
その懸念は、正しくこの国の“価値体系”を体現する声であった。
だが剛心は、静かに言葉を返す。
「だからみんなでリーダーを決めるんだ」
即答だった。
リゼリアは顔をしかめる。
「導かれる側が“導く者”を選ぶだなんて……論理の逆転ではありませんの……?」
「うむ。確かにな。だからもし失敗したら——選んだ側の失敗だ。責任は自分に返ってくる」
その理屈は、完璧ではない。
リゼリアは、言葉をなくしたまま、黙して考え込む。
——けれどその“逆転”は、なぜか、ぞっとするほど怖くて、そして少しだけ美しかった。
この人は、わたしたちとは、根本から違う場所で育ってきた。
それは感じていた。けれど……その理由が、今、ほんの少しだけ見えた気がする。
わからない。けれど、単純に間違っているとも……言い切れない。
そんな思考の只中、リゼリアの目がふと、設計図の隅に留まった。
そこに記されていた、ひときわ異様な図面。
「……ちょっと、シン。これは……何ですの?」
彼女は、細く白い指でその一点を指し示した。
「……シン、ここ。この排水管……なぜ、こんな無駄に曲がっているんですの?」
指先が示すのは、妙にくねった配管の線である。
剛心は真顔でうなずき、答えた。
「それは“S字トラップ”だ。排水路の構造をあえて曲げることで、管の中に“封水”を作る」
「……ふうすい……?」
リゼリアが小さく首を傾げると、剛心は説明を続けた。
「水を封じておくんだ。その水が、臭気や害虫を逆流させない“水の蓋”になる。俺の世界では、数百年前から使われている構造だ」
その瞬間、沈黙していた者たちの表情が、一斉に変わった。
ハーゲンが思わず口を開く。
「……うちなんか、夏になると絶対なんか湧いてきやしてね……。臭ぇって嫁にどやされて、バケツでフタして石のっけて……それでもダメで……」
エンケがぽつりとつぶやいた。
「水で……蓋……? そんなの……聞いたことない……」
ウスゲーは涙ぐんだ目で、天を仰ぐ。
「おで……この世界に生まれたことを、初めて……悔やんだ……」
リゼリアもまた、小さな声でつぶやいた。
「わたくし、子どもの頃……あの臭いのことを“神罰”と教えられて……でも……水、ですのね……シン……」
剛心は腕を組み、しばし考え込むような顔をした。
そして、ふと唸るように言った。
「……いや、待てよ。あえてこれを使わず、臭気と向き合うことで“精神の鍛錬”になるかもしれん」
その言葉が落ちた瞬間、風すら止まったような静寂が訪れた。
そして次の瞬間──
「ちょ、ちょっと待ってくだせぇシン! あっしはもう神罰と向き合いたくないでやす! 二度と!!」
ハーゲンが全身で叫び、
「む、無理だ……! あの臭いで“おでの初恋”終わったんだ!!」
ウスゲーが魂の叫びをぶつけ、
「S字……すごい……採用……大賛成です……」
エンケが両手を合わせて神に感謝し、
リゼリアが凛とした表情で断じた。
「シン、これは精神修行ではなく、衛生技術ですわ」
剛心は少しだけ寂しげに目を伏せる。
「……そうか。たしかに“道場の床が臭う”のは、修行以前の問題か……」
そして、場に静かに現れた黒猫のクロが、ぴょんと肩に乗って宣言する。
「文明進歩+3だにゃ!」
一同、うなずきながら設計図に「S字トラップ」の印を描き込んだ。
まだ朝靄の残るその丘は、町並みからわずかに外れただけで、風の質が変わるような静けさに包まれていた。そこに、奇妙な一団の姿があった。
山のような材木を両肩に抱え、微塵の疲労も見せずに進む一人の男。
その名は東雲剛心。
そしてその後ろで、ひいひいと息を切らし、額に汗を浮かべる金髪の少女。
「お……重いですわ……少し、休憩を……」
リゼリア・フォン・グリューエン。
王都の貴族令嬢として育ち、労働という概念とは長らく無縁であった彼女が、ついに地に腰を下ろした。
「そうだな。少し休もう」
剛心は即座に同意しながら、なおも肩に載せたままの材木を気にも留めず、その場に静かに佇んでいた。
その時、脇から一枚の布が差し出された。
「これ、どうぞリゼリアさん」
声の主は、鋭い眼光に不釣り合いなほどの優しさを帯びた男、ハーゲンである。
手には、洗い立てのハンカチ。
「えっ?」
一瞬、リゼリアの表情が凍った。
だが、すぐに彼の慌てた顔が目に入る。
「……あっ、洗ってやすが……もし嫌なら、使わなくても大丈夫でございますんで……」
その様子は、粗野な印象を裏切るような、過剰なまでの配慮に満ちていた。
続いて、今度は別の影がそっと現れた。
「リゼリアさん……こ……これ……飲み物……です……。口に合うか……わかんないです……」
手を震わせながら差し出すのは、痩身の青年・エンケ。
握られた瓶はほんのりと冷たく、果実の香りがほのかに漂っていた。
「あ……ありがとうございます」
受け取った声は、思った以上に素直で、そしてどこか驚きに満ちていた。
──毛がない者たち。
──今まで言葉すら交わしたことのなかった存在。
見下していた。無意識に、当然のように。
だが今、彼らは、自分よりもはるかに自然に“人”であった。
「お、おで、リゼリアの分、持てる。大丈夫……」
横からおずおずと声をかけたのは、丸みを帯びた風貌のウスゲー。
その申し出は、稚拙ながらも、真摯なものであった。
リゼリアはふと、笑みをこぼした。
──その瞬間。
空間の片隅に、ぴたりと浮かぶ光の枠。
聖典のUIが、視界の中に表示された。
推奨行動: キュ力階級に基づき【従属者】へ適切な距離と指導を維持してください
Note: 過度な親密化は社会的威信を損なう恐れがあります
一瞬、リゼリアの顔から表情が消えた。
だが、次の瞬間には、自らの意思で静かに呟いていた。
「シンなら……」
それは祈りではなく、ひとつの確認。
彼ならばどうするか──その思考を導きに。
そして、リゼリアは立ち上がり、覚悟を込めて口を開いた。
「……リゼとお呼びくださいませ!」
満面の笑顔。堂々とした発声。
それは貴族的威厳を捨てるものではなく、“意志”としての選択であった。
一拍の沈黙。
「……リゼ……さん?」
戸惑い気味にエンケが復唱した。
「えぇ、リゼで結構ですわ」
今度は、確かな自信が宿っていた。
「わ、わっかった、りぜ……!」
ウスゲーの顔がぱあっと明るくなり、クロが歓声を上げる。
「うん!リゼリアも面白くなってきたにゃ!」
誰も命じていないのに、誰も支配していないのに、笑いが咲いていた。
風が吹く。
汗ばんだ肌を撫でるその風が、いつもより幾分か優しく感じられた。
──身体も、心も。
ほんの少しだけ、軽くなった気がした。
陽光が斜めに差し込む丘の上。草を踏みしめる音が風にまぎれ、地図の上を指が滑る。
「……よし、この辺りか」
地面にしゃがみ込み、剛心は古びた羊皮紙に描かれた街の地図をじっと見つめていた。目の前には、まだ何もないただの原野。だが彼の瞳は、そこに確かな“未来”を見据えていた。
背後から、不安げな声が届く。
「シン、ここで……何をする気で?」
問いかけたのはハーゲンだった。日焼けした額には、じんわりと汗が浮いている。
剛心は一拍おいて立ち上がると、拳を握ったまま堂々と宣言した。
「道場を建てる。つまり——稽古場だ」
言葉は無駄なく、真っ直ぐだった。
しかしその直後、リゼリアが眉をひそめ、扇子をぱたぱたと煽ぎながら言葉を挟んだ。
「それなら……職人に頼めばよかったのですわ。王都には腕の立つ者が幾人もおりますの。いまからでも、うちのお抱えの職人を呼びましょうか?」
その提案に、剛心は首を横に振る。
「それでは意味がないんだ」
声には、断固たる決意があった。
「ここで鍛えるのは拳だけじゃない。作るところからやらなきゃ、俺たちの場所にはならない」
その一言に、一同はしばし沈黙した。
沈黙の中、エンケが遠慮がちに口を開く。
「じゃ……せめて……設計だけは……職人で……」
「心配するな。俺が設計する」
剛心の表情は、晴れやかだった。少なくとも彼自身にとっては。
すぐさま彼は地面に膝をつき、紙と墨を取り出して設計図を書き始めた。速度は速い。鉛筆が走るというより、拳で語るような勢いで、直線が紙を斬る。
「……なんか嫌な予感がするんで……」
ハーゲンがそっと呟く。
「こうなったら、もう何を言っても聞きませんわ」
リゼリアは溜め息をつき、己の命運を静かに受け入れた。
──五分後。
剛心が誇らしげに差し出した紙面を、リゼリアは手に取った。
視線が設計図に落ちた瞬間、その顔から血の気が引いていく。
「……シン、これは……」
震える声でようやく絞り出す。
剛心は、地面に胡坐をかいたまま、涼しげに答える。
「設計図だが?」
紙に記されたのは、信じがたいほど緻密な構造だった。梁の強度計算に始まり、換気の流路、給排水の傾斜角度、果ては熱伝導を抑える壁材の選定案まで、すべてが理に適っていた。
その異様な完成度に、最初に声を上げたのはエンケだった。
「シンは……職人……だった?」
「いや」
即答であった。
「じゃあなんでこんなことができるんですの?」
リゼリアの問いには、剛心は首を軽く傾け、さらりと答える。
「一応大学で物理を専攻していたからな。簡単な設計くらいなら何とかなる」
その一言は、山頂に雷が落ちたかのような衝撃を一同に与えた。
「だ、大学!? シンは大貴族様だったんで!?」
慌てて叫んだのはハーゲンである。
だが剛心は、まるで“なぜそこで驚くのか”といった面持ちで答えた。
「いや、普通の家庭だぞ。勉強すれば入れる」
「……知識が、誰にでも開かれている……?」
リゼリアの声が震える。彼女の脳裏には、秩序という名の階層がぐらりと揺らぐ幻影が浮かんでいた。
「でも……“知識が誰にでも開かれている”なんて……もし本当にそうだとしても、すべての民がその知識を扱えるわけではありませんわ。
教養には階級が要る。導く者は、生まれながらにその責を負って育つもの」
彼女の瞳には、純粋な疑問と、僅かな恐れが混じっていた。
「……統治者は“導く力”を天賦として持つからこそ、民にとって希望たりえるのではなくて?」
その懸念は、正しくこの国の“価値体系”を体現する声であった。
だが剛心は、静かに言葉を返す。
「だからみんなでリーダーを決めるんだ」
即答だった。
リゼリアは顔をしかめる。
「導かれる側が“導く者”を選ぶだなんて……論理の逆転ではありませんの……?」
「うむ。確かにな。だからもし失敗したら——選んだ側の失敗だ。責任は自分に返ってくる」
その理屈は、完璧ではない。
リゼリアは、言葉をなくしたまま、黙して考え込む。
——けれどその“逆転”は、なぜか、ぞっとするほど怖くて、そして少しだけ美しかった。
この人は、わたしたちとは、根本から違う場所で育ってきた。
それは感じていた。けれど……その理由が、今、ほんの少しだけ見えた気がする。
わからない。けれど、単純に間違っているとも……言い切れない。
そんな思考の只中、リゼリアの目がふと、設計図の隅に留まった。
そこに記されていた、ひときわ異様な図面。
「……ちょっと、シン。これは……何ですの?」
彼女は、細く白い指でその一点を指し示した。
「……シン、ここ。この排水管……なぜ、こんな無駄に曲がっているんですの?」
指先が示すのは、妙にくねった配管の線である。
剛心は真顔でうなずき、答えた。
「それは“S字トラップ”だ。排水路の構造をあえて曲げることで、管の中に“封水”を作る」
「……ふうすい……?」
リゼリアが小さく首を傾げると、剛心は説明を続けた。
「水を封じておくんだ。その水が、臭気や害虫を逆流させない“水の蓋”になる。俺の世界では、数百年前から使われている構造だ」
その瞬間、沈黙していた者たちの表情が、一斉に変わった。
ハーゲンが思わず口を開く。
「……うちなんか、夏になると絶対なんか湧いてきやしてね……。臭ぇって嫁にどやされて、バケツでフタして石のっけて……それでもダメで……」
エンケがぽつりとつぶやいた。
「水で……蓋……? そんなの……聞いたことない……」
ウスゲーは涙ぐんだ目で、天を仰ぐ。
「おで……この世界に生まれたことを、初めて……悔やんだ……」
リゼリアもまた、小さな声でつぶやいた。
「わたくし、子どもの頃……あの臭いのことを“神罰”と教えられて……でも……水、ですのね……シン……」
剛心は腕を組み、しばし考え込むような顔をした。
そして、ふと唸るように言った。
「……いや、待てよ。あえてこれを使わず、臭気と向き合うことで“精神の鍛錬”になるかもしれん」
その言葉が落ちた瞬間、風すら止まったような静寂が訪れた。
そして次の瞬間──
「ちょ、ちょっと待ってくだせぇシン! あっしはもう神罰と向き合いたくないでやす! 二度と!!」
ハーゲンが全身で叫び、
「む、無理だ……! あの臭いで“おでの初恋”終わったんだ!!」
ウスゲーが魂の叫びをぶつけ、
「S字……すごい……採用……大賛成です……」
エンケが両手を合わせて神に感謝し、
リゼリアが凛とした表情で断じた。
「シン、これは精神修行ではなく、衛生技術ですわ」
剛心は少しだけ寂しげに目を伏せる。
「……そうか。たしかに“道場の床が臭う”のは、修行以前の問題か……」
そして、場に静かに現れた黒猫のクロが、ぴょんと肩に乗って宣言する。
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