海抜ゼロ

窓野枠

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第1章

2020年8月

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 彼は28歳という若さであったが、すべての余暇を水泳に当てていた。社内成績はダントツ。つまり、初年度は様子見ということもあったが、2年目からはあっという間に才能を発揮し、この会社でトップの成果を出した。並み居る優秀な先輩を追い抜いて、編集者としてタッグを組んだ作家のすべてが、ミリオンを超すベストセラーになった。社長や重役連中も彼に一目置いた。当然、社内で設けていた成績最優秀者に授ける社長賞を獲得。入社2年目以来、連続5回の社長賞を獲得していた。
  *
 遠藤雅子は体育大学4年生、就職活動に明け暮れる毎日を送っているクラスメートを尻目にひたすら水泳をしていた。彼女は大学の水泳部に身を置く。毎日、授業のない合間を縫ってはプールで泳ぐ。日本国内の水泳競技ではここ3年余で実力を付けて国体で優勝をするまでになった。
 高校1年の時、ただ、泳ぎたいということで入った水泳部であったが、めきめき実力を付けて、高校1年生になってから、突然、水泳の才能が開花し、大学内では敵なしという実力に成長した。そして、初めて出場した日本選手権水泳競技大会ではすべての単独泳法で優勝を果たした。全種目の日本記録更新も近い、と期待されている。
 インタビューに答える彼女は次の目標を宣言した。
「オリンピックで金メダルを持ち帰ります」
 それに対し、集まった新聞記者が質問する。
「ずばり、いくつ、取るつもりですか?」
 考えていると見え、間が空いた。
「できるだけ、多く」
 みんな歓声を上げた。それも決して夢ではない実力を既に身に付けていた。主だった世界大会には、まだ出場していないが、それだけの記録を持っていた。こぞってマスコミは彼女を彗星のように現れた期待の星として報道した。ルックスのいい彼女は話題性十分の存在だった。誰が彼女を射止めるか、という下世話な話しも週刊誌では良く取り上げられた。そうして、彼女がいる所には必ずマスコミが付いて移動した。彼女は速く泳げるだけでなく、人を引き付けるオーラを持っていた。
「でも、わたしの泳ぐ目的は、金メダル? なんか、なんか、違うような。もっと、別で、わたしはただ、単純に、速く泳ぎたいのかも。速く泳ぐことだけで。気が付いたら、私がトップを泳いでいた。私にとって、金メダルはその結果のご褒美で。よく、頑張りましたね、っていうご褒美です」
 丁寧な言葉で受け答えする雅子は、インタビューが終了して、一人になると、頭の中は別の人格が出現して自分に問う。きみは速く泳ぐために泳いでいる訳ではないだろう? ただ、泳ぎたいから泳いでいるそこらの平凡な女だ。無性に泳ぎたいから泳いでいる。泳がないと、息が詰まる。正直に言ってみろ。面白いぞ。目標なんてありません。泳ぎたいのです。もう一人の雅子が囁く。そのたびに、これでいいのか、と思う。その苦しさは何で起こるのか。雅子は時々その衝動を抑えるために泳いでいるような気がする。泳ぐことが自然。安らぐ。競争することが目的ではない。絶対、違う。何かものすごい力が、泳ぐという行動を取らしている気がしてならなかった。速く泳ぐことは、本能である。何か遠くへ、逃げるための本能がそうさせる。そのエネルギーは、一体何でやってくるのか、雅子自身も分からない。その答えを出すために、毎日、無心に泳ぐしかなかった。
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