窓野枠 短編傑作集 3

窓野枠

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女のTPO(time place and occasion)

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 退社間際の五時前のこと。ジャンジャーン、場違いな音楽が突然鳴る。電話の着信音である。信一がパソコンに悪戦苦闘しながらキーをたたいていると、OL1年生の慶子の携帯が鳴り、気分が乗らなくなる。相変わらずのデートの誘いである。1件や2件ではないからうるさい。慶子は淫乱な女である。男と見れば見境がなさそうに見える。係長として、仕事中の私用電話を見かねた信一が、当り障りのないように、慶子と二人きりのときを見計らって、注意してみたが、当の本人は皆友だちだと言って聞く耳を持たなかった。それどころかこともあろうに鼻から声を出して、
「係長もあたしとお付き合いしてみますかー? 」
 と、来たものだ。これには参った。返す言葉も失って、信一は自分の席に戻った。
恵子はストレートのしなやかな髪を肩まで伸ばしている。信一もあまりの綺麗さについ触りたくなる。唇がわずかにまくれ、白い歯がほんのり見える。歯並びがいいのでそれが実に健康的に見える。眉は細めに、やや吊り上げ気味に書いているのできりりとしまり、目はパッチリ大きく瞳がきらきら潤んでいて吸い込まれそうだ。そして、中心にある鼻はほっそりとして横顔もすてきだ。ちょっと見には清純そうに見える。ところが、この携帯のやり取りから見てかなりの淫乱であろう、と信一は見ている。
信一はアパレルメーカーの経理係長。慶子は6人いる部下の一人である。慶子は新人なので席は信一から一番遠ざかった位置である。仕事に疲れぼんやりと遠くを見ると、自然、慶子の姿が目に入る。つい慶子を見てしまう。
 体形は適度に肉がついていて健康そのもの。ミニスカートをよく履いているのも、自分の綺麗な脚線美に自信があってのことだろう。よくシースルーのブラウスを着ていた。そこから見える下着が黒色なのである。ときどき残業したりして、慶子と二人きりになるときがあるが、思わず慶子を抱きたいと思ってしまう。そんなとき、信一は「心頭滅却、煩悩退散、南無三大菩薩」と呪文を唱えるのだ。
顔をしかめて唱えていると、慶子がそれをいぶかしく思ったと見えて、
「係長、仕事お忙しいんですかー? お手伝いしましょうかー」
と聞いてくる。俺が暇つぶしで仕事をしていると思ってるのかね。忙しいから残業してるのだよ。そう思ったが、言葉にはしなかった。係長たるもの、言動は注意しなければならない。
「いや、ありがとう。大した事はない。もうすぐ終わるよ。気にしないで帰ってくれていいよ」
「あたし、もうじき終わるんですけど、お手伝いしますよー 」
「ありがとう。大丈夫だ。きみこそ、珍しいね。きょうのデートは行かなくていいのかい? 」
 いつもと違って殊勝なことである。なのに、皮肉を言ってしまう。かわいさあまって憎さ百倍。信一は慶子を見るといじめたくなる。ひょっとすると、俺はマゾかな? なんて自問自答するのである。信一は32歳にもなるのに、今は恋人すらいない。つい、先日、2年付き合った亜紀子と別れた。信一は慶子のように何人も異性と同時に付き合うということができない。だから別れるとブランクができる。セックスもブランクになる。当然、したい、と言う欲求が高まる。慶子と二人きりの残業は、信一の理性が揺らぐ。慶子はあまりにも信一とは性格が合わないと思っている。だからあまり職場でも会話はしないことにしている。慶子もしてこない。
「係長って意地悪なんですね」
 突然慶子はそんなことを口走った。
「そんなことないよ。何を言い出すんだい? 」
「だって、あたしを軽蔑してるみたい。あたしってそんな尻軽な女じゃありませんよ」
「え、何言ってんだい。別に君が尻軽なんて言ってないじゃないか」
「でもそう思われてるんじゃないですか? 」
「いろんな男性と付き合ってていいな、と思ってるだけだよ」
「いろんな男性? それっていろんな男性とセックスしてると思ってるんですか? 」
「え、まあ、いいじゃないの。人それぞれ人生色々だからね」
「そうなんですか? 本当にそう思ってるんですか? 」
 慶子は涙目になったようだった。信一は慌てた。
「参ったな。ごめん、ちょっと失言だった。セックスの話は職場でするものではないよ」
「じゃ、職場以外ならいいのですね」
「ああ、まあ、そういうことになるかな。なんか、変な話になってしまった。ご免もうよそうよ」
「いいえ、よくありません。あたしの生き方を否定されたようで、よくありません」
「本当にごめん。もうよそうよ」
 信一が困り果てていると、突然、慶子はくすくす笑い始めた。
「やっぱり係長ってすごく真面目ですね」
 信一は慶子に真面目と言われて少し憤慨した。一回りも違う部下に自分が評価されたようで気分が悪くなった。ましては昨日入ったような新米職員にである。
「何が真面目だ! 君のそういう態度はかわいくないぞ」
 つい、信一は大声を張り上げてしまった。慶子はぽかんと口をあけて信一を見ていた。
「態度が? え、そんなふうにあたし、見られていたのですか? 」
 慶子の口調が急に暗くなった。かなり、ショックだったようだ。
「もう、仕事はやめにする。ちょっと、場所を変えて話し合ったほうがよさそうだね」
「はい」
 何か慶子の返事が妙に明るかったのが、信一には不思議だった。落ち込んだり、明るくなったり、今の子は理解に苦しむよ。信一は頭を抱えた。
 信一は慶子を連れて会社近くの居酒屋に入った。20人も入ればいっぱいの小さな店である。夫婦で家庭料理を出している。おしどり夫婦のようでとても和める店だった。信一はよくここへ仕事帰りに寄った。職場の人間関係のもつれにはこのような店で日ごろの鬱憤を晴らすのに限る。のれんをくぐり信一が先に入った。店は賑わっていた。カウンターにちょうど二人分があいていたので信一と慶子はカウンターに座った。
「浅野さん、きょうは珍しいねえ、若い子と一緒で」
 女将さんがおとおしを置きながらニコニコして聞いてきた。
「ああ、仕事の帰りさ」
 信一は生ビールを頼んだ。狭い店なので、自然と体は近づく。そのほうが親密になり易い。とくにカウンターで隣り合うことは親近感を増す。信一は落ち込んだ部下を何度かそうやって励ましてきた。しかし、今日はちょっと勝手が違った。仕事上の問題ではなかったのだから。慶子の生き方に関することだ。
「さあ、飲もう」
 信一がビールの入ったジョッキを持ち上げ、慶子の顔を見た。慶子が信一を見ていた。慶子が信一の顔をじっと見ていたことに気が付いた。
「あ、乾杯しようかな。まずはさっきまでのことは忘れて、心機一転ということで」
「はい、二人きりの初めてのデートに乾杯ですね」
「え、デート? ちょっと違うぞ」
「係長ってそこが固いんですよ。こんな美女と二人きりで幸せでしょ? 」
「普通自分じゃ言わないだろ? 美女だなんて」
「そこが硬いんです。あたしが言っても嫌味に聞こえますか。あたしだってTPOをわきまえてますよ」
「俺には分からんよ。そのTPOが。君の基準とするものがだね」
「あたしは好きな男と好きなときにエッチするのよ。それがTPOよ。その場の雰囲気しだい。それがあたし流のTPOです。だから嫌いな男とは何もない」
「じゃ、なにかね。気が合えば誰とだって、するのかね」
 信一はこんな会話をすることが信じられなかった。この慶子と言う女は一体何者なのだろう、と思った。
「ええ、しますよ」
 慶子は平然と言った。外見上はこのような会話をするような容姿ではない。しかし、慶子は平然とえっちを言葉にする。
「だいたい、係長は古い日本人のタイプですよね。奥ゆかしいなんて言葉がありますが、そのタイプとも違います。単なる堅物ね」
「…… 」
 信一は言葉に窮した。人の人生を諭すどころか、自分の人生を意見されるとは思わなかった。
 慶子は信一とこうして飲めて幸せだとか言いながら、さかんにサワーを飲み干していた。2時間ほど経ったころ、突然、信一のネクタイを握りしめた。
「あ~、あなたはあたしを知らないなあ。よし、教えてあげる。行こう」
 そう言うと、信一のネクタイを引っ張りながら席を立ち始めた。
「慶子くん、もう、きょうの所は送っていくから帰ろうか」
「何を言っているのかなあ、あなたは。これからですよ、これから」
 信一はさっさと勘定を済ませ、玄関を飛び出した。
「あはは、この堅物男があ」
 慶子が信一にしがみついてきた。
「ねえ、行こう」
「こんなによっていてどこへ行こうと言うんだね」
「あたしをおぶるんだあ!」
 信一は周りを見回しながら、慶子を背に負ぶった。
「さあ、レッツゴー!」
 慶子が指し示した先は、ちょっと薄暗い先に見えるホテルの看板だった。指し示した先には見間違うような看板は他にない。
「あそこはホテルだぞ?」
 信一は小声で聞いた。
「そうよ。レッツゴー、ホテルカルフォルニア!」
 行き交う人々が二人を見ながら通り過ぎていく。
 信一は勇気を出してホテルに向かった。こんな綺麗なことこんな所へはいるのも悪くはないな、と思った。しかし、酒癖が悪い女だ。
 信一はホテルでチェックインを済ませると、個室に入って鍵を閉めた。ラブホテルらしくけばけばした装飾が施されていた。信一は慶子をベッドに落とした。
「お嬢さん、つきましたよ。もう、十分知りましたよ、きみのことは」
「あらら、何も知らない癖に知ったかぶりしちゃってさ、嫌な男よねえ」
 そう言ったと思ったら、慶子は寝息を掻き始めた。
 信一は少しだけこの子が分かった気がしたが、笑いながら、首を振って、傍らのソファーに腰を落とした。慶子は豊かな胸を上下させながら、爆睡状態である。
「今の子は本当に分からんよ」
 信一は時計を見た。12時を過ぎたばかりである。
「さて、帰って寝るか」
 信一はひとりホテルの個室を後にした。
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