隣の猫

JUN

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噂の二人

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 ネクタイを締め、身だしなみをチェックする。
 森本礼人もりもとあやと、東京都の刑事だ。学生時代はそれほどもてたわけではないが、一応、将来を有望視されている同期のリーダー格だ。そのせいもあってか、今は上司に娘をそれとなく紹介されかかる事もしばしばだし、女性警官にはそれなりにもてる。
「よし」
 社会人としておかしくない事を確認し、ゴミ袋を持って、玄関を出た。
 このマンションの燃えるゴミの日は、月曜日と木曜日だ。マンションによってはいつ出してもいい所もあるようだが、ここは前日の夜から当日の回収車が来るまでとなっている。なので、ゴミを出して出勤という住人は多い。
「あ。おはようございます」
 ドアを開けた途端隣のドアも開いて、礼人は隣人に挨拶をした。
 有坂涼子ありさかりょうこ。東京都監察医務院に勤める解剖医だ。クールな美人で、仕事は早くて丁寧、上品で服のセンスもいい完璧な女神様として、ファンは多い。
 私生活がわからない感じだが、礼人はひょんなことから、その一端を覗いてしまった。というのも、礼人は最近このマンションに引っ越したのだが、隣にこの涼子が住んでいたのだ。
 顔を合わせた時はお互いに驚いたものだ。クールだの硬派だのと言われる礼人だって、この完璧な女神の事は、嫌いではない。
「おはようございます」
 涼子は挨拶を返す。
 そして、お互いに見たわけではないが、何となく相手のゴミ袋が目に入った。
 涼子のはコンパクトと言えばコンパクトだが、ほとんどが、栄養ブロックの空き箱だった。それ1本に1食分の栄養を過不足なく詰めてあるという、あれだ。
(これが飯とか?まさかな。たまたまだろう。プレゼントに応募しようとして、バーコードをまとめて切り取ってゴミになったとか)
 礼人はそう思った。
 その礼人のゴミ袋は、野菜の皮や魚の骨、豆腐のパックなど、生活感に溢れている。
 透明な袋なので中が良く見えてしまうのがどことなく気まずいが、タイミングが一緒になったので並んでエレベーターに乗り、一緒にゴミ捨て場に行き、一緒に駅まで歩いた。
 どちらも無口な質なので、ほぼ無言である。
 改札口で別れたが、お互いに
「やり難い。明日は5分早く出よう」
と呟いた。
 
 署に着くと、同僚達が待ってましたとばかりに集まって来た。
「なあなあ。今日は涼子先生と会ったのか?」
「……挨拶の前にまずそれですか」
「気にならない奴は男じゃないですよ」
「有坂先生、クール美人だよなあ。仕事は早いし、間違いないし、丁寧だし。服も上品で、黒のストレートロングを背中でくくってるだけなのに、何でかお洒落なんだよなあ」
 1人が言い出す。
「恋人とかいるのかなあ」
「きっと、イケメンで有能なやつだな」
 妻帯者であるはずの1人が言って、皆が俺を見る。
「違いますから」
 言うが、彼らの耳には入らない。
「俺、引っ越しの時に実は見たんだ。森元さんの引っ越したマンション、有坂先生のマンションと同じなんだ」
「何!?確かか!」
「ああ。前に近くに住む妹の所に行った時、先生があのマンションに入って行って、郵便ポストから郵便物を持って上に上がるのを見たんだ」
 それで、彼らは衝撃を受けたような顔になった。
「同棲ではなかったよな」
「ああ。でも、同じマンションだぞ」
「半同棲はあり得る」
「……くそっ。俺は先生と森元さんの幸せを祈る」
「クッ」
「いや、俺の話も聞いてくださいよ。ねえ」
 誰も聞いてくれない。
「羨ましいです。ただのご近所さんだとしても」
 相棒の仲間晴真《なかまはるま》が見上げて来る。
「偶然会ったりするでしょう?駅まで一緒だったりとか」
 反射的に今朝の事を思い出した。
「まあ、ゴミ出しで一緒になったから、駅まで一緒だったな」
「何かお話したんでしょう!?」
「ニュースで見た、自動車の中で死んでいるのを発見された東北の遺体の話をしたな」
「また、朝から血生臭い話を……」
 晴真は眉を顰め、それから気を取り直したように訊き直す。
「で、先生のファッションは?」
「ベージュのロングコートで、濃い茶色のスカートとブーツ。上はコートとチェックのマフラーでわからん。
 あのなあ。何で俺が先生の私服を報告しないといけないんだよ」
 礼人は言うが、きっぱりと他の同僚達が、
「気になるから」
と即答し、
「そうか」
と引き下がるしかなかった。
 それより思い出したのはゴミ袋の方だったが、あの完全無欠のような涼子がそんな食生活なわけがないと、そう改めて思う。
 その時、事件の一報が入った。
「魚島公園で若い男の死体が発見された。向かってくれ」
「はい」
 途端に、バカ話をしていた男達は猟犬の顔になった。










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