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黒い鬼面
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これもまた、とあるマンションの管理人のおじさんから聞いた話。
その日の正吉は、仕事で酷く疲れて帰ってきた。
夜勤明けの、午前四時半。寝ぼけ眼も冴えない、薄暗がりの早朝。鳥も鳴かなければ、朝刊のバイクもまだ走る前だ。
その頃の正吉は、団地様の集合住宅に住んでいた。
そこの数戸を管理している正吉の知人が、やたらと「住んでくれ、住んでくれ」といやにヘーコラする上、提示してくる家賃がそこらの住宅の金額よりも格段に安かった。おまけに職場からは徒歩圏内。スーパーや学校、病院などの施設も充実した、平々凡々なベッドタウンにある。
それらが決め手となり、正吉は二年間という条件付きで、うやむやのうちに住み始めた。
エレベーターに乗り込み、五階を押す。クワァと大あくびをしながら、閉まった扉のガラスを眺めた。斜めの格子状に鉄線の入ったガラスは、胸よりも上部に縦長で、左右一枚ずつ嵌め込まれている。
ゴウンゴウンとやかましいエレベーターは、やがてゆるりゆるりと上昇していった。
三階を過ぎ、四階を過ぎようとしたとき。
「ん?」
正吉は、目が合ってしまった気がした。
四階のエレベーターの入り口の前に、何か。『何か黒いモノ』が、居たように見えた。それと目が合った、ような気がしたのである。『何か』──黒いそれは、なんだかヒトガタをしていたような。
チーン、と古ぼけたベルが鳴り、自動扉が開く。五階に着いた。着いたが、正吉は思わずボソリと呟いた。
「──気になる」
勝手に開いた扉を、閉まるボタンで閉め直し、再び一階を押してみる。
ゴウンゴウンと同じように、エレベーターは一階に向けて下降を始めた。
四階に差し掛かる。
凝らす眼の先に、しかし黒いモノは無く、正吉は「ありゃ?」と首を捻った。
「気のせいか?」
一階に着いたが、正吉は開くボタンを押し続けたままうーんうーんと唸った。曖昧な記憶にモヤモヤと霞がかかったような。
眠たいのだろうなということに落ち着き、もう一度閉まるボタンで五階へ向かった。
「ん?!」
四階。やはりそこのエレベーター前に、黒い何かが存在している。否が応にも勝手に眼球がそれを追えば、黒いソレも正吉をじっと追っていた。
ゾワゾワ、とどこからともなく寒気がした。正吉の脳天からかかとを貫く。
しかも、五階に着いたはずなのに扉が開かない。
カチカチカチカチ。
「は? ちょっ、何だよ」
開くボタンを連打してみるも、エレベーターの扉は言うことをきかない。最悪なことに、どこも押していないにもかかわらず、エレベーターは勝手にゴウンゴウンと階をひとつ下がる。
「いやいや、勘弁してくれっつの!」
チーン。古ぼけたベルが鳴り、エレベーターの扉はガウンと開いた。
四階のそこに居た、黒いモノ──それは、鬼の形相をしたヒトガタの幽霊であった。うつ伏せになり、顔をこちらに脚を向こうに、両の腕は顎の下からエレベーターを掴まんとしている。
禍々しい真っ黒の邪気を周囲にゆらめかせ、血走った双眸が正吉だけを捉えている。これが『怨念』であろう──正吉はなぜか冷静にそう悟った。
「閉まれチクショウ!」
連打する閉まるボタン。カチカチカチカチと人指し指の爪がボタンを刺すも、扉は閉まる気配がない。むしろ連打する度に、黒い鬼面がじわりじわりと正吉の足首めがけて腕を伸ばしてくる。這い寄る、とはこの事だ──正吉は顔面が引きつった。
正吉は知っている。こういう黒い幽霊──悪霊は、生きている者を容赦なく捕まえ、現世と引き剥がしてしまうことを。
時刻は午前四時四〇分。
こんな早朝に、他者の介入など有り得るわけがない。そうしている間にも、黒い鬼面の腕は指は、正吉へとズリズリ寄ってくる。
「く、来んなァ! クソ、閉まれっ、オンボロ!」
連打も虚しく、正吉はしかし連打する指が止まらない。
「うおわっ」
ゴウンっ、とエレベーターが唸って、突然目の前の扉が閉まった。鬼面が伸ばしていた指が挟まれそうになる寸前の出来事に、正吉は生きた心地がしなかった。
「なっ、なんだ?」
閉まると同時に、エレベーターは再び一階を目指して下っていく。いくら命じても閉まらなかったクセに、とエレベーターが憎たらしくなる。
チーンと古ぼけたベルが鳴り、エレベーターは無人の一階へ正吉を連れてきた。
「おはようございます」
時間帯的に無人のはずが、しかし目の前にはスーツの男性がいた。吹き出た脂汗でぐっしょりの正吉を一瞥して、エレベーターから降りるだろうと正吉を気遣い、横へ避けてくれている。
「お、おはよう、ございます」
「降りられないので?」
「えっ、え、ええ。ま、間違えちまって、押すボタン。へへ……」
正吉が誤魔化すと、彼は不審に思うような緊張感を表情に滲ませて、静かにエレベーターへと乗り込んできた。
「六階お願いします」
「あ、ハイ」
ゴウンゴウンとエレベーターが唸って、再び上昇を始める。五階と六階の階数ライトが、淡く古くさく光っている。
四階を通り過ぎる時、しかしエレベーターの向こうには何も居なかった。
正吉はポカンと口を開けて、「なんだったんだ」と首を捻る。
五階でようやく降りれば、いつもと変わらないエレベーターホールがそこにはあった。チーンと古ぼけたベルと共に、エレベーターの扉が閉まり、スーツの男性を乗せてゴウンゴウンと六階を行く。
もう、大丈夫なのだろうか──。
正吉は一抹の不安を胸の内に残しながら、とぼとぼと帰宅した。
後日、正吉へ部屋を押し付けた友人に聞いた話によると、正吉の部屋の真下で以前人が亡くなったようだ。
その部屋と、真上の正吉の部屋では、以来何やら怪奇現象が絶えず、『視える』体質の正吉なら「何とかしてくれるのでは」と思ったと打ち明けてきた。
「バっカ野郎。俺は霊媒師じゃねぇっつぅの」
契約期間内ではあったが、正吉は新しく別の部屋を探し、そちらへそそくさと移り住む。
あの黒い鬼面がどうなったのか、あの黒い鬼面がなんだったのかなどは、結局のところ全くわからない。ただ、邪念や怨念を抱き怨みの一心で現世にしがみついているモノだということだけは、ハッキリとわかった。
数年後、その集合住宅が取り壊されることになったようだが、工事がなかなか進まない旨を噂に耳にした。あの黒い鬼面の赤い眼が脳裏に過った正吉は、胸の内を薄ら寒くさせる。
嘘みたいな、節分の頃の話。
その日の正吉は、仕事で酷く疲れて帰ってきた。
夜勤明けの、午前四時半。寝ぼけ眼も冴えない、薄暗がりの早朝。鳥も鳴かなければ、朝刊のバイクもまだ走る前だ。
その頃の正吉は、団地様の集合住宅に住んでいた。
そこの数戸を管理している正吉の知人が、やたらと「住んでくれ、住んでくれ」といやにヘーコラする上、提示してくる家賃がそこらの住宅の金額よりも格段に安かった。おまけに職場からは徒歩圏内。スーパーや学校、病院などの施設も充実した、平々凡々なベッドタウンにある。
それらが決め手となり、正吉は二年間という条件付きで、うやむやのうちに住み始めた。
エレベーターに乗り込み、五階を押す。クワァと大あくびをしながら、閉まった扉のガラスを眺めた。斜めの格子状に鉄線の入ったガラスは、胸よりも上部に縦長で、左右一枚ずつ嵌め込まれている。
ゴウンゴウンとやかましいエレベーターは、やがてゆるりゆるりと上昇していった。
三階を過ぎ、四階を過ぎようとしたとき。
「ん?」
正吉は、目が合ってしまった気がした。
四階のエレベーターの入り口の前に、何か。『何か黒いモノ』が、居たように見えた。それと目が合った、ような気がしたのである。『何か』──黒いそれは、なんだかヒトガタをしていたような。
チーン、と古ぼけたベルが鳴り、自動扉が開く。五階に着いた。着いたが、正吉は思わずボソリと呟いた。
「──気になる」
勝手に開いた扉を、閉まるボタンで閉め直し、再び一階を押してみる。
ゴウンゴウンと同じように、エレベーターは一階に向けて下降を始めた。
四階に差し掛かる。
凝らす眼の先に、しかし黒いモノは無く、正吉は「ありゃ?」と首を捻った。
「気のせいか?」
一階に着いたが、正吉は開くボタンを押し続けたままうーんうーんと唸った。曖昧な記憶にモヤモヤと霞がかかったような。
眠たいのだろうなということに落ち着き、もう一度閉まるボタンで五階へ向かった。
「ん?!」
四階。やはりそこのエレベーター前に、黒い何かが存在している。否が応にも勝手に眼球がそれを追えば、黒いソレも正吉をじっと追っていた。
ゾワゾワ、とどこからともなく寒気がした。正吉の脳天からかかとを貫く。
しかも、五階に着いたはずなのに扉が開かない。
カチカチカチカチ。
「は? ちょっ、何だよ」
開くボタンを連打してみるも、エレベーターの扉は言うことをきかない。最悪なことに、どこも押していないにもかかわらず、エレベーターは勝手にゴウンゴウンと階をひとつ下がる。
「いやいや、勘弁してくれっつの!」
チーン。古ぼけたベルが鳴り、エレベーターの扉はガウンと開いた。
四階のそこに居た、黒いモノ──それは、鬼の形相をしたヒトガタの幽霊であった。うつ伏せになり、顔をこちらに脚を向こうに、両の腕は顎の下からエレベーターを掴まんとしている。
禍々しい真っ黒の邪気を周囲にゆらめかせ、血走った双眸が正吉だけを捉えている。これが『怨念』であろう──正吉はなぜか冷静にそう悟った。
「閉まれチクショウ!」
連打する閉まるボタン。カチカチカチカチと人指し指の爪がボタンを刺すも、扉は閉まる気配がない。むしろ連打する度に、黒い鬼面がじわりじわりと正吉の足首めがけて腕を伸ばしてくる。這い寄る、とはこの事だ──正吉は顔面が引きつった。
正吉は知っている。こういう黒い幽霊──悪霊は、生きている者を容赦なく捕まえ、現世と引き剥がしてしまうことを。
時刻は午前四時四〇分。
こんな早朝に、他者の介入など有り得るわけがない。そうしている間にも、黒い鬼面の腕は指は、正吉へとズリズリ寄ってくる。
「く、来んなァ! クソ、閉まれっ、オンボロ!」
連打も虚しく、正吉はしかし連打する指が止まらない。
「うおわっ」
ゴウンっ、とエレベーターが唸って、突然目の前の扉が閉まった。鬼面が伸ばしていた指が挟まれそうになる寸前の出来事に、正吉は生きた心地がしなかった。
「なっ、なんだ?」
閉まると同時に、エレベーターは再び一階を目指して下っていく。いくら命じても閉まらなかったクセに、とエレベーターが憎たらしくなる。
チーンと古ぼけたベルが鳴り、エレベーターは無人の一階へ正吉を連れてきた。
「おはようございます」
時間帯的に無人のはずが、しかし目の前にはスーツの男性がいた。吹き出た脂汗でぐっしょりの正吉を一瞥して、エレベーターから降りるだろうと正吉を気遣い、横へ避けてくれている。
「お、おはよう、ございます」
「降りられないので?」
「えっ、え、ええ。ま、間違えちまって、押すボタン。へへ……」
正吉が誤魔化すと、彼は不審に思うような緊張感を表情に滲ませて、静かにエレベーターへと乗り込んできた。
「六階お願いします」
「あ、ハイ」
ゴウンゴウンとエレベーターが唸って、再び上昇を始める。五階と六階の階数ライトが、淡く古くさく光っている。
四階を通り過ぎる時、しかしエレベーターの向こうには何も居なかった。
正吉はポカンと口を開けて、「なんだったんだ」と首を捻る。
五階でようやく降りれば、いつもと変わらないエレベーターホールがそこにはあった。チーンと古ぼけたベルと共に、エレベーターの扉が閉まり、スーツの男性を乗せてゴウンゴウンと六階を行く。
もう、大丈夫なのだろうか──。
正吉は一抹の不安を胸の内に残しながら、とぼとぼと帰宅した。
後日、正吉へ部屋を押し付けた友人に聞いた話によると、正吉の部屋の真下で以前人が亡くなったようだ。
その部屋と、真上の正吉の部屋では、以来何やら怪奇現象が絶えず、『視える』体質の正吉なら「何とかしてくれるのでは」と思ったと打ち明けてきた。
「バっカ野郎。俺は霊媒師じゃねぇっつぅの」
契約期間内ではあったが、正吉は新しく別の部屋を探し、そちらへそそくさと移り住む。
あの黒い鬼面がどうなったのか、あの黒い鬼面がなんだったのかなどは、結局のところ全くわからない。ただ、邪念や怨念を抱き怨みの一心で現世にしがみついているモノだということだけは、ハッキリとわかった。
数年後、その集合住宅が取り壊されることになったようだが、工事がなかなか進まない旨を噂に耳にした。あの黒い鬼面の赤い眼が脳裏に過った正吉は、胸の内を薄ら寒くさせる。
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