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黒
ピリオド 1
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真っ白なアイスリンクの中央、赤ライン上に描かれた円のなかで、ふたりの選手が対峙する。
片方は、聖クラスナ高校アイスホッケー部の公式戦用の赤地のユニフォームを着た、新3年生キャプテン。もう一方は、練習用の白地のユニフォーム姿のオルタネイト、つまりキャプテン代理の新2年生だ。
どちらもスティックを左側に構え、上半身をぐっと前に乗り出し、フェイスガードをつけた顔を突き合わせる。
ふたりの間に位置していたレフェリー役のコーチが、ぐっと腰をかがめた。
円の中央に手を伸ばす。
緊張感が高まる。
円の外側にいた響は、スティックを握る手に力がこもった。
かれのユニフォームは赤。キャプテン側のチームだ。
これが、入部してはじめての練習試合だった。
レフェリー役の手から黒のパックが落とされる。
その瞬間、パックは響のほうへ飛んだ。
フェイスオフでパックを取ったのはオルタネイト側。
響は反射的にパックを猛追し、キャッチ、すかさずパス。
瞬く間にキャプテン側が攻撃に転ずる。
スティックがパックを打つ乾いた音が響き、スケートが氷を削って飛沫が飛ぶ。
仲間のかけ声に考える間もなく身体が動く。
心臓の鼓動は加速する。とめどなく溢れるアドレナリンに血液が煮えたぎる。
パックが奪われた。敵は一気にゴールへ突進してくる。
響ともうひとりのディフェンスはそれを猛追。
先に追い越した響がゴール前に滑り込むーーーーーー
『黒川、鼻血』
試合後、ベンチで呆然としていた響は、その声で顔を上げた。
声をかけたのは蒼井だった。
ヘルメットを脇に抱え、ゴーリーの装備を身につけている。この日の練習試合で、かれは響と同じキャプテン側のメンバーだった。
ヘルメットの跡が赤く残った顔で蒼井を見上げた響は、首を傾げた。
『……え?』
『だから、鼻血出てるって』
そう言って、蒼井は自分のハンドタオルを差し出した。
やっと我に帰った響は、手の甲で鼻の下を拭った。
『うわ、ほんとだ』
『3年とやるの、びびっただろ。でもおまえ、すごい早いよ』
ん、と突き出されたタオルを受け取って、響は鼻を押さえた。
鼻声で、『ありがとう』と答える。
蒼井はその強面とは裏腹に、目を細めて楽しそうに笑った。
『あの、タオル……』
『やるよ』
そう言うと、重い装備を身につけた大男はのしのしと立ち去った。
蒼井先輩は優しいんだな、と響はその大きな背中を見つめながら思った。
聖クラスナ高校は豊かな家庭出身の生徒が多く、プライドが高いのか、どこか冷めた印象があった。
特にアイスホッケー部はその傾向が強いと、入部して半年のかれは感じていた。
東京で、しかも潤沢な資金を使って整備された環境でプレーできる学校はここしかない。
文句はないが、信頼関係を築くには骨が折れそうだと感じていた響にとって、蒼井の存在は心強く感じた。
*
汗でぐっしょり濡れたインナーシャツを脱いだ響は、上半身だけ裸のまま、ベンチに腰を下ろした。
ほかの生徒が帰ったあとも残って練習していた響は、ひとり更衣室で帰り支度をしていた。
壁の時計は19時を回っている。
そろそろ、警備員が見回りにやってくる頃だった。
響はロッカーの上を見上げた。
そこには、蒼井がくれたハンドタオルがかかっていた。
鼻血で赤く染まってしまったそれを何度も手洗いし、干していたのだ。
そのハンドタオルは青と白で、カナダのアイスホッケークラブ“トロントメープルリーフス”のロゴがデザインされている。
本当に返さなくていいのかな。
響は考えながら、制服のワイシャツに袖を通す。
きっと大事にしてたはずだ、ちゃんと洗濯して……でも、おれの鼻血で汚されたやつを返されても、困るかな。
『練習、終わったの?』
唐突に人の声がして、響は驚いて振り返った。
更衣室の入口に、男が立っていた。
警備員かと思ったが、制服姿ではなかった。
『……おれ、ですか?』
『もうきみしかいないよ。きみ、1年?』
男は整った顔に親しげな笑みを浮かべ、入ってきた。
かれの背後に、ふたりの男がついてくる。
どこかで見た顔だ。
記憶を探った響は、やっと気づいた。
今日の練習試合を客席で見ていた人たちだ。先輩やコーチと親しげに話していた、そう、ここのOBで、“レッドスター”の現役選手ーーーーーー
響は慌てて立ち上がり、「はい!」と元気よく答えた。
『そっか。じゃあ、おれたちが卒業したあとに入部したんだ』
そう言ったのは、男たちの中心にいた、がたいのいい男だった。背丈はそれほどでもないが、腕も足も太く、響は思わず見惚れた。
『練習試合、観てたよ。3年も、きみのスピードに追いつくのが必死って感じだったな。たんに追いかけ回してるだけ』
『そんなことは……』
『顔真っ赤じゃん、かわいいね、黒川くん』
男はぐっと響に身を寄せると、背後のハンガーにかけてあるユニフォームの名を指でなぞった。
『すごく熱心で感心するよ。おれたちさ、きみが練習終えるの待ってたんだよ』
『どうして、ですか?』
男は響の肩を抱き寄せ、耳元で囁いた。
『仲良くなりたいなあと思って。ねえ、これからおれたちと、遊ばない?』
『遊ぶ?』
『きみがチェックされるの想像してさ、すげー犯りたくなったんだよね』
『……え?』
そこへ、警備員がひょっこり顔を出した。
『まだ残ってるのかい?』
『あ、ご苦労様です。もう少し、練習していきます。ここの鍵、警備室に戻しておきますから』
男が愛想のいい声で答える。響の肩を抱く手にはぐっと力がこもった。
『よろしくね』と言って、警備員は去った。
『……ここの警備員、いい加減だからさ、こう言っておけばもう見回りに来ないよ』
『あの、おれはもう帰ります』
『だめだよ、せっかく待ったんだからさ。それに、きみもおれのことエロい目で見てたじゃん……うわ、きれいな肌』
『やめろ』
ワイシャツのなかを覗き込んだ男を突き放し、響はきっと睨みつけた。
『いいじゃん、そのきれいな顔、ぐちゃぐちゃに汚してやりたいよ……』
男は舌なめずりしながら、ベルトをはずした。
*
蒼井はひとり、照明の消えたアイスリンクへ向かって走っていた。
部活のあと塾へ行き、帰る間際になって財布がないのに気づいたかれは、部の更衣室へ急いでいた。
建物の入口が見えてきたところで、数人の笑い声が聴こえた。
その楽しげな声がするほうへ目をやると、暗がりを裏門へ向かう3人組の男が見えた。
かれらが、この日顔を出していたOBなのは、遠目でも分かった。
当時の担任と長話でもして盛り上がっていたのかな、と蒼井はさして気に留めなかった。
異変を感じたのは、シャワールームを通りかかったときだった。
だれもいないはずのそこで、ざあざあと勢いよく湯の出る音がしていた。
蒼井は首だけ突っ込んで、なかを覗いた。
奥の壁沿いに、簡素な壁で仕切られたシャワーが5つ並んでいる。
もうもうと湯気が立ち込めて視界はほぼないが、そのひとつから湯が出ているのは確かだった。
そして、流れる水音に紛れて、すすり泣く声が耳に入った。
シャワールームに足を踏み入れた蒼井は、数歩目で立ち止まった。
タイル張りの床に転々と落ちている赤いものを見て、息を呑む。
『……だれか、いるのか』
泣き声がぴたりと止まった。
水の流れる音だけが、室内で増幅される。
蒼井は湯が出ているシャワーにゆっくり近づいた。
ぼんやりとした人影が見えた。うずくまっているようだ。
『どうしたんだ、ケガでもしたのか?』
『来ないで!』
『……黒川?』
蒼井はとっさに人影に駆け寄った。上から注ぐ滝のような湯に飛び込む。
触れたとたん、人影は水滴を散らしながら飛び退いた。床を這い、壁の隅に逃げる。
『……蒼井先輩、なんで』
かすれた声で、響は言った。全身ががたがたと震えているせいで、声も震えた。
『近づかないで、お願いだから……』
『でも、おまえ……』
シャワーの湯を止め、改めて後輩の姿を見た蒼井は、言葉を失った。
響はワイシャツしか身につけていなかった。全身がずぶ濡れで、床に力なく投げ出された両足はあちこちが赤くなり、擦り傷や引っ掻き傷だらけだった。
シャツがはだけたところから見える場所はすべてと言っていいほど、点々と赤い跡が残っている。それは殴られたり切られたりしたような痕ではなかった。
蒼井の頭のなかで、後輩の酷い有様とさっき見かけた3人組が結びついた。
『なんでもないから、帰って……』
響は両手で顔を覆い、声を絞り出した。
切れて血の滲んだ唇は震え、流れる涙を止められない。
『黒川、もう大丈夫、大丈夫だよ』
響はしばらく泣き続けて涙が枯れたのか、唐突に静かになった。
心配になった蒼井が顔を覗こうと腰を上げると、ぼそり、『ごめんなさい』と言った。
蒼井はそれに派手なくしゃみで応えた。濡れた身体はすっかり冷え切っていた。
『黒川、出よう』
響は頷いたが、立ち上がるのも困難だった。
そんなかれを蒼井はおぶって、更衣室へ戻った。
『そのメープルリーフスのタオル、カナダで買ってもらったんだ』
バスタオルに全身を包まった響の隣で、蒼井は中学生の頃に家族旅行で行ったカナダの話をした。
蒼井も濡れた服を脱ぎ、パンツ一丁でバスタオルを肩にかけていた。
かれは北米のNHLだけでなく、ロシアのKHLの試合もチェックするほどのホッケー通だった。
カナダ旅行の目的ももちろん、本場でのホッケー観戦だ。
現地で観たプレー、憧れの選手たち、海外のクラブのことーーーーーー
響に笑顔が戻るまで、何時間も、蒼井は話し続けた。
「……それで好きになっちゃうってのも、単純だよな」
響は陸上グラウンドに目を向けたまま、ぼそりとつぶやいた。
夕方の5時を回ってもまだ陽射しは強く、赤茶色のグラウンドを眩しいほどに照りつけている。
アイスリンクが閉じられる6月から8月の3ヶ月間、聖クラスナ・アイスホッケー部の練習はもっぱら、インラインスケートが中心となる。それは、アジアリーグに所属している上位クラブ“レッドスター”も同じで、校内の陸上グラウンドと体育館を共用していた。
9月は新しいシーズンが始まる月であり、忌々しい出来事が起こった月でもある。
響は毎年、夏の盛りを過ぎる頃になると、シーズンの到来を心待ちにする反面、いつまでも消えない記憶に悩まされるのだった。
思えば、アイスホッケー部に入部したおれの動機は不純だったーーーーーー
響は毎回、苦い記憶とともに同じ後悔を繰り返す。
子どもの頃から男が好きで、特に体格の立派な男に惹かれた。
ある年の冬季オリンピックではじめてアイスホッケーの試合を観たとき、逞しい男たちが華麗に氷上を滑る姿に感動し、激しくぶつかりながらパックを奪い合う姿に燃えた。
さっそくキッズクラブに入り、そこでスケート靴の履き方から学んだ。
両親になにかをねだったのは、それだけだ。
おれを襲った連中は、密かな願望を見抜いていた。
逞しい身体に触れてみたい、という欲求が高まっていたのは事実だ。そういう年頃だった。
だからおれは、かれらにされたことをだれにも言わなかった。
壮平にも、実際のところは明かしていない。
はじめての相手は壮平。それがおれたちの真実だ。
あのクズ3人組は、おれが高校を卒業してレッドスターに入る直前、ホッケー界から消えた。
なにがあったのかは知らない。それなりに腕のある連中だったから、引退するには早すぎると思った。
1年先にレッドスターに入り、あっという間にレギュラーのゴーリーとなった壮平はなにか知っているようだったが、口を割らなかった。
なにも語らないかれの態度で、おれはなんとなく事情を察した。
それだけで十分だった。
インラインスケートを履いた部員たちが汗を光らせ、スティックでパックを操りながらすいすいと滑っている。
所々に障害物が設置されていて、下級生がそれにつまづくなか、上級生はなんなくパックを操り、体勢を変えたりと工夫しながら練習していた。
一方、サングラスをかけた顧問兼コーチは日陰のベンチにふんぞりかえり、その様子を眺めていた。
今日はベテランの専属コーチがいるから、監督はかれに任せてある。
グラウンドを回って戻ってくるメンバーのなかに、夏海の姿があった。
かれは入部して早々にレギュラーを勝ち取っていた。強豪ぞろいの北海道で鍛えられただけのことはあった。
「甥っ子くんは、どれだ?」
背後からした声に響は飛び上がった。
隣にどっかと腰を下ろしたのは、蒼井だった。
ベンチの端に革カバンとスーツの上着を置き、ネクタイを緩めると、ワイシャツの袖をまくった。
響はサングラスを取り、
「どうした、なにしに来たんだよ」
「OBが後輩の激励に来たっていいだろ。ほら、差し入れ」
響は銀色の大きな保冷バッグを受け取った。中身はアイスのようだ。
「ありがとう。そんなのしたことないくせに、どうして急に……仕事は?」
「今日は出先から直帰ーーーーーーなあ、どれだよ?」
ちょうど、コーチが休憩をコールして、全員がぞろぞろとベンチへ戻ってくるところだった。
学校指定の白ジャージだったり、カラフルなトレーニングウェアだったり、姿はそれぞれ違う。
「あの、レッドスターの赤シャツの子」
「うわ、あの一番でかいやつ?」
声をひそめた会話が耳に届くはずもないのに、夏海がふたりを見た。
まっすぐふたりのもとへ滑ってくると、キャップを取り、蒼井に向かって深々と頭を下げた。
「こんにちは。2年の赤城です。蒼井選手、ですよね。札幌遠征のときの試合、全部観に行きました」
蒼井は立ち上がり、手を差し出した。
「夏海くん、だろ。黒川くんから聞いてるよ。全部観てくれたのか?嬉しいな」
にこにこしている蒼井の手を握り返した夏海は、響に意味深な視線を投げた。
なぜか響も、反射的に立ち上がる。
蒼井は手を引こうとしたが、夏海は離さなかった。そして、硬い表情のまま、
「響さんと、まだ親しくされてるんですか」
棘のある言い方だった。
蒼井は驚いて、目をパチクリさせた。
響がふたりの間に割って入ると、夏海はようやく手を離した。
「これ、蒼井先輩からの差し入れ、みんなに持っていって!」
「……はい」
袋を受け取った夏海はまた深々と頭を下げ、仲間のもとへ駆けて行った。
蒼井は苦笑いでかれを見送った。
礼儀正しいし、チームメイトとじゃれ合う様は高校生らしい。
が、その態度は威圧的だった。
「あの子、昔と変わってないね」
「ごめん、気を悪くしないでくれ」
「しないよ。ライバルはかれだけじゃない」
「ばか言うなって……なあ、壮平」
ワイシャツをそっと引いて、響は蒼井に身を寄せた。
「どうした?」
「このあと、壮平んちに行きたい。連絡するつもりだったんだ」
「じゃあ、来てよかったな。今日は飯買って帰るか。なに食いたい?」
「壮平」
「おまえ……まだ仕事中だろ」
蒼井の頬にさっと赤みが差す。
キスしたい衝動を抑え、かれは響の耳たぶをきゅっとつまんだ。
片方は、聖クラスナ高校アイスホッケー部の公式戦用の赤地のユニフォームを着た、新3年生キャプテン。もう一方は、練習用の白地のユニフォーム姿のオルタネイト、つまりキャプテン代理の新2年生だ。
どちらもスティックを左側に構え、上半身をぐっと前に乗り出し、フェイスガードをつけた顔を突き合わせる。
ふたりの間に位置していたレフェリー役のコーチが、ぐっと腰をかがめた。
円の中央に手を伸ばす。
緊張感が高まる。
円の外側にいた響は、スティックを握る手に力がこもった。
かれのユニフォームは赤。キャプテン側のチームだ。
これが、入部してはじめての練習試合だった。
レフェリー役の手から黒のパックが落とされる。
その瞬間、パックは響のほうへ飛んだ。
フェイスオフでパックを取ったのはオルタネイト側。
響は反射的にパックを猛追し、キャッチ、すかさずパス。
瞬く間にキャプテン側が攻撃に転ずる。
スティックがパックを打つ乾いた音が響き、スケートが氷を削って飛沫が飛ぶ。
仲間のかけ声に考える間もなく身体が動く。
心臓の鼓動は加速する。とめどなく溢れるアドレナリンに血液が煮えたぎる。
パックが奪われた。敵は一気にゴールへ突進してくる。
響ともうひとりのディフェンスはそれを猛追。
先に追い越した響がゴール前に滑り込むーーーーーー
『黒川、鼻血』
試合後、ベンチで呆然としていた響は、その声で顔を上げた。
声をかけたのは蒼井だった。
ヘルメットを脇に抱え、ゴーリーの装備を身につけている。この日の練習試合で、かれは響と同じキャプテン側のメンバーだった。
ヘルメットの跡が赤く残った顔で蒼井を見上げた響は、首を傾げた。
『……え?』
『だから、鼻血出てるって』
そう言って、蒼井は自分のハンドタオルを差し出した。
やっと我に帰った響は、手の甲で鼻の下を拭った。
『うわ、ほんとだ』
『3年とやるの、びびっただろ。でもおまえ、すごい早いよ』
ん、と突き出されたタオルを受け取って、響は鼻を押さえた。
鼻声で、『ありがとう』と答える。
蒼井はその強面とは裏腹に、目を細めて楽しそうに笑った。
『あの、タオル……』
『やるよ』
そう言うと、重い装備を身につけた大男はのしのしと立ち去った。
蒼井先輩は優しいんだな、と響はその大きな背中を見つめながら思った。
聖クラスナ高校は豊かな家庭出身の生徒が多く、プライドが高いのか、どこか冷めた印象があった。
特にアイスホッケー部はその傾向が強いと、入部して半年のかれは感じていた。
東京で、しかも潤沢な資金を使って整備された環境でプレーできる学校はここしかない。
文句はないが、信頼関係を築くには骨が折れそうだと感じていた響にとって、蒼井の存在は心強く感じた。
*
汗でぐっしょり濡れたインナーシャツを脱いだ響は、上半身だけ裸のまま、ベンチに腰を下ろした。
ほかの生徒が帰ったあとも残って練習していた響は、ひとり更衣室で帰り支度をしていた。
壁の時計は19時を回っている。
そろそろ、警備員が見回りにやってくる頃だった。
響はロッカーの上を見上げた。
そこには、蒼井がくれたハンドタオルがかかっていた。
鼻血で赤く染まってしまったそれを何度も手洗いし、干していたのだ。
そのハンドタオルは青と白で、カナダのアイスホッケークラブ“トロントメープルリーフス”のロゴがデザインされている。
本当に返さなくていいのかな。
響は考えながら、制服のワイシャツに袖を通す。
きっと大事にしてたはずだ、ちゃんと洗濯して……でも、おれの鼻血で汚されたやつを返されても、困るかな。
『練習、終わったの?』
唐突に人の声がして、響は驚いて振り返った。
更衣室の入口に、男が立っていた。
警備員かと思ったが、制服姿ではなかった。
『……おれ、ですか?』
『もうきみしかいないよ。きみ、1年?』
男は整った顔に親しげな笑みを浮かべ、入ってきた。
かれの背後に、ふたりの男がついてくる。
どこかで見た顔だ。
記憶を探った響は、やっと気づいた。
今日の練習試合を客席で見ていた人たちだ。先輩やコーチと親しげに話していた、そう、ここのOBで、“レッドスター”の現役選手ーーーーーー
響は慌てて立ち上がり、「はい!」と元気よく答えた。
『そっか。じゃあ、おれたちが卒業したあとに入部したんだ』
そう言ったのは、男たちの中心にいた、がたいのいい男だった。背丈はそれほどでもないが、腕も足も太く、響は思わず見惚れた。
『練習試合、観てたよ。3年も、きみのスピードに追いつくのが必死って感じだったな。たんに追いかけ回してるだけ』
『そんなことは……』
『顔真っ赤じゃん、かわいいね、黒川くん』
男はぐっと響に身を寄せると、背後のハンガーにかけてあるユニフォームの名を指でなぞった。
『すごく熱心で感心するよ。おれたちさ、きみが練習終えるの待ってたんだよ』
『どうして、ですか?』
男は響の肩を抱き寄せ、耳元で囁いた。
『仲良くなりたいなあと思って。ねえ、これからおれたちと、遊ばない?』
『遊ぶ?』
『きみがチェックされるの想像してさ、すげー犯りたくなったんだよね』
『……え?』
そこへ、警備員がひょっこり顔を出した。
『まだ残ってるのかい?』
『あ、ご苦労様です。もう少し、練習していきます。ここの鍵、警備室に戻しておきますから』
男が愛想のいい声で答える。響の肩を抱く手にはぐっと力がこもった。
『よろしくね』と言って、警備員は去った。
『……ここの警備員、いい加減だからさ、こう言っておけばもう見回りに来ないよ』
『あの、おれはもう帰ります』
『だめだよ、せっかく待ったんだからさ。それに、きみもおれのことエロい目で見てたじゃん……うわ、きれいな肌』
『やめろ』
ワイシャツのなかを覗き込んだ男を突き放し、響はきっと睨みつけた。
『いいじゃん、そのきれいな顔、ぐちゃぐちゃに汚してやりたいよ……』
男は舌なめずりしながら、ベルトをはずした。
*
蒼井はひとり、照明の消えたアイスリンクへ向かって走っていた。
部活のあと塾へ行き、帰る間際になって財布がないのに気づいたかれは、部の更衣室へ急いでいた。
建物の入口が見えてきたところで、数人の笑い声が聴こえた。
その楽しげな声がするほうへ目をやると、暗がりを裏門へ向かう3人組の男が見えた。
かれらが、この日顔を出していたOBなのは、遠目でも分かった。
当時の担任と長話でもして盛り上がっていたのかな、と蒼井はさして気に留めなかった。
異変を感じたのは、シャワールームを通りかかったときだった。
だれもいないはずのそこで、ざあざあと勢いよく湯の出る音がしていた。
蒼井は首だけ突っ込んで、なかを覗いた。
奥の壁沿いに、簡素な壁で仕切られたシャワーが5つ並んでいる。
もうもうと湯気が立ち込めて視界はほぼないが、そのひとつから湯が出ているのは確かだった。
そして、流れる水音に紛れて、すすり泣く声が耳に入った。
シャワールームに足を踏み入れた蒼井は、数歩目で立ち止まった。
タイル張りの床に転々と落ちている赤いものを見て、息を呑む。
『……だれか、いるのか』
泣き声がぴたりと止まった。
水の流れる音だけが、室内で増幅される。
蒼井は湯が出ているシャワーにゆっくり近づいた。
ぼんやりとした人影が見えた。うずくまっているようだ。
『どうしたんだ、ケガでもしたのか?』
『来ないで!』
『……黒川?』
蒼井はとっさに人影に駆け寄った。上から注ぐ滝のような湯に飛び込む。
触れたとたん、人影は水滴を散らしながら飛び退いた。床を這い、壁の隅に逃げる。
『……蒼井先輩、なんで』
かすれた声で、響は言った。全身ががたがたと震えているせいで、声も震えた。
『近づかないで、お願いだから……』
『でも、おまえ……』
シャワーの湯を止め、改めて後輩の姿を見た蒼井は、言葉を失った。
響はワイシャツしか身につけていなかった。全身がずぶ濡れで、床に力なく投げ出された両足はあちこちが赤くなり、擦り傷や引っ掻き傷だらけだった。
シャツがはだけたところから見える場所はすべてと言っていいほど、点々と赤い跡が残っている。それは殴られたり切られたりしたような痕ではなかった。
蒼井の頭のなかで、後輩の酷い有様とさっき見かけた3人組が結びついた。
『なんでもないから、帰って……』
響は両手で顔を覆い、声を絞り出した。
切れて血の滲んだ唇は震え、流れる涙を止められない。
『黒川、もう大丈夫、大丈夫だよ』
響はしばらく泣き続けて涙が枯れたのか、唐突に静かになった。
心配になった蒼井が顔を覗こうと腰を上げると、ぼそり、『ごめんなさい』と言った。
蒼井はそれに派手なくしゃみで応えた。濡れた身体はすっかり冷え切っていた。
『黒川、出よう』
響は頷いたが、立ち上がるのも困難だった。
そんなかれを蒼井はおぶって、更衣室へ戻った。
『そのメープルリーフスのタオル、カナダで買ってもらったんだ』
バスタオルに全身を包まった響の隣で、蒼井は中学生の頃に家族旅行で行ったカナダの話をした。
蒼井も濡れた服を脱ぎ、パンツ一丁でバスタオルを肩にかけていた。
かれは北米のNHLだけでなく、ロシアのKHLの試合もチェックするほどのホッケー通だった。
カナダ旅行の目的ももちろん、本場でのホッケー観戦だ。
現地で観たプレー、憧れの選手たち、海外のクラブのことーーーーーー
響に笑顔が戻るまで、何時間も、蒼井は話し続けた。
「……それで好きになっちゃうってのも、単純だよな」
響は陸上グラウンドに目を向けたまま、ぼそりとつぶやいた。
夕方の5時を回ってもまだ陽射しは強く、赤茶色のグラウンドを眩しいほどに照りつけている。
アイスリンクが閉じられる6月から8月の3ヶ月間、聖クラスナ・アイスホッケー部の練習はもっぱら、インラインスケートが中心となる。それは、アジアリーグに所属している上位クラブ“レッドスター”も同じで、校内の陸上グラウンドと体育館を共用していた。
9月は新しいシーズンが始まる月であり、忌々しい出来事が起こった月でもある。
響は毎年、夏の盛りを過ぎる頃になると、シーズンの到来を心待ちにする反面、いつまでも消えない記憶に悩まされるのだった。
思えば、アイスホッケー部に入部したおれの動機は不純だったーーーーーー
響は毎回、苦い記憶とともに同じ後悔を繰り返す。
子どもの頃から男が好きで、特に体格の立派な男に惹かれた。
ある年の冬季オリンピックではじめてアイスホッケーの試合を観たとき、逞しい男たちが華麗に氷上を滑る姿に感動し、激しくぶつかりながらパックを奪い合う姿に燃えた。
さっそくキッズクラブに入り、そこでスケート靴の履き方から学んだ。
両親になにかをねだったのは、それだけだ。
おれを襲った連中は、密かな願望を見抜いていた。
逞しい身体に触れてみたい、という欲求が高まっていたのは事実だ。そういう年頃だった。
だからおれは、かれらにされたことをだれにも言わなかった。
壮平にも、実際のところは明かしていない。
はじめての相手は壮平。それがおれたちの真実だ。
あのクズ3人組は、おれが高校を卒業してレッドスターに入る直前、ホッケー界から消えた。
なにがあったのかは知らない。それなりに腕のある連中だったから、引退するには早すぎると思った。
1年先にレッドスターに入り、あっという間にレギュラーのゴーリーとなった壮平はなにか知っているようだったが、口を割らなかった。
なにも語らないかれの態度で、おれはなんとなく事情を察した。
それだけで十分だった。
インラインスケートを履いた部員たちが汗を光らせ、スティックでパックを操りながらすいすいと滑っている。
所々に障害物が設置されていて、下級生がそれにつまづくなか、上級生はなんなくパックを操り、体勢を変えたりと工夫しながら練習していた。
一方、サングラスをかけた顧問兼コーチは日陰のベンチにふんぞりかえり、その様子を眺めていた。
今日はベテランの専属コーチがいるから、監督はかれに任せてある。
グラウンドを回って戻ってくるメンバーのなかに、夏海の姿があった。
かれは入部して早々にレギュラーを勝ち取っていた。強豪ぞろいの北海道で鍛えられただけのことはあった。
「甥っ子くんは、どれだ?」
背後からした声に響は飛び上がった。
隣にどっかと腰を下ろしたのは、蒼井だった。
ベンチの端に革カバンとスーツの上着を置き、ネクタイを緩めると、ワイシャツの袖をまくった。
響はサングラスを取り、
「どうした、なにしに来たんだよ」
「OBが後輩の激励に来たっていいだろ。ほら、差し入れ」
響は銀色の大きな保冷バッグを受け取った。中身はアイスのようだ。
「ありがとう。そんなのしたことないくせに、どうして急に……仕事は?」
「今日は出先から直帰ーーーーーーなあ、どれだよ?」
ちょうど、コーチが休憩をコールして、全員がぞろぞろとベンチへ戻ってくるところだった。
学校指定の白ジャージだったり、カラフルなトレーニングウェアだったり、姿はそれぞれ違う。
「あの、レッドスターの赤シャツの子」
「うわ、あの一番でかいやつ?」
声をひそめた会話が耳に届くはずもないのに、夏海がふたりを見た。
まっすぐふたりのもとへ滑ってくると、キャップを取り、蒼井に向かって深々と頭を下げた。
「こんにちは。2年の赤城です。蒼井選手、ですよね。札幌遠征のときの試合、全部観に行きました」
蒼井は立ち上がり、手を差し出した。
「夏海くん、だろ。黒川くんから聞いてるよ。全部観てくれたのか?嬉しいな」
にこにこしている蒼井の手を握り返した夏海は、響に意味深な視線を投げた。
なぜか響も、反射的に立ち上がる。
蒼井は手を引こうとしたが、夏海は離さなかった。そして、硬い表情のまま、
「響さんと、まだ親しくされてるんですか」
棘のある言い方だった。
蒼井は驚いて、目をパチクリさせた。
響がふたりの間に割って入ると、夏海はようやく手を離した。
「これ、蒼井先輩からの差し入れ、みんなに持っていって!」
「……はい」
袋を受け取った夏海はまた深々と頭を下げ、仲間のもとへ駆けて行った。
蒼井は苦笑いでかれを見送った。
礼儀正しいし、チームメイトとじゃれ合う様は高校生らしい。
が、その態度は威圧的だった。
「あの子、昔と変わってないね」
「ごめん、気を悪くしないでくれ」
「しないよ。ライバルはかれだけじゃない」
「ばか言うなって……なあ、壮平」
ワイシャツをそっと引いて、響は蒼井に身を寄せた。
「どうした?」
「このあと、壮平んちに行きたい。連絡するつもりだったんだ」
「じゃあ、来てよかったな。今日は飯買って帰るか。なに食いたい?」
「壮平」
「おまえ……まだ仕事中だろ」
蒼井の頬にさっと赤みが差す。
キスしたい衝動を抑え、かれは響の耳たぶをきゅっとつまんだ。
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