キスは氷を降りてから

momomo

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オーバータイム

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 蒼井はまだ新しいユニフォームを頭からかぶった。
 プロテクタで固めた身体を、目が覚めるような鮮やかな青が覆う。
 どっかとベンチに腰を下ろしたかれは、宙を睨んだ。

「……」

 ロッカールームでは、チームメイトが着々と装備を進めている。

 間もなく、試合がはじまる。
 蒼井の古巣、レッドスターとの優勝を賭けた第一戦だ。
 年が明けてシーズンも終盤に入り、札幌に拠点を置く“ブルーシャーク”は優勝に向けて邁進していた。
 ブルーシャーク優勝を阻止するクラブがあるとすれば、それはレッドスターだ。
 ほかのメンバーに遅れてシーズン途中でブルーシャークに合流した蒼井だったが、すでに中核としてゴールを守っていた。
 優勝への意気込みはだれにも負けない。
 が、常にまとわりつく虚しさを拭えずにいた。

 装備を終えた選手が、ひとりまたひとりとロッカールームを出ていく。
 なにやら出入り口が騒々しいが、蒼井は首を曲げるのも億劫だった。

 黒川さんだーーーーーー

 だれかがそう言ったような気がした。
 ばかな、そんなはずはない。ついに幻聴まではじまったか。
 蒼井は目を閉じ、試合のシミュレーションに集中した。

「青、似合うね」

 すぐそばで聴こえたその声に、蒼井はぱっと目を開けた。

「響!」

 野太い叫び声が室内にこだまする。

 目の前に立っていたのは、響だった。
 グレーのスーツを着て、濃紺のネクタイを締めている。

「……」

 蒼井は口をぱくぱくするばかりで、二の句が継げない。
 くすっと笑う響の上着の襟に光るものを認めて、蒼井は勢いよく立ち上がった。

「どういうことだよ、これは!」

 蒼井が掴んだそれは、小さなバッヂだった。
 ユニフォームと同じ青色の、サメ。

「おれも今日から、ここの一員」
「ここのって……学校は?」
「辞めた。クラスナもレッドスターも、全部見捨ててやった。もう、罪滅ぼしは十分だろ?」
「ばかが……」

 蒼井は響の両肩に手を置き、まじまじとその姿を見た。
 ネクタイもブルーシャーク公式キャラクターのサメ柄だ。

「その格好ってことは、コーチ?」
「佐田さんの下につくなんて吐き気がするけど、もう現役に戻る気はないからさ。おれの代わりにひとり放り出されたらしいから、きっと恨まれるよ」
「どうやってそんなこと……?」
「きみを引き抜いたのがだれかくらい、すぐにわかったよ。佐田ヘッドコーチにはおれも現役時代、世話になってる。だから、壮平だけ引き抜くなんてズルいって抗議したんだ。そしたら、勝手に引退したやつがなに言ってやがる、戻ってきやがれ根性なしめって説教するからさ、そっちこそ問題山積みのクラブを捨てて出て行ったくせに偉そうなこと言うな、貸しを返せって言ってやったんだ」
「あの人にそんなことを……怖いもん知らずだな……」

 そう言う間にも、蒼井の声は震え、目には涙が溜まっていった。

「試合前だぞ、泣くなよ」

 ぽろりとこぼれ落ちた涙を拭う響の手を蒼井は掴み、細い指に口づけた。
 その、少し右へ曲がった人差し指を見ながら、響は思い出す。


 おれがこの世界で生きられたのは、壮平がいたからだ。
 かれがゴールにいるという安心感。絶対の信頼。
 プロになってからも、屈強な男たちのすさまじい体当たりにさえ、かれがそばにいたから耐えられた。

『ブルーシャークのやつら、絶対、おまえを標的にしてる』

 蒼井は鼻息荒く言った。

『ゴール前の混乱に乗じて、やりやがったんだ』
『みんな、骨の一本や二本折ってるよ』

 響がプロになって4年目のシーズン中だった。
 試合中、敵のシュートを阻止した響は、突進してきた攻撃手にゴーリーの蒼井ともども突き飛ばされた。
 気を失ったかれは、気づくと病院のベッドの上にいた。
 そして、ベッドの脇には、丸椅子に座ってうとうとする蒼井がいたのだった。

 蒼井は身を屈めると、包帯を巻かれた人差し指に口づけた。
 響は指だけでなく、胴体も包帯でぐるぐる巻きの状態だった。肋骨も折れていた。
 どうして壮平だけ無傷なんだ、とぼんやりした頭で響は思った。

 同室の患者がいないのをいいことに、ふたりは唇を重ねた。
 遠慮がちなキスが、次第に熱を帯びてくる。
 蒼井は響の頬を撫でながら、かれの柔らかな唇の間に舌を滑り込ませた。

『……看護師さん、来るかも』
『来ないよ……なあ、前歯は無事でよかったな。歯抜けのおまえとは、笑っちゃってキスできないよ』
『ひどいな!……いて』

 響は脇腹の痛みに顔を歪めた。

『じゃあおまえ、キスできるか?おれがそんなになっても』
『できない』

 痛みに苦しみながら笑う響に、蒼井も笑いを堪え切れないまま、唇を重ねた。


 おれたちが何度離れてももとに戻ったのは、たまたまじゃない。
 おれ自身が求めていたからだ。
 別れのタイミングが訪れるたび、これでいいんだ、とおれは自分に言い聞かせ、壮平を手放そうとした。
 だが、かれへの想いが消えたことは一度もなかった。
 おそらくそれは、16歳でかれを好きになってから、ずっとーーーーーー

「なあ響、おまえも青のユニフォームのほうが似合うと思うよ」

 蒼井が真剣な表情で言った。
 響は口を尖らせ、

「佐田さんに変なこと吹き込むなよ」
「おれは、またおまえとプレーしたいよ。おまえだって、そうだろ?」
「でも……」

 蒼井は響の人差し指にそっと口づけた。

「もし前歯が折れても、キスしてやるから」
「……もしかして、同じこと思い出してた?」
「響も?」

 響は照れくさそうに笑った。

「壮平⋯⋯本当はおれも、きみと一緒にいたい」
「わかってる。ここに来てくれただけで、それ以上の答えはないよ」

 ふたりは唇を寄せかけて、同時に留まった。
 それは、はじめて口づけを交わした日から変わらない、ふたりだけのジンクス。

 響は顔を逸らし、ほっと息をついた。

「……危なかった」
「今日くらい、いいんじゃないか?」
「だめに決まってるだろ、今日の相手はレッドスターだぞ。負けるなんて許さない」
「ほんとかなあ。本当に、キスすると負けてる?」
「ちゃんとデータは取ってある」

 むむ、と蒼井は唸った。
 響は確かにコーチに向いているかもしれない、と思い直す。
 監督のどんな叱咤激励より、一言、「負けたら寝てやらない」と響に言われるほうがよほど気合が入るのも事実だ。

 自分の間の抜けた考えに呆れる蒼井をよそに、響は腕時計に目を落とした。

「時間だーーーーーー壮平、勝ってから、いっぱいしよ」
「ゴールは死守する!」

 ふたりは額を突き合わせた。
 鼻息荒く出ていく蒼井を見送り、響もリンクへ向かった。

 END
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