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『そういや、彼氏とはうまくいってるのか?』
蒼井はハンバーガーにかぶりつきながら尋ねた。
さりげなく尋ねたつもりだったが、声はうわずっていた。
左隣にいる響を横目に見る。
響は気に留める様子もなく、フライドポテトをくわえ、
『別れた』
『え、いつ?』
『先月、かな。忙しくて、連絡取るのやめたらそれきり。もともとつき合ってるってほどでもなかったし』
『へえ、そうなんだ……』
蒼井は店内へ視線を逸らし、首筋をひと撫でした。
安堵で口元がにやけるのを抑えられない。
勢いで2個目のハンバーガーを頬張ったが、味はしなかった。
夕暮れどき、駅前のファーストフード店は混んでいた。
暖房の効いた店内と冷え込んだ外との温度差で、ガラス窓は曇っている。
蒼井と響は、通りに面したカウンター席に並んで座っていた。
8年前の冬。
20歳の蒼井と19歳の響はそれぞれ別の大学に進学していたが、レッドスターのチームメイトとして活動を共にしていた。
試合後の飢えたふたりは、トレイに山盛りのハンバーガーやフライドポテト、チキンナゲットにLサイズのドリンクを、次々と平らげていた。
1年前に別れて以来、ふたりだけで会うのは久しぶりだった。
話題が試合の振り返りに終始するなか、蒼井は意を決してプライベートに触れたのだった。
『壮平は?彼女、いるんだろ』
『ああ……おれも、別れた』
『ふうん……』
ちゅう、と音を立ててストローでコーラを吸った響は、それを置くと、頭を蒼井のほうへ傾けた。
『ねえ、壮平』
『ん?』
『これから、壮平んち遊びに行っていい?』
✳︎
ワンルームの窮屈な部屋は、熱気で満ちていた。
安物のベッドが軋み、枕元の目覚まし時計が振動で転げ落ちた。
『……響、辛いか?』
響は枕を噛んだ状態で、首を横に振った。
が、どう見ても辛そうだった。
蒼井は上へずり上がった響の身体を引き寄せると、覆いかぶさって抱きしめた。
うっかり理性を失ってしまったのを反省し、ともすると暴れようとする肉体の衝動を抑える。
『壮平、キスしよ』
『うん……』
蒼井は優しく唇を重ねた。
頭を撫でると、響は唇の隙間から甘い声を漏らした。
響の反応は、最近までほかの男とつき合っていたとは思えないほどウブだった。
蒼井の部屋に入ったとたん口数が減り、ベッドに並んで座るとそわそわし出した。抱き寄せてキスしても、身体はかちこちだった。
緊張を隠せないかれの様子に、こういう状況は久しぶりなのだと蒼井は察し、驚いた。
もしかして、彼氏がいたというのは嘘?
別れてすぐに『響に彼氏ができたらしい』と聞いたとき、おれは信じられなかった。高校時代の友人を通して響の現状は耳に入っていて、それによれば、大学に入るなり学部を超えてあちこちの男から口説かれていたらしいから、彼氏ができるのは自然だった。だが、響に限って、という思いがあった。
それを未練だと気づいたとき、おれは響を諦めようともがいた。もがく過程で彼女を作った。そんななかで、響を抱いてしまった。
明らかに嘘をついたのはおれのほうだった。彼女と別れたというのが、それだ。
『響……ごめん、抑えきかなくて』
『知ってる。そういうとこ、好きだよ』
『響じゃないと、だめだ、おれ』
そのとき、響はなにも答えなかった。それがかれの答えだったのだ。
おれたちが求める関係は最初から違った。
わかっていたのに、なぜ期待を捨てられなかったんだろうーーーーーー
✳︎
アイスリンクを後にした蒼井は、自宅マンションに帰っていた。
ソファに浅く腰かけ、前のめりになってテーブルの上に広げた書類を睨んでいる。が、その目にはなにも映っていなかった。
おれたちは2度別れ、結局はよりを戻した。
1度目が、大学のときだ。
別れた理由ははっきりしない。簡単に言ってしまえば、環境の変化。よくある話だ。
おれが先に高校を卒業し、大学生とプロ選手という過酷な二重生活がはじまった。響も受験勉強をしながら部活を続けていた。互いに忙しく、すれ違いが増えるなかで、響からの連絡が途絶えた。
最後の電話で響は言った。
『おれのことは忘れて、プレーに専念して』
その翌年、響も大学へ進学し、ストレートでレッドスターの入団試験にも合格した。
クラブでの再会は想定していたし、クラスナのアイスリンクや競技場でもその姿は何度となく見た。未練がましい態度はとらないと決めていたのに、いざチームメイトになって毎日顔を合わせるようになると、かれから目が離せなくなった。
そして、試合後のロッカールームで、おれは見てしまった。響のバッグのなかに覗いていた青いものーーーーーートロントメープルリーフスのロゴがデザインされたタオルだ。
響がそれをずっと大事にしていたのは知っていた。が、関係を解消してからも変わらず持ち歩いているとは思っていなかった。
その場で、おれは響に声をかけていた。
『腹へったな、なんか食いに行かない?』
『うん、ハンバーガー食べたい』
響の態度は意外なほどにあっけらかんとしていて、つき合っていたときのままだった。
おれが彼女と別れたのは、響を抱いた翌日だった。
2度目の別れは、2年前だ。
相談もなしに選手を引退すると決めた響と口論になった。
響はクラブにとって欠かせない軸で、なによりアイスホッケーを愛してやまないというのに、辞める理由がなかった。
『おれは選手向きじゃなかったんだ。それに、クラスナ・アイスホッケー部のコーチの給料って破格なんだぜ』
響はそんな風に軽口を叩き、本心は明かさなかった。
だが、おれにはわかっていた。
あの頃、佐田ヘッドコーチ率いるレッドスターは黄金期の絶頂にあった。観客もスポンサーも増え、絵に描いたような順風満帆だった。
そんなとき、かつてのレッドスター選手が起こした不祥事が露呈した。いじめ、喧嘩、暴行、事故、酒の席でのらんちき騒ぎ……それらをもみ消していたオーナーの聖クラスナ高校も槍玉に上がった。クラブもホッケー部も、存続の危機に陥った。
おれが移籍を考えた理由のひとつがそれだ。
おれ自身、ホッケーに集中できない浮ついた選手を何人も潰してきた。響を傷つけた連中はもちろん、氷を汚す連中はだれひとり許せなかった。佐田ヘッドコーチの就任でクラブの体質が一気に引き締まり、純粋に勝負に没頭できる環境が整ったと思った矢先、また過去に逆戻りする事態に陥ったのだ。
おれはそんなクラブなら去ればいいと考えたが、響は違った。
反対を押し切って退団届を出し、先行きの見えない聖クラスナ高校へ教師として戻った。専属コーチどころか部員すらも失ったアイスホッケー部を立て直すために。それがやがては新しいレッドスターを生むと信じて。
だがおれには、かれの決断は過去の傷を抉る行為に思えた。
そのときは、おれから連絡を絶った。
が、半年後、OBやコーチ陣との飲み会で一緒になったかれを誘ったのは、やっぱりおれだった。
「……おれって本当に情けないな」
蒼井は意を決し、スマートフォンを手に取り、電話をかけた。
相手はすぐに出た。
「佐田さん、蒼井です、お疲れさまですーーーーーーはい、返事が遅くなって申し訳ないです。契約の件、ご提示の条件で、受けます」
電話を切り、蒼井はソファに仰向けになった。
照明の眩しさに、両腕で目を覆う。
「響……おまえなしで、おれ、やっていけるかな」
✳︎
真っ赤な星マークを中央に配した旗が、音を立てて風に揺れている。
響はクラスナ・アイスリンクの正面玄関前に立ち尽くし、無表情にそれを見つめていた。
風は冷たく、ときにジャケットまでもかっさらう勢いで吹き抜けた。
ネクタイがはためき、髪が乱れる。
蒼井に別れを告げられてから2ヶ月が過ぎていた。
あっという間だった、響はそう感じた。
気づけばイチョウの葉が色づき、アイスリンクの建物を取り囲む公園は鮮やかな黄金色に染まっている。
なにもできなかった。いや、なにができたって言うんだ?
響の思いなどよそに、シーズンは順調に進んでいた。
そして、レッドスターでの蒼井の最後の試合が間もなくはじまる。
視界の端に人の気配を捉えて、響は首を少し動かした。
制服姿の長身の少年が歩み寄って来る。夏海だった。
「授業はサボらないって約束したはずだぞ」
「響さんこそサボってる。蒼井さん、本当に今日が最後なんですね」
「そうだよ」
「蒼井さんと別れるんですか?」
「赤城くん、ここが学校だってこと忘れないでくれる?」
「ここにはおれたちだけです。最後の試合、観ないんですか?」
「観る資格はない」
響は夏海から顔を逸らした。
「響さん、おれ、あなたに憎まれてもしかたないってわかってます。けど」
「憎まないよ。家族なんだから」
「でも、響さんは⋯⋯」
響は顔を上げ、今度は夏海の顔をまっすぐに見上げた。
「おれの両親は、きみのじいちゃんばあちゃん。おれの姉貴は、きみの母さんだ。みんなおれの本当の家族だよ。おれから、唯一の家族を奪うつもりか?」
「そんなつもりは⋯⋯!」
「おれが他人でよかったと思ったんだろ?きみの気持ちが救われるから」
「⋯⋯」
「上辺だけの反省なんか聞きたくもない。おれの気持ちを少しでも思いやる気があるなら、答えろ」
夏海は唇を噛み、こくりと頷いた。
「中3のときに偶然聞いて、ほっとした。好きでいていいんだと思った」
✳︎
ある寒い冬の日だった。
学校が冬休みの間、仕事がある父を札幌に残し、夏海は母とふたりで上京していた。
もしかすると響も実家に帰ってきて、しばらく一緒に過ごせるかもしれない。
そう期待に胸を膨らませていた夏海だったが、予想ははずれた。
響は顧問兼コーチとしてクラスナ・アイスホッケー部の合宿に同行し、長野にいた。
夏海はふて腐れ、リビングのこたつでごろごろする日々を過ごしていた。
その日も興味のないテレビ番組を見つつみかんを食べていた夏海は、もう一個もらおうとキッチンへ向かった。
そのとき、母と祖母の会話が耳に入った。
『あのときはお父さん、怒ってたわよね』
『響を引き取るの拒否したくせに、最低よね。お金目当てだったんでしょ?』
『そう。小さいうちは手がかかるけど、あのときはもう16歳だったから、どうにかなると思ったんでしょ。響のご両親、あの子にちゃんとお金残してあげてたから』
『妹さんだっけ、連絡してきたの?兄妹とは思えないわね』
夏海はその場では会話の内容を理解できなかった。
しばらくして理解できたとき、夏海は有頂天になった。
響にいちゃんがおばあちゃんにもおじいちゃんにも、それにお母さんにもぜんぜん似ていないのは、本当の家族じゃなかったからだ。なら、おれだって彼氏になれる、と。
✳︎
「ごめんなさい」
夏海は深々と頭を下げた。
「おれ、自分の気持ちしか見えてなくて……」
「頭上げてくれる?なんか、おれが説教してるみたいだから。ここ、教室から見えるんだよ」
夏海は慌てて頭を上げ、タワービルを振り仰いだ。
1年生の教室がある15階は思ったより近く、カーテンが開いている窓には人の姿も見えた。
そのとき、夏海は気づいた。
響の姿を見るために1年生の教室を覗くとき、大抵かれは窓の外へ顔を向けていた。それは、ただぼんやり外の様子を見ていたのではなく、アイスリンクを見ていたのだ。
タマネギ頭の屋根に覆われた氷上で戦う、蒼井の姿を想って。
「……響さん、本当にいいの、蒼井さんと別れて?」
「きみがそれを言う?」
「だっ」
「だって、はなしーーーーーーごめんね、夏海」
「なんで?」
「きみとちゃんと向き合わなかったから。おれは、蒼井壮平を愛してる。これが言えなかったんだ、ずっと」
「本人に言わないんですか?」
「そんなことより、自分の心配しろよ。おれは見た目以上にものすごく傷ついてるんだ。きみが甥っ子じゃなかったら、ホッケー部から追放してる。これは冗談じゃない。だから、命拾いしたと思って、意地でもレッドスターに入れよ」
「はい……」
「おれも罰を受けた、これでチャラにしよう……」
響はふたたびアイスリンクへ視線を戻し、風にはためく旗を見上げた。
「……なあ夏海、レッドスターに黄金期って呼ばれた頃があったのは、きみなら知ってるよな?」
「もちろん。“難攻不落の城門”。それを築いたのは、ヘッドコーチの佐田、ディフェンス黒川、ゴーリー蒼井……そうか、最後の砦だった蒼井選手までいなくなってしまった」
「そうだな」
「レッドスター、これから大丈夫なのかな」
夏海の不安げな声を聞いて、響はふふっと笑った。
夏海は怪訝な顔をして、
「どうして笑うんです?」
「いや、面白くなってきたな、と思って」
響はそう言い、にんまり笑った。
その横顔は、まるでなにかを企むいたずらっ子のようだ。
夏海は響の言葉の真意を考えたが、頭のなかにハテナが浮かぶだけだった。
一度は腕のなかに抱いたその存在が、はじめて会ったときよりもさらに遠ざかったように思えた。
もう触れることは許されない。いや、はじめから許されなかった。
氷上にいてもそうでなくても、かれは手の届かない存在だったのだ。
でも、だからこそ、おれはほしかったんだ。許されないからこそ、おれはーーーーーー
「……いつか、絶対、手に入れるから」
蒼井はハンバーガーにかぶりつきながら尋ねた。
さりげなく尋ねたつもりだったが、声はうわずっていた。
左隣にいる響を横目に見る。
響は気に留める様子もなく、フライドポテトをくわえ、
『別れた』
『え、いつ?』
『先月、かな。忙しくて、連絡取るのやめたらそれきり。もともとつき合ってるってほどでもなかったし』
『へえ、そうなんだ……』
蒼井は店内へ視線を逸らし、首筋をひと撫でした。
安堵で口元がにやけるのを抑えられない。
勢いで2個目のハンバーガーを頬張ったが、味はしなかった。
夕暮れどき、駅前のファーストフード店は混んでいた。
暖房の効いた店内と冷え込んだ外との温度差で、ガラス窓は曇っている。
蒼井と響は、通りに面したカウンター席に並んで座っていた。
8年前の冬。
20歳の蒼井と19歳の響はそれぞれ別の大学に進学していたが、レッドスターのチームメイトとして活動を共にしていた。
試合後の飢えたふたりは、トレイに山盛りのハンバーガーやフライドポテト、チキンナゲットにLサイズのドリンクを、次々と平らげていた。
1年前に別れて以来、ふたりだけで会うのは久しぶりだった。
話題が試合の振り返りに終始するなか、蒼井は意を決してプライベートに触れたのだった。
『壮平は?彼女、いるんだろ』
『ああ……おれも、別れた』
『ふうん……』
ちゅう、と音を立ててストローでコーラを吸った響は、それを置くと、頭を蒼井のほうへ傾けた。
『ねえ、壮平』
『ん?』
『これから、壮平んち遊びに行っていい?』
✳︎
ワンルームの窮屈な部屋は、熱気で満ちていた。
安物のベッドが軋み、枕元の目覚まし時計が振動で転げ落ちた。
『……響、辛いか?』
響は枕を噛んだ状態で、首を横に振った。
が、どう見ても辛そうだった。
蒼井は上へずり上がった響の身体を引き寄せると、覆いかぶさって抱きしめた。
うっかり理性を失ってしまったのを反省し、ともすると暴れようとする肉体の衝動を抑える。
『壮平、キスしよ』
『うん……』
蒼井は優しく唇を重ねた。
頭を撫でると、響は唇の隙間から甘い声を漏らした。
響の反応は、最近までほかの男とつき合っていたとは思えないほどウブだった。
蒼井の部屋に入ったとたん口数が減り、ベッドに並んで座るとそわそわし出した。抱き寄せてキスしても、身体はかちこちだった。
緊張を隠せないかれの様子に、こういう状況は久しぶりなのだと蒼井は察し、驚いた。
もしかして、彼氏がいたというのは嘘?
別れてすぐに『響に彼氏ができたらしい』と聞いたとき、おれは信じられなかった。高校時代の友人を通して響の現状は耳に入っていて、それによれば、大学に入るなり学部を超えてあちこちの男から口説かれていたらしいから、彼氏ができるのは自然だった。だが、響に限って、という思いがあった。
それを未練だと気づいたとき、おれは響を諦めようともがいた。もがく過程で彼女を作った。そんななかで、響を抱いてしまった。
明らかに嘘をついたのはおれのほうだった。彼女と別れたというのが、それだ。
『響……ごめん、抑えきかなくて』
『知ってる。そういうとこ、好きだよ』
『響じゃないと、だめだ、おれ』
そのとき、響はなにも答えなかった。それがかれの答えだったのだ。
おれたちが求める関係は最初から違った。
わかっていたのに、なぜ期待を捨てられなかったんだろうーーーーーー
✳︎
アイスリンクを後にした蒼井は、自宅マンションに帰っていた。
ソファに浅く腰かけ、前のめりになってテーブルの上に広げた書類を睨んでいる。が、その目にはなにも映っていなかった。
おれたちは2度別れ、結局はよりを戻した。
1度目が、大学のときだ。
別れた理由ははっきりしない。簡単に言ってしまえば、環境の変化。よくある話だ。
おれが先に高校を卒業し、大学生とプロ選手という過酷な二重生活がはじまった。響も受験勉強をしながら部活を続けていた。互いに忙しく、すれ違いが増えるなかで、響からの連絡が途絶えた。
最後の電話で響は言った。
『おれのことは忘れて、プレーに専念して』
その翌年、響も大学へ進学し、ストレートでレッドスターの入団試験にも合格した。
クラブでの再会は想定していたし、クラスナのアイスリンクや競技場でもその姿は何度となく見た。未練がましい態度はとらないと決めていたのに、いざチームメイトになって毎日顔を合わせるようになると、かれから目が離せなくなった。
そして、試合後のロッカールームで、おれは見てしまった。響のバッグのなかに覗いていた青いものーーーーーートロントメープルリーフスのロゴがデザインされたタオルだ。
響がそれをずっと大事にしていたのは知っていた。が、関係を解消してからも変わらず持ち歩いているとは思っていなかった。
その場で、おれは響に声をかけていた。
『腹へったな、なんか食いに行かない?』
『うん、ハンバーガー食べたい』
響の態度は意外なほどにあっけらかんとしていて、つき合っていたときのままだった。
おれが彼女と別れたのは、響を抱いた翌日だった。
2度目の別れは、2年前だ。
相談もなしに選手を引退すると決めた響と口論になった。
響はクラブにとって欠かせない軸で、なによりアイスホッケーを愛してやまないというのに、辞める理由がなかった。
『おれは選手向きじゃなかったんだ。それに、クラスナ・アイスホッケー部のコーチの給料って破格なんだぜ』
響はそんな風に軽口を叩き、本心は明かさなかった。
だが、おれにはわかっていた。
あの頃、佐田ヘッドコーチ率いるレッドスターは黄金期の絶頂にあった。観客もスポンサーも増え、絵に描いたような順風満帆だった。
そんなとき、かつてのレッドスター選手が起こした不祥事が露呈した。いじめ、喧嘩、暴行、事故、酒の席でのらんちき騒ぎ……それらをもみ消していたオーナーの聖クラスナ高校も槍玉に上がった。クラブもホッケー部も、存続の危機に陥った。
おれが移籍を考えた理由のひとつがそれだ。
おれ自身、ホッケーに集中できない浮ついた選手を何人も潰してきた。響を傷つけた連中はもちろん、氷を汚す連中はだれひとり許せなかった。佐田ヘッドコーチの就任でクラブの体質が一気に引き締まり、純粋に勝負に没頭できる環境が整ったと思った矢先、また過去に逆戻りする事態に陥ったのだ。
おれはそんなクラブなら去ればいいと考えたが、響は違った。
反対を押し切って退団届を出し、先行きの見えない聖クラスナ高校へ教師として戻った。専属コーチどころか部員すらも失ったアイスホッケー部を立て直すために。それがやがては新しいレッドスターを生むと信じて。
だがおれには、かれの決断は過去の傷を抉る行為に思えた。
そのときは、おれから連絡を絶った。
が、半年後、OBやコーチ陣との飲み会で一緒になったかれを誘ったのは、やっぱりおれだった。
「……おれって本当に情けないな」
蒼井は意を決し、スマートフォンを手に取り、電話をかけた。
相手はすぐに出た。
「佐田さん、蒼井です、お疲れさまですーーーーーーはい、返事が遅くなって申し訳ないです。契約の件、ご提示の条件で、受けます」
電話を切り、蒼井はソファに仰向けになった。
照明の眩しさに、両腕で目を覆う。
「響……おまえなしで、おれ、やっていけるかな」
✳︎
真っ赤な星マークを中央に配した旗が、音を立てて風に揺れている。
響はクラスナ・アイスリンクの正面玄関前に立ち尽くし、無表情にそれを見つめていた。
風は冷たく、ときにジャケットまでもかっさらう勢いで吹き抜けた。
ネクタイがはためき、髪が乱れる。
蒼井に別れを告げられてから2ヶ月が過ぎていた。
あっという間だった、響はそう感じた。
気づけばイチョウの葉が色づき、アイスリンクの建物を取り囲む公園は鮮やかな黄金色に染まっている。
なにもできなかった。いや、なにができたって言うんだ?
響の思いなどよそに、シーズンは順調に進んでいた。
そして、レッドスターでの蒼井の最後の試合が間もなくはじまる。
視界の端に人の気配を捉えて、響は首を少し動かした。
制服姿の長身の少年が歩み寄って来る。夏海だった。
「授業はサボらないって約束したはずだぞ」
「響さんこそサボってる。蒼井さん、本当に今日が最後なんですね」
「そうだよ」
「蒼井さんと別れるんですか?」
「赤城くん、ここが学校だってこと忘れないでくれる?」
「ここにはおれたちだけです。最後の試合、観ないんですか?」
「観る資格はない」
響は夏海から顔を逸らした。
「響さん、おれ、あなたに憎まれてもしかたないってわかってます。けど」
「憎まないよ。家族なんだから」
「でも、響さんは⋯⋯」
響は顔を上げ、今度は夏海の顔をまっすぐに見上げた。
「おれの両親は、きみのじいちゃんばあちゃん。おれの姉貴は、きみの母さんだ。みんなおれの本当の家族だよ。おれから、唯一の家族を奪うつもりか?」
「そんなつもりは⋯⋯!」
「おれが他人でよかったと思ったんだろ?きみの気持ちが救われるから」
「⋯⋯」
「上辺だけの反省なんか聞きたくもない。おれの気持ちを少しでも思いやる気があるなら、答えろ」
夏海は唇を噛み、こくりと頷いた。
「中3のときに偶然聞いて、ほっとした。好きでいていいんだと思った」
✳︎
ある寒い冬の日だった。
学校が冬休みの間、仕事がある父を札幌に残し、夏海は母とふたりで上京していた。
もしかすると響も実家に帰ってきて、しばらく一緒に過ごせるかもしれない。
そう期待に胸を膨らませていた夏海だったが、予想ははずれた。
響は顧問兼コーチとしてクラスナ・アイスホッケー部の合宿に同行し、長野にいた。
夏海はふて腐れ、リビングのこたつでごろごろする日々を過ごしていた。
その日も興味のないテレビ番組を見つつみかんを食べていた夏海は、もう一個もらおうとキッチンへ向かった。
そのとき、母と祖母の会話が耳に入った。
『あのときはお父さん、怒ってたわよね』
『響を引き取るの拒否したくせに、最低よね。お金目当てだったんでしょ?』
『そう。小さいうちは手がかかるけど、あのときはもう16歳だったから、どうにかなると思ったんでしょ。響のご両親、あの子にちゃんとお金残してあげてたから』
『妹さんだっけ、連絡してきたの?兄妹とは思えないわね』
夏海はその場では会話の内容を理解できなかった。
しばらくして理解できたとき、夏海は有頂天になった。
響にいちゃんがおばあちゃんにもおじいちゃんにも、それにお母さんにもぜんぜん似ていないのは、本当の家族じゃなかったからだ。なら、おれだって彼氏になれる、と。
✳︎
「ごめんなさい」
夏海は深々と頭を下げた。
「おれ、自分の気持ちしか見えてなくて……」
「頭上げてくれる?なんか、おれが説教してるみたいだから。ここ、教室から見えるんだよ」
夏海は慌てて頭を上げ、タワービルを振り仰いだ。
1年生の教室がある15階は思ったより近く、カーテンが開いている窓には人の姿も見えた。
そのとき、夏海は気づいた。
響の姿を見るために1年生の教室を覗くとき、大抵かれは窓の外へ顔を向けていた。それは、ただぼんやり外の様子を見ていたのではなく、アイスリンクを見ていたのだ。
タマネギ頭の屋根に覆われた氷上で戦う、蒼井の姿を想って。
「……響さん、本当にいいの、蒼井さんと別れて?」
「きみがそれを言う?」
「だっ」
「だって、はなしーーーーーーごめんね、夏海」
「なんで?」
「きみとちゃんと向き合わなかったから。おれは、蒼井壮平を愛してる。これが言えなかったんだ、ずっと」
「本人に言わないんですか?」
「そんなことより、自分の心配しろよ。おれは見た目以上にものすごく傷ついてるんだ。きみが甥っ子じゃなかったら、ホッケー部から追放してる。これは冗談じゃない。だから、命拾いしたと思って、意地でもレッドスターに入れよ」
「はい……」
「おれも罰を受けた、これでチャラにしよう……」
響はふたたびアイスリンクへ視線を戻し、風にはためく旗を見上げた。
「……なあ夏海、レッドスターに黄金期って呼ばれた頃があったのは、きみなら知ってるよな?」
「もちろん。“難攻不落の城門”。それを築いたのは、ヘッドコーチの佐田、ディフェンス黒川、ゴーリー蒼井……そうか、最後の砦だった蒼井選手までいなくなってしまった」
「そうだな」
「レッドスター、これから大丈夫なのかな」
夏海の不安げな声を聞いて、響はふふっと笑った。
夏海は怪訝な顔をして、
「どうして笑うんです?」
「いや、面白くなってきたな、と思って」
響はそう言い、にんまり笑った。
その横顔は、まるでなにかを企むいたずらっ子のようだ。
夏海は響の言葉の真意を考えたが、頭のなかにハテナが浮かぶだけだった。
一度は腕のなかに抱いたその存在が、はじめて会ったときよりもさらに遠ざかったように思えた。
もう触れることは許されない。いや、はじめから許されなかった。
氷上にいてもそうでなくても、かれは手の届かない存在だったのだ。
でも、だからこそ、おれはほしかったんだ。許されないからこそ、おれはーーーーーー
「……いつか、絶対、手に入れるから」
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異世界にやってきたら氷の宰相様が毎日お手製の弁当を持たせてくれる
七瀬京
BL
異世界に召喚された大学生ルイは、この世界を救う「巫覡」として、力を失った宝珠を癒やす役目を与えられる。
だが、異界の食べ物を受けつけない身体に苦しみ、倒れてしまう。
そんな彼を救ったのは、“氷の宰相”と呼ばれる美貌の男・ルースア。
唯一ルイが食べられるのは、彼の手で作られた料理だけ――。
優しさに触れるたび、ルイの胸に芽生える感情は“感謝”か、それとも“恋”か。
穏やかな日々の中で、ふたりの距離は静かに溶け合っていく。
――心と身体を癒やす、年の差主従ファンタジーBL。
【完結・BL】春樹の隣は、この先もずっと俺が良い【幼馴染】
彩華
BL
俺の名前は綾瀬葵。
高校デビューをすることもなく入学したと思えば、あっという間に高校最後の年になった。周囲にはカップル成立していく中、俺は変わらず彼女はいない。いわく、DTのまま。それにも理由がある。俺は、幼馴染の春樹が好きだから。だが同性相手に「好きだ」なんて言えるはずもなく、かといって気持ちを諦めることも出来ずにダラダラと片思いを続けること早数年なわけで……。
(これが最後のチャンスかもしれない)
流石に高校最後の年。進路によっては、もう春樹と一緒にいられる時間が少ないと思うと焦りが出る。だが、かといって長年幼馴染という一番近い距離でいた関係を壊したいかと問われれば、それは……と踏み込めない俺もいるわけで。
(できれば、春樹に彼女が出来ませんように)
そんなことを、ずっと思ってしまう俺だが……────。
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久しぶりに始めてみました
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■表紙お借りしました
愛してやまなかった婚約者は俺に興味がない
了承
BL
卒業パーティー。
皇子は婚約者に破棄を告げ、左腕には新しい恋人を抱いていた。
青年はただ微笑み、一枚の紙を手渡す。
皇子が目を向けた、その瞬間——。
「この瞬間だと思った。」
すべてを愛で終わらせた、沈黙の恋の物語。
IFストーリーあり
誤字あれば報告お願いします!
【完結】冷酷騎士団長を助けたら口移しでしか薬を飲まなくなりました
ざっしゅ
BL
異世界に転移してから一年、透(トオル)は、ゲームの知識を活かし、薬師としてのんびり暮らしていた。ある日、突然現れた洞窟を覗いてみると、そこにいたのは冷酷と噂される騎士団長・グレイド。毒に侵された彼を透は助けたが、その毒は、キスをしたり体を重ねないと完全に解毒できないらしい。
タイトルに※印がついている話はR描写が含まれています。
異世界転移した元コンビニ店長は、獣人騎士様に嫁入りする夢は……見ない!
めがねあざらし
BL
過労死→異世界転移→体液ヒーラー⁈
社畜すぎて魂が擦り減っていたコンビニ店長・蓮は、女神の凡ミスで異世界送りに。
もらった能力は“全言語理解”と“回復力”!
……ただし、回復スキルの発動条件は「体液経由」です⁈
キスで癒す? 舐めて治す? そんなの変態じゃん!
出会ったのは、狼耳の超絶無骨な騎士・ロナルドと、豹耳騎士・ルース。
最初は“保護対象”だったのに、気づけば戦場の最前線⁈
攻めも受けも騒がしい異世界で、蓮の安眠と尊厳は守れるのか⁉
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※現在同時掲載中の「捨てられΩ、癒しの異能で獣人将軍に囲われてます!?」の元ネタです。出しちゃった!
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