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第1話 相沢和人(アイザワ カズト)
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相沢和人(アイザワ カズト)は、どこにでもいる平凡な中学生だった。
勉強が特別できるわけでもなく、運動部で活躍しているわけでもない。クラスの中心にいるわけでも、誰かから特別に意識されているわけでもない。
ただ、ひとつだけ他の誰とも違うことがあった。
彼は毎朝、中学校1年の間、クラスで一番早く教室に来ていた。
理由は特にない。家が近いからでも、朝練があるからでもない。
ただ、早朝の静かな教室が好きだった。誰もいない空間に、朝の光が差し込むあの静けさが。
その時間、彼はいつものように花瓶に水を替え、新しい花を差し入れ、黒板を黒板消しで丁寧に拭いていく。
それを誰かに褒められたいわけでもない。ただ、自分が好きな空間を整えるのが気持ち良かった。
その日も同じだった。
早く来て、黙々と黒板を磨き、白い粉が空気に舞うのを眺める。
――ガラリ。
普段より少し早く、教室のドアが開いた。
「……あれ? もう来てたんだ、相沢くん」
振り返ると、いつもクラスの中心にいる少女がそこに立っていた。
透き通るような黒髪、整った目鼻立ち。
誰もが認めるクラス一の美少女――桐谷雫(キリタニ シズク)。
和人は思わず黒板消しを持ったまま固まる。
「お、おはよう……桐谷さん、早いね」
「ふふっ。相沢くんには負けちゃったけどね」
静かな早朝の空気に、彼女の笑みがふわりと広がる。
こんな時間に彼女が来るなんて初めてだった。
桐谷は和人の手元に視線を落とす。
「黒板、いつも綺麗だなって思ってたの。相沢くんがやってたんだね」
「え、あ、うん。まあ……」
「それに、花も。今日のカスミソウ、可愛いね。すごく似合ってる」
和人の胸がドキリと跳ねた。
ただの気遣いだろうか。それとも――。
桐谷は近づいてきて、ほんの少し顔を覗き込むようにして言った。
「……相沢くんって、ほんとに優しいよね。気づいてる?」
「え、えっと……別に、そんな……」
頬がじんわり熱くなる。
どう返せばいいのかも、どういう意味なのかもわからない。
桐谷は小さく微笑む。
「もっと、話したいな。相沢くんのこと」
そう言い残して、彼女は自分の席へ歩いていった。
一体、これはどういうことなんだ。
美少女が、自分に話しかけてきた。
褒められるどころか、意味深な微笑みまで浮かべて。
平凡で目立たない自分が、なんで。
和人の心は朝の静けさとは裏腹に、ざわざわと揺れ続けていた。
次の日も、和人はいつものように一番乗りで教室に入った。
まだ朝日が斜めに差し込むだけの静かな空間。黒板を拭く音だけが微かに響く。
昨日のことは、たまたまだ。
桐谷雫がたまたま早く来て、たまたま話しかけてきただけ。
そう思って、無理にでも心を落ち着けようとしていた。
しかし、黒板を拭き終え、花瓶の水を替えていると。
ガラリ、と扉が再び開く。
「……やっぱり、もう来てた」
雫だった。
しかも、昨日よりも少し早い。
「あ、おはよう……桐谷さん」
「おはよう。ね、相沢くん」
雫は机の間をすり抜けるように近づいてくる。
和人は思わず花瓶を持ったまま後ろへ下がった。
「そんなに避けなくてもいいのに。……嫌?」
「ち、違う、そういうわけじゃ……」
そんなつもりはないのに、雫の瞳がほんの少しだけ陰ったのが見えて、慌てて言い直す。
雫はほっとしたように微笑んだ。
「昨日の花、すごくよかったよ。今日も変えるんだね」
「う、うん。なんとなく日課で」
「ふふ。それ、好きだな」
“好き”って何度も軽々しく言うのに、彼女の声はどこか本気らしくて、だからこそ和人はまともに顔を見られない。
すると、雫は花瓶の中を覗き込み、ふわりと息を漏らした。
「……相沢くんって、ほんとに誰にも気づかれなくていいの?」
「え?」
「毎日こんなに綺麗にしてるのに、誰も知らないままなんて、もったいないよ」
そう言って、雫は和人の胸のあたりに視線を落とす。
誉めるというより、確かめるような真剣な目だった。
「わたし……相沢くんがやってること、全部知ってるの。誰よりも早く来て、黒板をきれいにして、花を選んで……」
「そ、それって、どうして……?」
雫は答えず、にっこり笑った。
「秘密。ね、言ったでしょ? もっと話したいって」
その言い方は、まるで和人だけに向けた合図のようで。
距離が近くなるたびに、心臓が音を立てて暴れる。
雫は続けて、背中に隠すようにしていた紙袋を差し出した。
「はい、これ。パン屋さんのクロワッサン。朝早い人にぴったりだと思って」
「ぼ、僕に?」
「うん。内緒だよ。……二人だけの」
その一言が、教室の空気を変えた。ほんのりとバターの香り。彼女と一緒で和人の心をくすぐる。
こんなやり取り、誰かに見られたら絶対に誤解される。
でも、見られない。まだ誰も来ない早朝だから。
雫は椅子の背に触れながら、少し照れたように視線を落とす。
「ねぇ、相沢くん。明日も……早く来るよね?」
「……たぶん」
「よかった。じゃあ、明日も来るね。秘密の時間」
そう言い残して、彼女は自分の席へ向かう。
その横顔は、クラスの人気者らしく明るくて、でもどこか秘密を抱えた人のように見えた。
和人はクロワッサンの袋を見つめたまま、しばらく動けなかった。
――どうして、僕なんかに。
そう思いながらも、明日の早朝のことが頭から離れなくなっていた。
勉強が特別できるわけでもなく、運動部で活躍しているわけでもない。クラスの中心にいるわけでも、誰かから特別に意識されているわけでもない。
ただ、ひとつだけ他の誰とも違うことがあった。
彼は毎朝、中学校1年の間、クラスで一番早く教室に来ていた。
理由は特にない。家が近いからでも、朝練があるからでもない。
ただ、早朝の静かな教室が好きだった。誰もいない空間に、朝の光が差し込むあの静けさが。
その時間、彼はいつものように花瓶に水を替え、新しい花を差し入れ、黒板を黒板消しで丁寧に拭いていく。
それを誰かに褒められたいわけでもない。ただ、自分が好きな空間を整えるのが気持ち良かった。
その日も同じだった。
早く来て、黙々と黒板を磨き、白い粉が空気に舞うのを眺める。
――ガラリ。
普段より少し早く、教室のドアが開いた。
「……あれ? もう来てたんだ、相沢くん」
振り返ると、いつもクラスの中心にいる少女がそこに立っていた。
透き通るような黒髪、整った目鼻立ち。
誰もが認めるクラス一の美少女――桐谷雫(キリタニ シズク)。
和人は思わず黒板消しを持ったまま固まる。
「お、おはよう……桐谷さん、早いね」
「ふふっ。相沢くんには負けちゃったけどね」
静かな早朝の空気に、彼女の笑みがふわりと広がる。
こんな時間に彼女が来るなんて初めてだった。
桐谷は和人の手元に視線を落とす。
「黒板、いつも綺麗だなって思ってたの。相沢くんがやってたんだね」
「え、あ、うん。まあ……」
「それに、花も。今日のカスミソウ、可愛いね。すごく似合ってる」
和人の胸がドキリと跳ねた。
ただの気遣いだろうか。それとも――。
桐谷は近づいてきて、ほんの少し顔を覗き込むようにして言った。
「……相沢くんって、ほんとに優しいよね。気づいてる?」
「え、えっと……別に、そんな……」
頬がじんわり熱くなる。
どう返せばいいのかも、どういう意味なのかもわからない。
桐谷は小さく微笑む。
「もっと、話したいな。相沢くんのこと」
そう言い残して、彼女は自分の席へ歩いていった。
一体、これはどういうことなんだ。
美少女が、自分に話しかけてきた。
褒められるどころか、意味深な微笑みまで浮かべて。
平凡で目立たない自分が、なんで。
和人の心は朝の静けさとは裏腹に、ざわざわと揺れ続けていた。
次の日も、和人はいつものように一番乗りで教室に入った。
まだ朝日が斜めに差し込むだけの静かな空間。黒板を拭く音だけが微かに響く。
昨日のことは、たまたまだ。
桐谷雫がたまたま早く来て、たまたま話しかけてきただけ。
そう思って、無理にでも心を落ち着けようとしていた。
しかし、黒板を拭き終え、花瓶の水を替えていると。
ガラリ、と扉が再び開く。
「……やっぱり、もう来てた」
雫だった。
しかも、昨日よりも少し早い。
「あ、おはよう……桐谷さん」
「おはよう。ね、相沢くん」
雫は机の間をすり抜けるように近づいてくる。
和人は思わず花瓶を持ったまま後ろへ下がった。
「そんなに避けなくてもいいのに。……嫌?」
「ち、違う、そういうわけじゃ……」
そんなつもりはないのに、雫の瞳がほんの少しだけ陰ったのが見えて、慌てて言い直す。
雫はほっとしたように微笑んだ。
「昨日の花、すごくよかったよ。今日も変えるんだね」
「う、うん。なんとなく日課で」
「ふふ。それ、好きだな」
“好き”って何度も軽々しく言うのに、彼女の声はどこか本気らしくて、だからこそ和人はまともに顔を見られない。
すると、雫は花瓶の中を覗き込み、ふわりと息を漏らした。
「……相沢くんって、ほんとに誰にも気づかれなくていいの?」
「え?」
「毎日こんなに綺麗にしてるのに、誰も知らないままなんて、もったいないよ」
そう言って、雫は和人の胸のあたりに視線を落とす。
誉めるというより、確かめるような真剣な目だった。
「わたし……相沢くんがやってること、全部知ってるの。誰よりも早く来て、黒板をきれいにして、花を選んで……」
「そ、それって、どうして……?」
雫は答えず、にっこり笑った。
「秘密。ね、言ったでしょ? もっと話したいって」
その言い方は、まるで和人だけに向けた合図のようで。
距離が近くなるたびに、心臓が音を立てて暴れる。
雫は続けて、背中に隠すようにしていた紙袋を差し出した。
「はい、これ。パン屋さんのクロワッサン。朝早い人にぴったりだと思って」
「ぼ、僕に?」
「うん。内緒だよ。……二人だけの」
その一言が、教室の空気を変えた。ほんのりとバターの香り。彼女と一緒で和人の心をくすぐる。
こんなやり取り、誰かに見られたら絶対に誤解される。
でも、見られない。まだ誰も来ない早朝だから。
雫は椅子の背に触れながら、少し照れたように視線を落とす。
「ねぇ、相沢くん。明日も……早く来るよね?」
「……たぶん」
「よかった。じゃあ、明日も来るね。秘密の時間」
そう言い残して、彼女は自分の席へ向かう。
その横顔は、クラスの人気者らしく明るくて、でもどこか秘密を抱えた人のように見えた。
和人はクロワッサンの袋を見つめたまま、しばらく動けなかった。
――どうして、僕なんかに。
そう思いながらも、明日の早朝のことが頭から離れなくなっていた。
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