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 私、イレイナが婚約を結んだのは四十年ほど昔の話。
 今でも彼が告白してくれた日のことを鮮烈に覚えています。

 貧しい家の生まれであった私は、食事を求めて街を彷徨っていました。
 足取りはおぼつかなくて、ずっとフラフラ。

 正直、もう自分はダメだと思っていました。
 婚約者に逃げられ、借金まで背負わされたのです。

 もう、絶望のどん底。

「君、名前は?」

 優しい、包み込むような声音。

 地面ばっか見ていた視線を上に向けると、そこにはビジョン男爵が白馬に乗って私を見下ろしていました。
 とても端正な顔つきで、彼の翡翠色の瞳を見つめていると、思わずクラクラしてしまったのを覚えています。

「イレイナです……。あの、どうして男爵様がこんなところに?」

 私が住んでいた村は、男爵領の端にありました。
 屋敷からかなり離れているものだから、どうして男爵様がいるのか理解できなかったのです。

 しかし、どうやら貧困化が進んでいる村があると聞きつけたので、慌てて走ってきたと仰られました。
 ふと気になって彼の周りを見渡してみたのですが、従者が一人もいません。

 それを指摘すると、

「ははは、忘れていたよ」

 そんなのありえるわけないでしょ! と思わず言ってしまい、慌てて口をつぐみます。
 相手は男爵様。こんな無礼を働いてしまえば、処刑されてもおかしくありません。

 ですが、彼は笑って言いました。

「面白いことを言うね。ところでイレイナさん、せっかくなのでこの村の復興を共に協力して行わないかい? 長い月日がかかりそうだから、しばらくご一緒することになると思うけれど」

 どうしようもなく遠回しで、彼らしい言い回し。
 ですが、私は察しがいいのですぐに了承しました。

 いつの時代の女の子も、白馬の王子様に憧れるはずです。
 正直、本当に嬉しかった。

 まるで、昔話に出てくるお姫様のようだと思ったからです。
 それから私達は両親に挨拶をしに行き、すぐに彼の屋敷に向かいました。

 そこで村の情報を伝え、これからどうするべきか提案をしました。

「こんな見ず知らずの男に色々と教えてくれてありがとう。後は僕に任せて、君は食事でも――」
「私も手伝います!」

 叫ぶと、彼は目を丸くした。

「君は優しいんだね」

 言いながら、男爵様はそっと私の手を握ってくれました。
 温かい……。とても、落ち着く温もり。



 そして四十年が経過し、村が平和になった今でも彼は時折私の手を握ってくれます。

 屋敷の敷地内の静かな庭園にて。

 木製の丸机を間にはさみ、シワだらけの顔をお互いじっと見つめ合う。
 微かに男爵様は口を動かして、

「僕は絶対に婚約破棄なんてしない。この命尽きるまで、君を愛すると誓うよ」

 一日に何度も、この言葉を私に伝えてくれるのです。
 私に婚約指輪を手渡した際の、告白のセリフを。

「婚約破棄? 男爵様、本日五回目ですよ」

 続けて、いつもこう答えます。
 あの時と同じように。

「そんなこと言わなくても、私は信じていますから」
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