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第3章
アナベルという存在【ノア視点】
しおりを挟む早足で逃げ去ったアイシャを見つめ、ノアの口から笑いがこぼれる。
(本当、おもしろい令嬢だよ)
リアムに婚約者候補を降りるとは言ったが、アイシャを手に入れられない悔しさが、ずっとノアの胸に燻り続けていた。少しくらい意趣返しをしても良いだろうと思ってしまうのも仕方がない。
アイシャと過ごす未来は、予想外の連続にあふれ、希望に満ちていただろう。しかし、リアムを敵に回すことだけは避けなければならなかった。右腕として己の治政には、キースと共に必要な人材だ。
アイシャを諦めることで、あの二人に恩を売っておくことは『白き魔女』を手に入れることで得られるメリットより遥かに大きい。
「ノア王太子殿下、この度は誠に申し訳ありませんでした。アイシャ様との時間を潰してしまい」
アナベルの言葉に彼女の方を向くと、愁傷な様子でうつむき、肩を落としている。
「いいや。どうせアイシャが強引に連れて来たのだろうし、貴方に非はないよ」
「アイシャ様は不思議な方ですね。初めてお会いした時は、礼儀がなっていない令嬢だと思いましたが、船旅でお会いして腹を割ってお話してみると、とても素敵な女性だと分かりました」
「まぁ、あの夜会での出来事は、彼女にとって不可抗力だったわけだしね」
「そのようでございますね。御三方に嵌められたと、怒ってらしたわ」
「そうか……、怒っていたか。アイシャらしいね」
アイシャと踊った初めてのダンスを思い出し、笑みが浮かぶ。キャパオーバーを起こし、二回目のダンスの時には、放心状態だったアイシャ。王太子相手に、あんな投げやりな態度をとるのはアイシャくらいなものだ。
「そうですわね。王太子殿下からのダンスのお誘いは名誉あることですから。普通の令嬢は泣いて喜びますわ」
「まぁ、普通はそうだろうね」
「えぇ、普通はそうです。でも、アイシャ様は違う。あの型破りな生き方は、普通にしか生きられない者には眩しくうつります。未婚の時は両親に従い、結婚してからは夫に従い、自身の意思を抑え込み生きて行くしかない貴族令嬢から見たら、己の意思をつらぬくアイシャ様の生き方は、うらやましくもあります。誰しもが自分にないものを持つ者に惹かれる。わたくしも、いつしか彼女の魅力の虜になっておりました。ノア王太子殿下もそうだったのではありませんか?」
己を真っ直ぐに見つめ紡がれるアナベルの言葉がゆっくりと胸に染み渡る。
確かに、アイシャに惹かれていた。愛していたと言っても過言ではない。
今思えば、彼女の考え方、生き方に惹かれていたのだろう。あの自由な生き方に、憧れもあったのかもしれない。王太子の立場では絶対に叶わない自由な生き方に……
「あぁ、確かに特別な感情を抱いていたのは確かだ。しかし王太子である以上、愛だの恋だのと、己の感情だけで動けば国が傾く。国民の命を守り、安寧な治政を築くことこそ、王族の最も重要な責務である。愚かにも、己の感情に従い、滅んでいった王族達に、名を連ねることだけは避けたいしね」
「ノア王太子殿下の志は素晴らしいものですが、それではあまりにお辛くありませんか? アイシャ様は、リアム様とキース様にも求婚されています。そんな御三方のやり取りを見ているのは、お辛いはずです」
今後巻き起こるであろう三人のやり取りを、アイシャへの感情を押し殺し見守るのは辛いことだろう。三人の仲を引っかき回してやりたいと考えるほどには悔しい。
「志なんて大したものではないのだよ。私が治める世が思い通りに進めば、それでいい。貴方との婚約を反古にしたのも、アイシャとの結婚がもたらすメリットが貴方と婚約するよりも大きかったからだ。しかし情勢が変わった今、アイシャを手に入れることで起こるデメリットの方が大きくなった。だから諦める。ただ、それだけの事さ」
目の前に座るアナベルの瞳に涙がたまり、耐えかねたのか俯いてしまう。しかし、アナベルが泣こうが、感情が動くことはない。アイシャとの結婚が絶たれた今、誰と結婚しようが、自分にとってはどうでもいい。
「アナベル、君が望もうが望むまいが関係なく、私との婚約は近々発表されるだろう。それは、リンゼン侯爵家から妃を娶るメリットが、一番大きいからだ。それ以外の感情はいっさいない」
我ながら酷いことを言っていると思う。アナベル自身には全く興味はなく、リンゼン侯爵家との姻戚関係を結ぶメリットのみで、婚約すると言っているのだから。
(まぁ、そんなことは侯爵令嬢である彼女なら、百も承知だろう)
アナベルとノアは幼なじみでもある。小さな頃から王太子妃候補として王城に来ていたアナベルとは、お茶会などでも、よく顔を合わせていた。妃候補の令嬢達の中でも抜きん出て優秀だったアナベルは、凛とした立ち姿もあり、どこか近寄り難い印象が幼い頃からあった。
その冷たく冷静な瞳で見つめられると己の中の弱い部分を見透かされているようで、ノアは昔からアナベルが苦手だった。アナベルが王太子妃候補筆頭となった後も、二人きりで会うのを避けていたのは、彼女に対する苦手意識からだったのだろう。しかし月日は流れ、なかなか婚約者を決めないノア王太子に対し、高位貴族から圧力がかかった。
あっという間にアナベルとの婚約話が進み、婚約目前となった時、アイシャが『白き魔女』としての力を復活させたことを知った。
チャンスだと思った。
苦手意識の強いアナベルと婚約せずに済む。それだけではない。恋心を寄せているアイシャを妻に出来るかもしれないと、舞い上がった。だからこそ、夜会で強引な行動にも出た。
(それも、すべて無駄に終わってしまったわけか……)
アイシャを手に入れられない悲しみが、今も心の奥底で燻り続けている。
「ノア様がわたくしをずっと疎ましく思っていたのは知っております。でも、でも……、わたくしはずっとノア様だけをお慕いして参りました。貴方のことだけを思い、役に立ちたい一心で辛い妃教育にも耐えてきた。貴方の横に立つのに相応しい令嬢になるためだけに必死に生きてきた。ノア様が好きだったから――――」
肩を震わせ泣く目の前のアナベルからは、凛として佇み、己の深淵を暴かれるような、そんな恐怖感は感じられない。肩を小さく丸め泣くアナベルを見つめ、なぜ自分はこんなにも彼女に苦手意識を持っていたのかと不思議にさえ思う。
(もっと早く、アナベルと向き合っていれば、彼女の違う一面が見られたのだろうか……)
そんなことを漠然と考えていたノアは、うつむき肩を震わせ泣いていたアナベルの瞳に強い意思が宿るのを目の当たりにして、ハッとする。
「今はリンゼン侯爵家と姻戚関係を結ぶためだけの婚約で構いません。アイシャ様を忘れられなくても構わない。あの方を忘れるためにわたくしを利用なさいませ。いつか、貴方様の心ごと掴んでみせますから!」
ハラハラと涙を流しながらも、強い意思を宿し、煌めく瞳に魅せられる。
アナベルもまた、アイシャと出逢ったことで、強い意思を持つ女性へと生まれ変わったのだろうか。
キラキラと輝く瞳を見つめ、ノアはそんな事を感じていた。
(アナベルと築く未来も、悪くないのかもしれない……)
弱さを見せ、己の胸の内をさらけ出したアナベルには、昔感じていた苦手意識はもう感じない。
テーブルに置かれた白く美しい手に、手を重ねる。
「今のアナベルと築く未来は、希望にあふれているのだろうか?」
「えぇ。わたくしがノア様の御心を変えてみせますわ。わたくしと築く未来を、後悔なんてさせない」
瞳を輝かせ紡がれる言葉がノアの冷え切った心を温めてくれる。
「――――っ! ノア様、笑って……」
「えっ?」
「初めてです。ノア様が笑ってくれた……」
アナベルの煌めく瞳にみるみる涙が溜まっていく。
涙を堪え、笑うアナベルの表情は美しい。
そっと手を伸ばしたノアは、アナベルの瞳に浮かぶ涙を拭い、彼女の手に手を重ね、言葉を紡ぐ。
「貴方と築く未来でも、その笑顔が見たい」
「えぇ。もちろん……」
アナベルと築く未来。
いつの日か、醜く濁った心を解放してくれる希望に、彼女がなってくれる。
ハラハラと涙を流す美しい笑顔を見つめながら、己の心の中で燻り続ける狂気が、わずかに癒される気がしていた。
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