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時計の針が動き出すとき
夕闇に沈むビル群。都心の一等地に立つビルの中でも一際大きく洒落た外観の建物を見上げ、美咲はただただ圧倒されていた。
(この十年で、こんなに成長するなんて詐欺よね)
静香に連れられやって来た廉の芸能プロダクションの自社ビルを見上げ、美咲は驚きからため息をこぼす。
廉の隣に並び立つにふさわしい女性になるべく必死に働いてきた美咲に突き付けられる現実は、あまりにも圧倒的だった。やっと雲の上の存在に手がかかり雲の上に出てみたら、さらに上界がありましたという感じだ。
(がんばって廉に追いつこうとしているのに、さらに上を行く急成長を果たさなくてもいいじゃない。本当、嫌になる)
不貞腐れ気味に、そんなことを考えていた美咲の耳に静香の呆れ半分の笑い声が聴こえる。
「ふふふ、そんなに驚くことないじゃない。明日から、美咲さんが働く職場よ」
「うっ……、まぁ、そうですけど。ところで、静香さん。廉は私があなたの後任に入ることを知っているのですか?」
「知るわけないじゃない」
「えっ!? 本当ですか?」
「だって、その方が面白そうだったから」
十年前と変わらない意地悪な物言いに、美咲は憮然とする。
(ムキになれば、静香さんの思う壺。平常心、平常心……)
昔からこんな人だったと思い直し、無視を決め込む。しかし、静香の言葉は止まらない。
「彼ったらね、後任を誰にするかも、引き継ぎも、全部私に丸投げなのよ。長い付き合いだからって、社長付き秘書の選出よ。社長の女房役として仕事は多岐に渡るし、あの仕事量じゃ、かなり優秀でないと務まらない。会社の成長に大きく関わる人材の選出に、全く無関心ってどうなのよ! って感じね。数日前に、今日後任秘書を連れて来るって言っても何の興味もないのか、上の空よ。まぁ、ただのスケジュール管理と手配くらいしか、任せるつもりがないのかもね」
「……左様ですか」
美咲を無視して上機嫌に話を続ける静香を見て呆れてしまう。
策略を巡らし、相手を陥し入れるのが大好きな人。まぁ、高校生の無知な美咲は、まんまと引っ掛かった訳だが。
美咲の脳裏を苦い過去がよみがえり、苦笑をもらす。
「あら? どうしたの? そんな、目で見て」
「いいえ。昔の苦い経験を思い出したもので。あなたに嵌められた過去を、ね。誤解しないで下さい。当時のことはもう吹っ切れていますから。今の私は、当時あなたがした事の意味をきちんと理解しています。ビジネスとして、そうせざる負えなかった現実も分かりますから。でも、当時の静香さんと同じ立場でも、同じ事をしようとは絶対に思いませんけど」
「本当、可愛くない。それだけ社会の荒波に揉まれて来たってことなのね。正攻法で攻めるには、なかなか生き難い業界で、成果を上げて来ただけのことはあるわ。今のあなたになら、安心して廉を返せるわ。やっと……、私の役目も終わるのね」
どこか吹っ切れたような呟きと共に、静香が天を仰ぐ。
「確か、近々、遥と結婚だとか?」
「えぇ、一ヶ月後よ。ぜひ、廉と一緒に挙式に参加してね。ブーケトスは、あなた目掛けて、顔面にぶつけてあげるから。きちんと受け取りなさいよ」
「ふふふ、ありがとうございます」
そんなセリフを残し、静香が歩き出す。その後に続き、エントランスを抜け、エレベーターに乗り、向かうは最上階、社長室。最上階フロアにある秘書室を横目に、奥にある社長室へ向かうと静香が扉をノックした。
「静香です。入ってよろしいかしら?」
「――あぁ」
廉の声……
十年振りに聞いた廉の声は、美咲が知っている低く、少し甘いバリトンボイス。そこに年相応の艶が加わっているように感じ、懐かしさから堪らなくなる。
静香が一人社長室へと消え、美咲は扉の前で待つ。
とうとう、会える。
十年振りに会う廉は、どんな変貌を遂げているのだろうか?
同じ業界にいながら、不思議なくらい一度も会わなかった。あえて接点を持たないようにもしていた。
廉に会ってしまえば、すべてをあきらめ、また逃げ出してしまうような気がした。
弱い自分には戻りたくなかった。だから、同じ業界にいながら、避けていた。
だけど、もうそんな必要はないのだ。
廉に会えると思うだけで胸が高鳴り、破裂しそうなほど脈うつ。
疾走していく心臓の音を聴きながら、美咲は待つ。その時――――
「――――、どうぞ」
扉から現れた静香の悪戯な目が、美咲をとらえる。
(完全に、面白がってるわね)
きっと、今の私の顔は、廉に会える喜びで完全に緩んでいることだろう。
美咲は緩みそうになる顔を必死に保ち、静香の後に続き、室内へと入った。
大きな窓から差し込む夕陽を背にたたずむ廉。
「――――っ、美咲なのか?」
少し上擦った甘いバリトンボイスが、美咲の名を呼ぶ。
大きな窓から差し込む夕陽で影となり、美咲から廉の表情までは、わからない。しかし、純粋な驚きをのせた声に、美咲の心も喜びで弾んだ。
美咲の顔に自然な笑みが浮かぶ。それは、それは美しく、誰をも魅了する幸せに満ちた笑顔が。
「廉、久しぶりね……」
十年間、この日のためだけに生きて来た。
再び、廉に会える日を夢見て、それだけを支えに努力をしてきた。
十年前にとまった廉との時間が、今動きだす。
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