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傾き出す心

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『ピンポン』

来客を告げるチャイムの音が室内に響き、ビクッと肩が震える。部屋に備え付けのモニターを確認すれば、ラフな格好の橘真紘が画面に映し出されていた。

ーーーあぁぁ、来てしまった。

昨日の今日なので、昨夜彼としたやり取りは覚えている。しばらくの間、一緒に住む事を了承したのも自分の意思だった。間違っても強要された訳ではないのに、何故か釈然としない。昨日の私の精神状態は正常ではなかった。橘に助けられた事で、彼に対する気持ちが変な方向へと振り切れていたに違いない。あんなにも彼の存在に安堵して、胸がドキドキするなんてどうかしていた。あと先考えず、気づいたら一緒に住む事を了承していた。異常な精神状態だったからこそ、巧みな誘導にまんまとハマってしまったとしか言えない。

ーーーまだ、断る事は可能だろうか?

そんな事をウジウジと考えていれば、その考えを打ち消すように再度、チャイムが鳴らされた。

「はい。待って今開けるから」

玄関扉を開けば、爽やかな笑顔で此方を見つめる橘と目が合う。

「おはよ。準備出来てる?」

「あっ!その事なんだけど………」

「えっ⁈まさか、今さら行かないとか言わないよね?この部屋にいる危険性を理解してない訳じゃないよな」

「ははっ、まさかぁ~
ちゃんと理解しているわよ。今さら行かないなんて言いません。まだ、準備が出来てないって言うつもりだっただけです」

私を見つめる彼の胡乱うろんな眼差しを避けるように、ゆっくりと視線を逸らす。負けず嫌いな性格が災いして、結局同居する事を断れなかったなんて、本当に自分の性格が嫌になる。どうしても橘を前にすると素直になれない。意地を張ってしまう。出会いが最悪だっただけに、意固地になってしまうのかもしれない。そんな所も分かった上で、彼の思惑通りに誘導されている様で面白くない。

「準備?あぁ、仕事着と普段着が数着あれば充分だよ。あと必要なモノはこれから買いに行くし。入っていい?」

「えぇ………」

扉を後ろ手に閉めた橘が、ズカズカと部屋に入って来るとクローゼットを開け、ハンガーに掛かっていた仕事用のスーツ数着と服をスーツケースに詰めていく。唖然とその様子を眺めている内に荷造りが済んでしまう。

「他に必要なモノある?」

「………えっと、ない」

「じゃ、行こうか。足りないモノがあればいつでも取りに来ればいいし、直近で困らなければ問題ないでしょ」

ものの数分で準備が終わり、手を繋がれ玄関を出る。あまりの手際の良さに、為されるがまま気づけば彼の車の助手席に乗っていた。

「えっと、なんか腑に落ちないんですけど………」

「はははっ、本当は一緒に住むの断ろうとしてたでしょ?真面目な性格の鈴香が、何の準備もしてないなんて、同居するつもりがあれば有り得ない事でしょ。だから、逃げられないようにした。もう、車に乗っちゃったし諦めなね」

「………強引なんですけど」

「昨日、了承したのは鈴香でしょ。一度交わした約束を直ぐに反故するのは大人としてどうかと思うよ」

「うっ、そんな事思ってないもん」

7歳も歳下の男に、ワガママな子供をなだめるように諭され恥ずかしくなる。

「なら、俺と一緒に暮らすのに異論はないよね?」

「はい、ありません。お世話になります」

「素直でよろしい、鈴香ちゃん」

「もぅ‼︎子供扱いしないでよ!」

軽やかに車を走らせる橘の横顔をキッと睨むが、前を向きクスクスと笑う奴には全く届かない。

「ははっ!往生際が悪いんだよ。まぁ、そんな所も可愛いだけだけど」

「なっ!………」

サラッと言われた可愛いの一言に、みるみる頬が熱くなっていく。

「耳まで赤くなってるけど………
本当、そういうとこも可愛いよな」

スルッと耳を撫でられ、肩がビクッと震える。首をすくめ振り向けば、隣に座る彼と目が合い、心臓が激しく高鳴り出す。

赤信号で止まった一瞬の出来事だった。

唇に感じた熱が、車が動き出すと同時に離れていく………

「嫌がる事はしないって言った」

「キス、嫌だったの?」

「そんなこと………」

嫌とは言えなかった。

少し意地悪だけど優しさが見え隠れする言葉と行動を取られる度に、彼の存在が心の中で大きくなっていく。

上辺だけではない言葉の数々は、私の性格や考え方、生き方まで理解した上で発しているものだと分かる。

彼はいつから私の事を見ていてくれたのだろうか?

『………何をしていても、誰と一緒にいても考えるのは鈴香の事ばかり。自尊心がどうとか、勝ち負けがどうとか、そんなのどうでもいい。会いたい、話したい、時間を共有したい、一緒にいたい、ただそれだけなんだ………』

恋人ごっこを終わらせたあの日、彼が言った言葉は本心だったのかもしれない。

彼の内面を知る度に、少しずつ傾いていく心を認めるしかなかった。




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