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過去に囚われる

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 滲む視界に、霞む思考。

 火照った身体とボーッとする頭に上手く状況が掴めない。無理矢理身体を起こそうとしてグラっと回った視界に起き上がる事もままならない。ベッドに深く沈み込み、自身の体調の悪さの原因を探る。

 最近は飲みにも行っていない。きっと二日酔いではないだろう。しかし、吐き気と身体のだるさに、額に手を当ててみればどうやら熱もあるようだ。

 風邪でも引いたのだろうか?

 近くに置いてあったスマホを手に取ると課長宛にメールを打つ。繁忙期に仕事を休む事への罪悪感が脳裏を掠めるが、徐々に酷くなる頭痛に休まざる終えないと判断した。欠勤理由を手短に添え、メールを送信する。

 体調の悪さの原因などわかり過ぎるくらい分かっている。

 結局、自身の精神状態に左右され無理をした結果、皆に迷惑をかける事になってしまった。橘への想いを紛らわせるため仕事に没頭してキャパオーバーを起こすなんて社会人としても自己管理が出来ていないと言わざる負えない。

 本当、何をやっているのだ。

 明日香にも忠告されていたのに、友の話にも耳を貸さなかった。結果、沢山の人に迷惑をかける事になった。自分の性格が嫌になる。

 しかも、元彼から送られてきたメールが私を苦しめる。

『この写真をばら撒かれたくなければ、分かっているよな』

 陳腐な文面と共に送られて来た数十枚の画像。明らかに盗撮と思われる写真の中に混じっていた課長と抱き合っているかの様な構図の写真を見て血の気が引いた。

 写真の服装から、数日前に二人で飲んだ帰り道で盗撮された物だと分かった。もちろん課長とは男女の関係になったことすらない。酔った勢いで、詰め寄った瞬間を抱き合って見える様に撮られてしまったのだと思う。

 こんな写真一枚でも、場合によっては課長に迷惑をかける事になる。不倫をしているだなんて噂にでもなれば、真奈実にも顔向け出来ない。

 なんて酷いゲス男なの‼︎

 そんな男を盲目的に愛していただなんて、過去の自分の愚かさに吐き気がする。

 以前にも真奈実から元彼の事で言われた事があった。

『どうして、私の忠告を聞いてくれないの!二人の事を客観的に見ているからこそ分かる事もあるのよ。貴方は彼氏が絡むと盲目的になる。だからこそ、他人から受けた忠告は素直に聞くべきなのよ。もちろん、その忠告を踏まえた上で、貴方が正しいと思う方を選択すればいい。彼氏を信じたいと思うならそれでもいい。ただ、他人の忠告を聞かず耳を塞ぐのは間違っているわ。だから、よく考えて、貴方の事が大切だから耳に痛い事でも言うのよ』

 本当に彼女達の言う通りだ。私の事を思い何度も何度も助言や忠告をしてくれたのに耳を貸さなかった。今だって、自分で自分を追い込み、心身共にボロボロになっている。

 自分の性格が嫌になる……

 もっと自分の気持ちに正直になっていたら、もっと友の忠告を素直に聞いていたら、こんなにも自身を追い込む結果にはならなかったのかもしれない。

 ただそれが出来ない。

 自分でも不思議なくらい恋人を盲目的に信じてしまう。いや、違う……

 怖いのだ。ひとりぼっちだった自分に戻るのが怖かった。昔の記憶が私を縛る。良い子のフリをして、恋人が望む女を演じ、捨てられないように彼の要求のまま、都合の良い女を演じる。

 分かっているのだ。過去の自分に囚われて身動きが取れないなんて馬鹿気ていると。ただ、あの時の自分には戻りたくなかった。

 恋愛とは無縁の生活。周りの友に次々と恋人が出来ていく中で、自分だけひとり取り残されていく感覚。陰で馬鹿にされていたのも知っていた。決して恋に興味が無かった訳ではない。きっと誰よりも恋に執着していたのだ。

 そんな中、初めて出来た恋人。

 全てが特別だった。一緒に過ごすありきたりな日常ですらキラキラ輝いて見えた。

 失いたくなかった……

 だから、友の忠告に耳を塞いだ。

 彼女達の言葉が正しい事なんて分かっていた。彼との関係を続けていても何の意味もないと心の底では気づいていた。

 彼が心を入れ替え、私を愛してくれる事なんて無い事も、彼の囁く甘い言葉が全て偽りだと分かっていても、自ら別れを切り出す勇気だけはなかった。

 あの時、友の忠告を聞いていたら何か変わったのだろうか?

 きっと変われなかった。同じ事の繰り返しだっただろう。執着する相手が元彼から別の男に変わるだけだ。新しい恋人に合わせ、捨てられないように自身を偽る。そんな空虚な関係が続くだけ。

 ただ、『橘真紘』の存在だけは違うのかもしれない。

 私の心に強烈な印象を刻み込んだ男。

 元彼との別れに未練はない。あんなに執着していたのが嘘のように、思い出す事すらなくなった。

 良い意味でも悪い意味でも『橘真紘』という存在が心に与えた影響は絶大だった。元彼に支配されていた心を見事にぶち壊し、自身の存在を刻み込んだ。

 彼の前では、怒り、悲しみ、喜び、あらゆる感情を曝け出す事が出来た。ありのままの自分でいられたのだ。幼く、未熟な心を隠すため取り繕っていた仮面を剥がされ、弱く、脆い本来の私を暴かれる。誰にも見せた事のない本性を曝け出せる存在など今までいなかった。

 だからこそ特別な存在になっていた。

 忘れる事など出来ない……

 自ら別れを切り出しておいて、未練がましく彼を想い続けるなんて自身の行動の馬鹿さ加減に嫌気がさす。

 あの夜別れを切り出さなければ、あの居心地の良い場所は今でも私のモノだったのだろうか。

 瞳を閉じれば溢れ出した涙が頬を伝い、堂々巡りの思考を、訪れた闇が霧散させてくれた。





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